2003.12「心惹かれる忌」

「心惹かれる忌」

 私にとって気になる、もう一つの新しい忌がある。今年1月23日に亡くなられた詩人、多田智満子さんの「草風忌」である。多田さんが病床において綴られ、ご葬儀で参列者に配られた簡素にして瀟洒な句集「風のかたみ」は
“獅子座流星雨果てて蟹座の病棟へーcancer すなわち蟹また癌―”に始り  
“草の背を乗り繼ぐ風の行くへかな”
で閉じている。「草風忌」は、この終句に縁っている。
 その後、私の友人の詩人、季村敏夫さんたちが創刊した文芸誌「たまや」の冒頭に掲載された多田さんの句「人知れずこそ―ざれうた六首」のうちの”御政道批判すなわち打首の昔を今になすよしもがなー現代の権力者―”に触れて胸がつまった。多田さんが病床に就かれるころ、ある政治的な活動を共にした。それは前回の神戸市長選のことである。その凛とした姿勢は、私たち文化に携わる者への勇気ある伝言であった。
 権力に対する批判・抵抗は江戸時代であれば打ち首、昭和前半であれば治安維持法違反、現代においてはさすがに、そんなことはあり得ないが「存在しない者」として扱われるのである。

「さようなら西村功先生」

 訃報を聞いたのは12月1日午前8時、ご長男の泰利さんからの電話であった。 あとで携帯電話の留守電をチェックすると午前3時50分に既に連絡が入っていたけど、ぼくは就寝中は勿論、朝にも気がつかなかったのだった。先生が亡くなられたのは3時5分のことだった。
 多くの方に愛された先生らしいご葬儀にしようと西村家の皆さんと話し合ってきた。 危篤を聞いたのは3週間前であったけど、強靭な生命力で、持ち直され、少しの安堵感が漂った時で、やっぱり、という思いと、無念という思いが交錯した。
 仏式(禅宗)のしきたりの中で、先生らしさを出すことは中々難しいことだった。生前に十分な準備も憚れるからだった。
 長らくの闘病で、ご親族は勿論のこと、親しい皆さん方は、ある程度この日を覚悟されていて、通夜、告別式を通じて、愁嘆場はなく、なにか透明な哀しさ、平明な安らぎが会場全体を覆っていて、これこそが功先生をお送りするのにふさわしいと、ぼくの心も落ち着いたのでした。
 ぼくはべたべたの人間関係がもてない性質(たち)で、「愛」も「憎」も苦手で、「信」あたりが一番落ち着く中庸人間で、よって創作には向いていないことを自覚しています。
 西村家とも長い、多様なお付き合いですが、かと言って、知り尽くした仲でもありません。そんな関係が西村家の気風とも通じたのではないでしょうか。
 西村家をイメージするとき私はいつも「聖家族」という言葉を思い出します。それは主として功先生を支える久美子ママのイメージでもあるのですが、それがそのまま、泰利さん、娘さんのみどりさん、泰利さんの奥さんで画家でもある、ようさん、その二人のお嬢さん留依さん、真依さんにも同じ気質が流れているのです。功先生はハンディキャップを持ちながら、心に一点の曇りも感じさせないほど明るくていらっしゃったし、病身のようさんもおられ、普通であれば尋常でない状況の中でも、確かなつながりで明るさを失わないご家族を、ぼくはただ畏敬の気持ちで心をいっぱいにして眺めてきたのです。
 激しい言葉や、覚悟や、主張を一口も言わずにまったくの自然体のままに「生きることってこんなことなんだよ」と教えられるのです。
 お疲れでしたでしょうと、多くの方からぼくもねぎらいの言葉をいただきました。でも 先生のオーラがお手伝いいただいたすべての人を包み込み、ぼくは、実際はただ立っていただけのようなもので、すべてが順調に推移したのです。すべてが。
 でも、ぼくにはまだ、功先生のことで、やり残したことがあります。そのことを胸に秘めて、新しい年に向かいます。

西村功追悼展のお知らせ  
2004年2月11日――3月4日まで。  
西村功先生の初期作品から晩年の作品まで。デッサン、水彩、挿絵など。  
画家・西村功としての完全な資料も整理するほか、単なる作品展を超えた追悼展を考えています。

