2003.2 こうもり日記半 「可通(はんかつう)の江戸趣味」

 書斎に木村蒹葭堂(けんかどう)のお軸がかかり、歌舞伎に通うなど、 江戸にはまり、画廊通信に書いたりする蝙蝠(こうもり)ですが、これは全く 半可通なことで、冗談みたいなものです。
大江戸のディレッタント(趣味人)の杉浦日向子(漫画家)さんによれば、 趣味人の最高峰に到達した人が<通人>、その登頂に失敗した人が<半可通> で、これは本人がそれに気が付いていないから永久に登頂出来ないのだそう。 その下が<野暮>。未熟ということで、この人は登頂の可能性があり、 可愛げがあるそうな。
(私の半可通な江戸趣味についてはギャラリー島田のHPの蝙蝠通信でバック ナンバーまで読むことが出来ますので、一度ご覧下さい)
 さて、またまた歌舞伎行ってきましたぞ、大阪松竹座「寿初春大歌舞伎」。
この公演の副題というのが「歌舞伎400年」「近松門左衛門生誕350年」
「曽根崎心中初演300年」「中村鴈二郎お初上演50年」 「2代目中村魁春襲名披露」と5連発。
 出し物が「源平布引滝から義賢最後」「京鹿子娘道成寺」「曽根崎心中」の絢爛たる名場面の数々。さすが鴈次郎のお初は1100回以上演じているはまり役だけに、70才と思えぬ瑞々しさで、息もつかせぬものでした。
 とメールマガジンに書いたところ、今度は思いがけず画家の石井一男さんが「大阪で木村蒹葭堂の展覧会をやっていますよ」とチラシを持ってきて教えてくれた。谷文晁の描く、のっぺりした面長で大きな鼻が鎮座し、口をちょっと開けたなんとも大阪的なとぼけた大人たる風貌の蒹葭堂(けんかどう)があり、「画家か、科学者か、はたまた図書館長か? 没後200年記念 なにわ 知の巨人」とある。ワーアア、知らなんだと早速いってきました。大阪歴史博物館。谷町4丁目駅出てすぐ。NHK大阪放送局と並んで昨年11月に完成したばかり。2月24日までです。かくして半可通といえども私の江戸知識は更新続けています。帰りには「白洲正子の世界展」で青山二郎、小林秀雄に鍛えられた白洲正子の美学にひたり、蒹葭堂とともに惹かれるダンディーな風の男、白洲次郎の姿に出会い、ミーハーな一日に満足したのでした。このお二人のイメージを現存する人に置き換えれば加藤周一と亀の井別荘の中谷健太郎ということになりますかな。

多田智満子さん三途の川(葬頭河)を虹の架け橋で渡る
虹の架け橋

 詩人で、現代を代表する明晰な知性をもつ文学者であった多田智満子さんが1月23日午前8時58分にお亡くなりになった。72才。
 この日、神戸から東の空をながめると六甲山系から大阪湾にかけて見事な七色の虹が壮大に掛かったという。
 「しばしば川の夢を見る」と「15歳の桃源郷」で書いた多田さんの98年の詩集は「川のほとりに」、最新詩集も「長い川のある国」である。幼い日に遊んだ鈴鹿山脈から琵琶湖に注ぐ愛知(えち)川を懐かしみ、その川の名のごとく終生、知を愛した多田さんのお名前も「智の満る子」であった。
 詩人、エッセイスト、翻訳家としての多田さんの優れたお仕事の一端しか知らないが、生前最後の出版となった秀逸なエッセイ集「犬隠しの庭」は印象深かった。
 昨年9月に私は、百足(むかで)に噛まれ、蜂に刺されるという体験をした。またその頃から、あるNGO/NPOに関するプロジェクトを始めていて、その名前を「ぼたんの会」と名づけた直後に多田さんのご本が出て、そこで「百足退治いろいろ」「牡丹狂い」という素晴らしい文に出会った。
 この本には「虹が水を飲みにくる」という項がある。 虹ほど美しく、静かな夢想を誘うものがあるだろうか、と虹を讃えた後「雨上がりの夕刻、川向こうの東の稜線に片脚をおき、片脚を広大な桑畑の果てにおいて、ぐっと上半身をのりだしたような、すばらしくスケールの大きな、美しい虹。それは天に高々とかかる七色の巨大な円弧のなかに人の世をそっくり包みこんで、どこか遠い山の彼方、この世の彼方へ、すっと運び去るかのようであった」と書く。 六甲の稜線に片脚をおき、片脚を広大な大阪湾において、と亡くなられた23日の情景にそのまま読みかえられる。 心を通い合わせた澁澤龍彦さんがハレー彗星の壮大な箒尾に乗って天空の星に「帰一」したと多田さんが語ったように、多田さんも壮大な虹の架け橋で、三途の川を7日かけてわたり、天空の星に帰一したに違いない。
 中国で虹は龍に喩えられる。
私は龍となって、彗星の箒尾にのって昇天した澁澤龍彦を追う多田智満子さんの姿を瞼に浮かべる。
 

伝えておきたいこと
 私が伝えるべきことは、あまり知られていない多田さんの一面だ。 この思い出は、私にとっては重い心的後遺症を伴うものだが、多田さんをめぐるエピソードとしてお伝えする。
 2001年10月に神戸市長選があった。神戸市政の転換が必要だと私達は思っていた。その渦のなかに多田さんもいた。私の知る限り、その著書の何処にも「行政批判」の字を見出せない多田さんが何故?  ご家庭で、この現状はなんとか変えなければという多田さんの言葉に「ならば自分も行動したら」というご家族の助言もあったと聞いた。
 「私は、こうしたことに最も遠い人間ですのに」とおっしゃりながら、当時から優れない体調をおして夜の会合に熱心に参加された姿を忘れることができない。 高貴な知性と叡智で知られる多田さんにとって、ほとんど初めての行動ではなかったか。
 選挙直後の11月には多田さんが体調を崩されて入院されたと聞き、心配していた。 私達の泥臭い議論、苦渋の決断、そして挫折という軌跡を多田さんはどう感じられたのか。 あの姿と声だけが重く記憶に留まっている。