2003.4「沖縄通信」

 沖縄の基地は静まりかえっていた。私が沖縄を訪れたのは米英軍のイラク侵攻(実体は侵略ですが)の5日前の3月15日でした。瞽女(ごぜ)と呼ばれる102歳の旅芸人小林ハルさん(人間国宝)を鉛筆で描く木下晋さんの展覧会に立ち会うために佐喜真美術館にいました。軍のフェンスに囲まれた美術館は恐らくここだけではないでしょうか。
東京で針灸師をしていた佐喜真道夫さんはケーテ・コルビッツの版画を収集するなどコレクターでしたが、丸木位里、俊夫妻の「沖縄戦の図」(4mX8,5m)に出会い、この作品を展示する美術館建設を自らの使命として、米軍に接収されていた先祖の土地を米軍や那覇防衛施設局と直談判、三年の交渉の末、約千八百平方メートルを返還させました。宜野湾市のど真ん中を占拠する米軍普天間飛行場に楔(くさび)を打ち込むように建っています。まさにここの場(トポス)は「境界的場所(マージナル)」で、沖縄には日本の米軍基地の3/4があり、普天間基地は宜野湾市の1/4を占めているのです。
 設計は神戸大学に留学して建築を学んだ(返還前はまだ沖縄は外国だった)畏友、真喜志好一さん。彼は優れた建築家であると同時に沖縄の良心を体現する快男子で、名刺の肩書き「琉球国・建設親方」がその自負を表しています。私も同じ時期に神戸大学で学んでいますが、面識を得たのは画家の坪谷令子さんを通じてで、阪神・淡路大震災の後、しばしば神戸入りをして様々な助言を頂きました。この美術館のほかに壷屋焼物博物館、建築学会賞を受賞した沖縄キリスト教短期大学などの優れた仕事があります。
 佐喜真さんから相談を受けた真喜志さんは、その用地として沖縄の在来種の植物が豊で、ウチナンチュ(沖縄人)の魂の拠り所としての御嶽(ウタギ=聖地)、亀甲墓があり、海に静む夕陽が見える場所を探し、それが佐喜真さんの先祖の場所としてあったとは奇跡のような話です。
 この美術館の屋上に6段と23段に分かれた階段があり、昇りつめた壁に四角い穴が開いている。6月23日(沖縄慰霊の日)の黄昏時、穴の中に、すっぽり夕日が収まるように設計されています。この日は沖縄の日本軍司令官が自決し、組織的戦闘が終結した日(1945年)です。壁の向こう側は、もう普天間基地そしてその向こうに東シナ海が見えます。返還させた土地に反戦慰霊美術館では米軍も驚いたでしょうねと、佐喜真さんに問うと「いや、彼らは展示品の内容を全部を知っていて案外、簡単に判を押しました、むしろ抵抗したのは日本側でした」と笑う。この美術館の横に大きな亀甲墓がある。(沖縄特有の一族の為の墓で戦争中は防空壕のように避難場所でもあった。)
  「ここは特別に厳しい場所ですから、たんに反戦という捉え方ではなく、深くもの想う美術館であって欲しいのです」と答える。
 この小さな美術館に毎年5万人を超える人が訪れ、そのうち4万人が修学旅行などの学生だという。
 来年で「沖縄戦の図」が描かれて20年、この美術館が出来て10年である。是非、一度は訪れて欲しい場所である。 