「来年の企画について」

さらに充実した仕事を心がけ身を引き締めています。  
新たにギャラリー島田に登場する作家は  
山崎つる子(具体)、チェコの写真家ヤン・ピクウス、稲垣直樹、清原健彦、  熱田守、ベルギーから帰国の下原義雄、水村喜一郎、武内ヒロクニ、坪谷令子、 山梨から安井賞作家のわたなべゆう、元永定正の各氏。菅原洸人氏は自伝の出版を準備 中で出版記念回顧展となります。  
ギャラリー島田DEUXには  
笛木信哉、東京から室越健美、細井健二、グループ667,奈良から許田静子、大阪から中村一雄 などが初登場。  
それ以外にも、いい作家、いい作品をご紹介いたします。ご期待ください。

2003.11 「しみじみと感謝で過ごす還暦+1」 

「しみじみと感謝で過ごす還暦+1」 

 自分の人生を振り返ってみて、ほんとに多くの人に支えていただいた。数え切れない恩 人がいる。今日、61才の誕生日を迎えて、それらの人々とのことを思っている。
 とりわけ今日、深い思いを誘う人のことを伝えたい。
 11月7日に亡くなられた、私と同い年の梅田徹さんのことだ。私の主治医で、命の恩 人である。全幅の信頼を寄せていた。ただ単なる医者と患者の関係を超えた付き合いをさ せていただいた。奥様の奈加子さんは画家で、海文堂ギャラリーで3度の個展をお願いし、 (公)亀井純子文化基金、アート・エイド・神戸の監査役など、頼めばご夫婦して何でも 協力していただいた。
 闘病されていた東京に、お見舞いに上がる日に新幹線に電話があり、具合いが悪いこと を知らされて、とうとう会えずじまいになったことが悔やまれる。
 急なことで葬儀に家内しか列席出来なかったが、彼女は何度も大泣きしていた。 梅田さんが、自らの最後を悟って書き残した「惜別の辞」がまた涙を誘った。
 その一部を紹介する。
「少し早いですが皆様とお別れをする日も近いかと思われます。返りみれば60年あっと いう間の夢のような出来事でした。(略)夢の60年と申し上げましたが3、4才で肋膜炎 のために入退院を繰り返し、9才で足の関節結核にかかるなど小児期は病弱な生活でした。 中、高と曲がりなりにも通学できるようになり幸い医学部にも行くことができました。 それまでに多くの人の助けがありました。(略)
こうして無我夢中で生きてきた60年ですがハンディキャップのもかかわらず私としては 精一杯してきたつもりで悔いはありません。
するべきことはした、見るべきものは見た、そういう心境です。本当に皆様私のようなも のを陰に日向にお心に掛けていただいて感謝のしようがありません。(略)」最後に「残さ れる奈加子をよろしく」と続く。
私にとっての恩人がまた一人去っていく。

2003.10「奇縁」

奇縁

「お年を忘れているんじゃないですか?」。私の電話の声を聞いた方が言う。 風邪を引いてしまった。そういや、このところ目一杯やなあと思う。
「いつまでも若いと思っていたら駄目ですよ、充分、老齢なんですから」と追い打ちである。

でもこの仕事ほんまに好きで辞められません。

 つい先日もこんな奇縁がありました。松村光秀展の会場で上品なご夫婦が訪ねてこられました。渡辺洋さんご夫妻です。私の記憶は朧なのですが、1988年に渡辺さんが筑摩書房から「底鳴る潮」というご本を出された時に海文堂で販売協力させていただいたそうです。この本が夭折した天才画家・青木繁の評伝で、今年、小学館文庫で、小説仕立てに全面的に書き直し「悲劇の洋画家 青木繁伝」として出版されたのです。
私も青木繁の「海の幸」「いろこの宮」は何度も石橋美術館で見ているので、お話の中に梅野満雄の名前が出たときに瞬時に結びつきました。
この人のご子息こそが、この通信に時々登場する刑事コロンボの如き絵の熱血漢、長野県北御牧村立・梅野記念絵画館の館長、梅野隆さんその人なのです。 何が奇縁かといえば、この絵画館に松村作品が常設されていて、館長自身、展覧会の初日に遠路ご来廊いただき、作品を購入決定いただいた直後だったのです。
梅野満雄さんは青木繁と同級生の親友で、困窮にあった繁を終始、支援し作品をコレクションされました。今、その作品の一部が梅野さんの絵画館でも見られます。
渡辺洋さんはバイオテクノロジーの専門家で神戸大学名誉教授。畑違いに見えるが、歴史小説としての人物評伝を書きためておられる。私も一読して、溢れる才能と自負の中で、どうしようもなく不幸の坂を転げ落ちていく繁が歯がゆくも不憫で、何度も熱くなった。目頭ではなく、体全体が熱くなるのです。ゴッホとテオの書簡集を読んだ時もそうでした。すべての鍵を反対に廻してしまって、不幸へ不幸へ、貧困へ貧困へと落ち込んでしまう。梅野氏を始め、多くの善意に囲まれながら、それを逆撫でしてしまう。
読むのが正直辛かったりもしました。  

でも、私の周りでも大同小異の悲劇はあります。身につまされることです。

作家の人生は様々。生活に困窮するがゆえに才能を開花出来なかった人。困窮から脱したゆえに作品が安易に流れる人。青木繁の人生を辿りながら、芸術家の運命を考えるサロン講座を渡辺洋さんをお迎えして開催することが急遽決まりました。
小学館文庫の第1版は多くのの校正ミスがあったという。書き直しを含めた改訂新版が出るのを機会に11月4日の第76回のサロンです。最もうちにふさわしい主題であります。お楽しみに。(詳細はサロンのお知らせで)
*この日記を書いた直後。繁を巡る奇縁に更に驚くことになりました。それは次回のお楽しみに。

2003.9「セプテンバー・コンサート IN KITANO」

1,セプテンバー・コンサート IN KITANO

  「9・11 セプテンバー・コンサート」がギャラリー島田で開催された。平和への思いを音楽でつたえようと、NYではじまったムーブメントで、日本では神戸に本社を置くフェリシモが呼応し、その呼びかけにギャラリー島田が応じた。9月1日に話があり、その日の内に10人の出演者全員が決まった。オープニングは朴元(パク・ウォン)さんの韓国伝統打楽器チャンゴの演奏。中国、台湾、インドの民族音楽、アポリジニの民族楽器とヴォーカルの即興演奏など多彩なプログラムの最後はピアニストの伊藤ルミさんが、チェリストのカザルス(当時94才)が国連での最後の演奏会で紹介したカタルーニャの民謡「鳥の歌」を心を込めて弾いた。
 新聞では「9・11の犠牲者を追悼して」と紹介されたが、私の中ではその意味は小さい。「9・11」は憎悪の連鎖のひとこまに過ぎず、平和とは人類の見果てぬ夢に終わらせてはいけない永遠の課題である。
 「9,11」の犠牲者は3234名、その後のアフガンの空爆で3767名が、イラク戦争で3240名以上の人が亡くなった(いずれも推定)。さらに遡っていけば1991年の湾岸戦争では15万8千人。ベトナム戦争では200万人。第二次世界大戦ではじつに3千万人にものぼり、広島、長崎への原爆投下による死者は10万3千人である。
 平和とは戦争に対する反語だけではない。この飽食の日本にいると信じられないことだがアフリカ、アフガン、北朝鮮などで餓死の危機に直面している人は何千万人に上ると思われる。 日本でも毎年の自殺者が3万人を超える。平和を脅かしているのは砲弾、銃弾だけではない。「平和への思い」は「遠い戦争に反対する」「日本が戦争に巻き込まれることに反対する」というレベルに止まる限り「平和エゴイズム」に過ぎないだろう。
 戦争がお互いの大義を賭けての巨額の戦費と多数の犠牲者によって遂行される戦闘だとすれば、平和もまた、それを守るために自己を犠牲にして闘うという側面なしには獲得できるものではない。
 そんな大層なことは考えとうない、毎日が楽しかったらええねん。 そういう声が聞こえてきそうですが、私たちの日常一つ一つの行動にも「平和」へと繋がっていく意志の選択があるのでしょう。「何を食べるのか」「車を使うのか歩くのか」「電気を点けるか消すか」それぞれの選択が地球温暖化、砂漠化、資源枯渇、南北格差などにどこかで繋がっており、それが結果として戦争に加担しているという痛みの自覚なしに、「平和を祈る」では済まないことなのです。
全員、全くのボランティアなのに、来年も是非と、強い声が続いた。全くのところ準備大変なのだけど、やるぞ!!
*急に決まった企画のため、画廊通信で紹介できませんでした。御了承下さい。