早坂暁X木下晋のトーク

 佐喜真美術館の空間は見事に美しい。大きな「沖縄戦の図」を飾るための高い天井、静謐を大切にして話すことも憚られる緊張感に満ちている。きっとこの濃密な気配は、この特別な場(トポス)が有する「ゲニウス・ロキ」すなわち「地霊」によるものにちがいない。
 ここで木下晋さんの展覧会をやる意味は大きい。詳しい説明をしている余裕はないけど、モデルである小林ハルさんをはじめ、木下さん自身もまさにマージナルであり地霊と深く繋がった存在だからである。
 トークに集った80名くらいの半数は高校生のようだったが、吉永小百合の「夢千代日記」の脚本で知られる放送作家、早坂暁さんは木下さんの絵を評して「欧米の絵画は光を描くのに対して木下さんは、時間を描く、対象の中を流れる時間が美しい、時間こそ帝王である」「神は細部に宿るという言葉があるが、同じ細部を写しても写真は神を宿さない、事実を写しても真実を語らない、木下さんの絵は真実を語る」と話し、木下さんは学生を教えることについて「学ぶということは自分の中にある豊な感性を取り戻す、回路をつなぐリハビリテーションである」と応じた。
  夜は早坂暁さんを交え、木下さん、佐喜真さん、真喜志さんらと人気ボーカルグループ「ネーネーズ」の民謡酒場「島唄」に繰り出し、それに飽きたらず今度は正統派民謡「上原正吉芸能館」で「朝里屋ユンタ」などをたっぷりとを聴き、促されて舞台に立った真喜志さんが山猫奏法と呼ぶ沖縄三味線での軽妙な童謡「でんでん虫」を交えた「沖縄を返せ」を聞き、皆と別れて、送っていくという真喜志さんともう一軒どこかの酒場で泡盛に溺れた。
 翌日、例によって早く目覚めて、バスを乗り次いで糸満まで行き、そこからタクシーで独りで沖縄戦で最も悲惨であった、糸満と豊見城(とみぐすぐ)の沖縄南部の戦跡を訪ねた。
 あまり人の行かない「白梅の塔」では当時のままに女学生たちが身を隠し、そして逃げることを許されずに「生きて辱めを受けるなかれ」と自決を強いられた壕が残っていて、誰もいない壕、沖縄特有のガジュマルの木の根っこにできたガマに身を潜めると、まさに丸木さんの絵に見た光景をまざまざと感じじんわりと恐怖がうちから滲みでてくる。
 「ワラビンチャー(こどもたちよ) ヒンギリヨー(にげなさい) ヌチドゥ(いのちこそ) タカラ(宝)」。
 加藤周一さんの「戦争に反対する動機は、客観的な理解過程ではなくて、一種の倫理的正義感です。つまり子どもを殺すのは悪い、ということがある。それで、ためらうことはない」という言葉を思い出しながら、こうした辛い体験を多くの犠牲の中で学びなが、今また、イラクの人々を同じ目に合わせる愚行に手を貸す政府を持つことに耐えられない思いがします。ここ沖縄ではガマが病院であり、司令室であり、塹壕であり、避難所でした。ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館、真武仁を回り、豊見城の旧海軍司令部へ行きました。ここで壕の天井で思い切り岩に頭を打ち、瘤が出来、血が滲みました。
ご注意ください。体制に批判的な者には天誅を下す霊があるのかもしれません。
 ともあれ私達はあまりにも無力であり、私たちの日常と危険な現実との間には距離がありすぎます。しかし、もっと日常的なことですら私達は闘っていないのではないか?
こうした蛮行のDNAは、私たち自身のものなのでしょう。そのことを見据えた上で、私達の行動をチェックしながら選び取っていくことから始めねばならないのでしょう。そして、遅ればせながら丸木さんの絵、佐喜真美術館の楔(くさび)は私達にも向けられているのだと当然のことに気が付きました。

追記

 糸満から帰った私を真喜志さんがホテルまで迎えにきて、那覇市前島3丁目にある元、結婚式場の高砂殿をNPOが管理運営を任されている「前島アートセンター」へ行き、佐喜真さんも合流。
神戸のCAP HOUSEと共通するものがあり 若い理事長の宮城潤さんの説明を聞き、ギャラリーでの制作に飛び入り参加。夜は、また真喜志さんと美味しい沖縄料理と泡盛。最終日は、また一人で中部の北谷(ちゃたん)へバスで行き、珊瑚礁の紺碧の海を眺めて海岸を歩く。気温22度。止せばいいのに映画館へ入って「戦場のピアニスト」を見る。なんと男性優待の日で¥1,000。