2,知ったかぶりの勧め

 なんとか加藤先生を神戸に呼べへんやろうか?そんな思いが募って、とうとう実現することとなった。加藤先生とは、現代を代表する知の巨人と私が信奉する評論家・加藤周一先生のことである。といっても、若い人は勿論のこと多くの人は氏を知らない。 震災後、先生を囲む小さな勉強会に参加させていただいて、いかなる質問にも見事に論理的に、しかも誰にでも分かる言葉でしゃべられるのに敬服した。この至福の話をもっと多くの人と分かち合いたいと願ってのことだ。何度も実行委員会を重ね、氏の著書をテキストに勉強会をしている。交代で講師を務めるのだが、私は講師となるのを謙虚にも辞退している。
実は、これは内緒だが、私が呼びかけたとはいえ、私はそんなにたくさんの著書を読んでいないのだ。 知ったかぶりの化けの皮が剥がれるのを怖れて謙虚を装っている。 勿論、わが書斎には加藤周一著作集全24巻も揃っている。白状すればこれは息子の蔵書なのである。
若いスタッフが勉強したいというので、分かりやすい本を読み返してみて、加藤語録で都合のいい事を発見した。「読んだふりは、大切なこと」とあり「読まない本を、読んだふりをする、よくわかりもしない本をわかったふうに語る、これが知的”スノビズム”(俗物根性)という」と断定したうえで「スノビズムほど大切なものはない、読まない本を読んだふりをしているうちには、本当に読む機会もふえてくるのです」と氏の「読書術」を結んでいる。
自分が知らないことを自覚していれば、知ったふりでもいくらでも学ぶことは出来るし、次の学びの意欲につながってくるということだ。 加藤先生は、この9月19日で84才を迎えられる。 20世紀の歴史をつぶさに見てこられた証言者として、21世紀を生きる私たちへの指針を語っていただこうと思っている。

2003.8「加藤周一 講演と対話のつどい」

加藤周一 講演と対話のつどい
「私たちの希望はどこにあるのか 今、なすべきこと」
■9月21日(日) 14:00~16:30
  神戸朝日ホール  前売り 一般/¥2,000 学生/¥1,500

 現代の知の巨匠、加藤周一先生を神戸にお迎えして講演と対話の集いを開催します。 今まで少人数の勉強会には参加させて頂いていましたが、どうしても、もっとたくさんの方に先生のお話を聴いていただきたいと、私のたっての願いで実現致しました。
加藤先生は芸術・文化はもちろんのこと、政治・思想・宗教・歴史など全般にわたって深い見識をもっておられますが、今回は広く文明的な視点から、20世紀を生きてきた証人として、これから21世紀を生きる次世代へ上記のタイトルのような視座をお話いただこうと考えています。加藤先生は1919年9月19日生まれ。ちょうど84才を迎えられます。この機会を逃がすことなく、ご参加を下さるようお願い致します。     
チケットご予約下さい。当日、会場渡しも可能です。

忙中旅あり  イタリア編
行方不明となった鞄

 コペンハーゲンを発ってミラノへ向かった。飛行時間は僅か2時間25分。あっと言う間だ。でも実際は、空港への移動、チェックイン、チェックアウトを入れると、ほとんど一日仕事である。でもコペンの空港は美しく、商業空間も充実していて、飽きることはない。
ミラノ・マルペンサ空港からバスで中央駅へ行き、列車で古都、クレモナへ直行する。
 ところが空港で、二つ預けた荷物のうち大きな鞄がいくら待っても出てこない。クレーム係は「不思議だ?」を連発するばかり。広い荷物受け取り場を何度も走り回った。
 ようやく遅延証明書を貰い、これからの旅程を告げて、バスへ駆けこんだ。 ミラノ中央駅からはヨーロッパ中、どこへでも通じている。日本のように改札はなく、シンプルな表示だけ。アナウンスもなく、出発合図もなく、いきなり静かに動き出す。自己責任などという大袈裟なことはいうまい。幼稚園児のごとく手取り足取り。かくして吾らは「茹で蛙」と化す。
 クレモナではドォモ(大聖堂)の横のホテルをインターネットで予約していたので、軽くなった荷物を持って、地図を片手に歩く。さすがに夏の日差しに汗がしたたる。 
 宿では英語も通じない。鞄がないので、どうしても必要な日用品を買出しに行く。 夕刻8時頃、少し涼しくなり。ドォモを見上げる屋外レストランで食事。無数のツバメが 空を駆け巡る。 クレモナはストラディヴァリウスやアマティー、グァルネリなど弦楽器製作の巨匠たちが名器を次々と生み出し、その伝統を今も継いでいる。
 次男の陽の知り合いで、神戸・垂水出身の若いヴァイオリン製作者、村井知子さんに案内してもらった。村井さんは楽器製作に憧れて、ここへ修業に来て7年半になるという。どこへ行っても挨拶を交わし、町の人たちから愛されていることが分かる。
 彼女の案内で、地元の人しか行かない、メニューのないレストランでズッカ(かぼちゃ)のラビオリなど美味しいランチを食べ、ストラディバリ博物館に行き、郊外の静かな古い教会を訪ねた。マエストロと呼ばれるマルコ・ノッリさんの工房を訪ね、楽器製作の工程などを教わった。マエストロとはマイスター(資格をもった職人)のことで、今回はお会い出来なかったけど朝来郡出身の松下則幸さんもここのマエストロである。
「神戸から来ました」というと即座に「チェロ・フェスティバルのところだね」と返された。’98年、’01年に神戸で開催された「1000人のチェロ・コンサート」のことである。
 「あれは僕の友人の松本巧さんが始めたもので、ぼくも最初から関わっているよ」と言うと、今度はマルコが驚いて、写真集とビデオを持ってきた。「今度はいつあるのか?」
「’05年に世界チェロ・コングレスとしてやる」と答えると「是非とも行くから、必ず情報をくれ」と言う。ちょっぴり誇らしさを交えて胸が熱くなった。
 前にアメリカで会った音楽家が「神戸ならジーベック・ホールが素晴らしいね」と言われて、この時もうれしかった。ポートアイランドにある音響メイカーTOAが運営する実験的なホールで、優れた仕事をしている。こうした独創的な仕事は、必ず地下水脈のように世界中に拡がって評価されていく。
 私たちは、なにかと飾り花のごとき借り物イベントを探してばかりいるけど、見回せばこうした私たちの誇りとする種子はまだまだあるはずだ。独創性を評価し、育てていく風土をもたないとこの街から根の生えた「ほんもの」は生まれてこない。
 私たちはクレモナからベニスに列車で行くのに、マントバ経由で行く予定にしていたのだけど、彼女のアドヴァイスで変更した。この切符の変更手続きがややこしい。さらに紛失した鞄を取り戻す交渉がややこしい。スムーズに出来たのは彼女のお陰である。
 ちなみに海外旅行保険に入っていたおかげで、荷物遅延に対して10万円を限度として補償が出るのをご存知ですか。結果的にはクレモナまで荷物を運んでもらい、必要品を保険で買ってもらった。得をした気分です。
 ベニスにて。
この美しい幻想都市「ベニス」に列車が近づいていくだけでも胸の高鳴りを抑えることが出来ない。車も、自転車もない、船と足だけがたよりの石畳の街。迷路と運河。栄華の跡の陰影にみちた叙情。海上の小国であるのに一度も侵略を許さなかった男たちの矜持(きょうじ)。徐々に沈下、水没しつつある危機を孕んだ美。
 ぼくはヴァポレット(水上バス)をなにより好み、朝に夕に、エンジンの音に包まれ、風を感じ、塩の香りを感じながら、この町をなめ尽くすように味わう。三日間を過ごした。
 サン・マルコ広場の夜は更けて 去年は8月の末にここにいた。毎晩、広場のここかしこで、ライブの演奏がある。 驚いたことに今年は6月と2ヶ月も早いのに、昨年と全く同じ顔ぶれでライブをやっていた。ぼくのお気に入りはヴァイオリン2本とベース、ピアノ、アコーディオンの5人組。 プロレスラーの如き巨体にいかつい顔をしたヴァイオリンのおっちゃんが、腕もあるが最高のエンターテーナーで、ともかく面白い。太りすぎのサラリーマンのおっさんが不細工にベルトをきつく締めたような白いワイシャツにグレーのズボン。太い腕で壊れそうな迫力で小さなヴァイオリンを弾きながら踊ったり、女のごときシナを作ったりするからみんな爆笑である。そして手拍子で応える。このおさんに会いたくて毎晩広場にいた。ちなみに立って聴けばタダ。座れば飲み物をとって有料である。「フニクリ・フニクラ」の演奏が始まった。私の近くにいた女性が小さな声で歌いだした。でもその声がみごとなので、みんなが振り向いた。意を決したように歌いだしたその声は広場を圧し、聞き惚れた。休憩となり、隣のライブに移動した。そこで「乾杯の歌」がはじまり、みんな彼女の方を見た。 そしてまたしても完璧に歌った。その夜の花は、このプリマドンナであった。
 ベネチア・ビエンナーレ
 今年で1895年創設以来、50回目を迎える現代美術の祭典である。今年の総合コミッショナーはフランチェスコ・ボナミ(シカゴ現代美術館主任学芸員)。彼が選んだ統一テーマは「夢と衝突」(DREAMS AND CONFLICTS)で、大きく三つの会場に分かれている。八つのテーマによる企画展の会場が大規模な造船所跡地であるアルセナーレ(ARSENALE)、国別のパビリオンのならぶジャルディーニ(GIARDINI)公園。それとサン・マルコ広場の回廊にあるコレール美術館(MUSEO CORRER)。さらにここに入れない、あるいは入らないパビリオンや企画展会場が島内に点在するので、全部をみるのは不可能に近い。ぼくも延べ20時間くらいは会場にいたけど、 足も頭も棒のようになって機能不全におちいった。確かにあったのは「苦こそが喜びである」という私の例のマゾ的感覚であった。何が私を惹き付けるのかといえば、決して職業的な義務感であったり、みんなが働いている時に、自分だけが遊んでいることの後ろめたさからくるアリバイ創りなどではなく、出会ったことのないものに出会へるのではないかという好奇心なのだろう。
 すこし煩雑でになるが、この巨大モンスターのごとき会場を系統的に整理しておく。
1. コレール美術館 「絵画・ラウシシェンバーグから村上まで 1964~2003」  ヨーロッパ主流の絵画動向のなかで1964年にはじめてアメリカ現代美術家のラウシェンバーグが金獅子賞を受賞。今年はアジアの村上隆が代表する。
2. 企画展  テーマ       コミッショナー     日本からの参加
「CLANDESTINE」(悪巧み)  フランチェスコ・ボナミ  土屋のぶこ 横溝静
「FAULT LINES」(断層)    ジレーン・タワドロス
「INDIVIDUAL SYSTEMS」(個別システム) イゴール・ザベル
「ZONE OF URGENCY」(危機) ホー・ハンルー(中国) アトリエ・ワン、キュピ・キュピ 小沢剛  高峯格 
「The STRUCTURE OF SURVIVAL」(生き残りの構造) カルロス・バスアルド
「UTOPIA STAITION」 モーリー・ネスビット 他  オノ・ヨーコ 島袋道浩 
「THE ZONE」(領域)    マシミリアノ・ジオニ
「CONTEMPORARY ARAB REPRESENTATION」  (現代アラブの表現)  キャサリーン・デビッド 3. パビリオン PARTICPATING COUNTRIES
日本館 コミッショナー  長谷川裕子(金沢21世紀美術館学芸課長)
    出品作家  曽根裕  小谷元彦
    テーマ  「ヘテロトピアス(他なる場所)」
このようにぐだぐだ書いてきたのは、要するに訳がわからんということなのです。この他に「エキストラ50」とか「毎日変わる」なんて日替わり定食みたいなコーナーもあるので「闇鍋」状態なのです。きちっと分けられた哲学的コンセプトなど、どこ吹く風。 ともかく疲れる疲れる。あちこちにある大きなベッドのごときソファーにみんなまな板の上に転がされた鮪(まぐろ)の如く倒れ込んでピクリとも動かないのです。 「ヘテロトピアス(他なる場所)」とは非日常的な場所でありながら、現実に対してメッセージを発し、抵抗を示していく場所という意味だそうで、日本もモダニズムの中心からはずれた周辺域でありながらアニメやマンガなど独特の文化を発信するヘテロトピックな場所といえるのでしょう。それが村上隆へと繋がっていると読めるのです。簡単にいえば私が言ってきたことばで言えばマージナル(境界領域)ということでしょうか。
ただし、この日本館は私には面白くなかった。  

2003.7「忙中旅あり2003」

忙中旅あり2003 北欧とイタリアへの旅

 すこし早い夏休み、というよりは梅雨休みをいただいてデンマーク、スウェーデン、イタリアの11日間。旅程は伊丹―成田―ミラノーコペンハーゲンースウェーデン・ヘルシンボルグーコペンハーゲンークレモナーベネチアーミラノー成田―関空でした。北欧とイタリアというと怪訝な顔をされますが、フライトでわずか2時間です。
 今回の旅の大きな目的は二つ。長年の中島由夫さんのお誘いに応えてのアトリエ訪問。 50回目を迎えるベネチア・ビエンナーレを見ることでした。
 ホテルはインターネットで調べてファックスで予約。ベニスの人気のレストランだけは日本から電話で予約しました。あとは家内と二人の気侭旅。分らないことが楽しい、すべては経験と思っていますから不安はありません。ミラノ・マルペンサ空港で荷物が行方不明になりましたが、そのクレームから、ゲットするまで、これもいい経験です。

白夜のニューハウン(コペンハーゲンにて)

 ここでは6、7月は4時間ほどしか太陽が沈まない「白夜」となります。長く、厳しい冬を耐えた、自然も、生物も、人も、一斉に陽を浴びて生き生きと蘇ります。私たちのホテルは港まちで運河沿いにレストランのならぶニューハウン地区。金曜日のまだ3時ごろというのに、驚くほどの人々が陽を浴びながらジョッキを傾け、ビール瓶をラッパ飲みし、そこここでパフォーマンスや演奏で賑やかな事。ぼくも早速、仲間入り。ここは「よっぱらい天国」です。ほろ酔いで三宮センター街のごとき「ストロイエ」を歩けば、突き当たりがチボリ公園です。実は私はここは2度目で、11年前に、神戸商工会議所の都心商業青年協議会の研修旅行で、当時、神戸流通科学大学の助教授であった吉田順一さんをコーディネーターに、私が団長というコンビで来たことがあります。古傷を触るようですが、前回の市長選で、市政を改革しようという同じ志ながら違う陣営に分かれてしまい、二人とも失脚してしまいました。
 ツボルグというビールを、コペンの酔いどれに倣って、運河べりに座って飲みながらほろ苦く思い出したりしました。
 ニューハウンといえば童話の王様アンデルセンが20年にわたり住んでいました。1837年に書かれた「人魚姫」にちなんだ銅像が海沿いの公園にあり、第一の観光名所なのです。でもこの人魚の像は背丈125センチと案外小さく、別に見に行く必要もないのですが、今回、わざわざ立ち寄ったのは訳があります。この人魚姫、なぜか様々な受難の身、首を切られること2回、手を切断されたり、ペンキを塗られたり。私が今から会いに行くデンマークを代表する画家の一人である、暴れん坊、駄々っ子のヨルゲン・ナッシュ氏が1964年の首切り犯人ではないかと思われるからです。それは後ほど。
 例によって朝早く起きて散歩。そして10時に中島由夫さん、息子のアンデス君が迎えにきてくれて出発。
 デンマークは地図でみるとドイツと陸続きのユトラント半島とロシアと陸続きの北欧三国(フィンランド・スェーデン・ノールウェー)がバルト海を湖のごとくに抱え込んで、ボトルの栓のごとくに首都コペンハーゲンのあるシェラ島があるのです。
 私たちはコペンハーゲンからエアスンド海峡沿いに北上し、途中にあるアルケン現代美術館を見て、お目当てのルイジアナ美術館へ向かった。アルケンは展示換え中で何も見られなかったが建物がユニークで帆船をイメージしていて、ちょと神戸の海洋博物館を思い出した。規模は芦屋市立美術館程度。ここにデンマークを代表する画家のひとりアスガー・ヨルンの壁画大作がある。すこしややこしいけど、北欧の重要な美術運動「コブラ」について触れておこう。1948年、デンマークのアスガー・ヨルン、ベルギーのG・コンスタンとC・コルネイユ、オランダのK・アペルらがパリで「コブラ(Cobura)」と称する新しい絵画運動を組織し(翌年P・アレシンスキーが加入)、これらの作家の出身地コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダム3都市の頭文字を組み合わせて自らのグループ名とした。幼児のごとく素朴で極端な激しいフォーブ的表現で知られ、その名に毒蛇の意味を重ね合わせている。運動そのものは3年間の短命であったが、それぞれの作家がその後もそのスタイルを崩さずに活動した。私が今から訪ねるヨルゲン・ナッシュはこのアスガー・ヨルンの実弟で、生前は兄弟仲がわるくナッシュはこの運動に加わっていなかったが、アスガー亡きあと、ナッシュこそがコブラの継承者と言われ、中島由夫さんはナッシュの盟友としてこの運動の影響を受けながら創作する唯一の日本人作家ということになる。私は15年前の1988年にナッシュ氏と夫人のリス・ツビック氏を神戸に招いて海文堂ギャラリーとポートアイランドの画廊ポルティコで展覧会をした。それ以来の再会を楽しみにしている。
 ルイジアナ現代美術館ですといわれて車を降りたけど、入り口は普通の民家にしか見えない。電車でくればコペンハーゲンの中央駅から電車で6駅目。中に入って驚いた。噂にはきいていたが、第2次世界大戦以降の現代美術が見事なまでに勢揃い。樹齢豊な古木に囲まれた広大な自然公園に配された建物をたどり、ときにはミロやエルンストのオブジェのある芝生に憩い、また辿る。昼食をカフェで注文して庭に出ると眼下には真っ青なエアスンド海峡が広がる。カルダー、ヘンリー・ムーアのオブジェで子供が遊んでいる。
 多くの人がゆったりと、時間を忘れて美術と自然と時間と人との触れ合いを楽しんでいる。日本人の作家では関根伸夫のオブジェが三対とオノサト・トシノブの平面を見た。 アメリカやヨーロッパの近代美術館と違うのは、やはりコブラ派作家のコレクションが充実していることでしょう。
 こうした常設展のほかに企画展示が二つ。ポンピドー芸術センター(パリ)や関西国際空港を設計したレンゾ・ピアノと写真家アーノルド・ニューマンの展覧会である。じつに多くの人がこの美術館を楽しんでいるのに羨ましく思った。日本ではこうはいかないと嘆息したのだが、このごろ日本の状況も変わりつつあるらしい。(鶯さんが報告します)
 ここから5分も走るとヘルシンゴーのフェリー乗り場へ出る。ここから対岸のスウェーデンまでわずか5キロ。港を出るときにエアスンド海に突き出るように立っているのがシェイクスピアの「ハムレット」の舞台となったクロンボー城である。僅か20分ほどの船旅なのに皆、忙しそうに買い物をしている、聞くと、税制の関係でデンマークはスウェーデンに比べてお酒の値段が半額くらいで、買い溜めをしているとのこと。アンデス君も僕のためにビールを買い込んだ。
 中島さんが昨年、アトリエを写したヘルシンボルグの中島由夫アートセンターは、敷地約1000坪。Arusという分りやすく言えば兵庫の立杭焼のような古窯の工房の跡で、なんと窯と職人ごと中島さん一家が買ってしまったのです。
 奥様とアンデス夫人の紅子さん、茉莉ちゃんのお出迎えを受けて、再会を祝しました。なんと言っても中島先生一家とは1985年の初個展以来の長いお付き合いです。その間、エネルギッシュな仕事に惚れこんで画集(編集・大橋洋子)、「DOCUMENT1940-1994」(編集・佐野玉緒)を作りました。しかし、最近は日本での発表のあり方について、かなり厳しく苦言を呈してもきたのです。それは「北欧の太陽の画家」というレッテルを剥がして、本来のヨーロッパ・スタンダードの作品で日本でも勝負して欲しいということに尽きます。今回のアトリエ訪問はその確認でもありました。コペンハーゲンで朝の散歩をしていて偶然、素晴らしい画廊を見つけたのですが、それが中島さんが発表している「Brich」で、あくる日ここの美しいオーナーにも紹介されたのですが、一級のコレクションを持っています。
 紅子さんの心のこもったおもてなしと、アンデス君の配慮の行き届いた案内で、中島さんのマルモ国立博物館の中庭にある「自由の鳥」のモニュメントや、今秋に大きな中島由夫展が企画されている国立の文化センターの会場などを周り、美しい港町や、お伽の国のような村などを案内してもらい一歳半の茉莉ちゃんに遊んでもらい、野兎や野鴨と出会う朝の散歩などスウェーデンライフを満喫したのでした。
旅日記後半、イタリア編は次回
尚、「忙中旅あり  北欧・イタリア編」はスライド約100枚を駆使して
  第71回 火曜サロンとして 8月12日(火)にお話いたします。

2003.6「福島清の芭蕉への旅より」

 私の手元に福島清の「飯塚温泉駅前風景」と「伊達大木戸(だてのおおきど)風景」の2枚の絵がある。いずれも「芭蕉への旅」と題したシリーズの作品である。

 芭蕉は「奥の細道」の福島県飯塚(飯坂の誤記らしい)での辛い一夜について次のように書く。
「その夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿をかるに、土坐に莚(むしろ)を敷きて、あやしき貧家也。灯もなければ、いろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入りて、雷鳴(かみなり)、雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤・蚊にせせられて、眠らず。持病さへおこりて、消え入るばかりになん」とほとんど悲鳴を上げている劇的な箇所である。
 福島清の「芭蕉への旅」は、もちろん単なる奥の細道を辿る風景描写ではない。 「月日は百代の過客にして、行き交う人も又旅人也」に始まる芭蕉の精神を自らの人生・思想に重ね合わせて表現したものである。  もとより福島清は絵描きとしての死に場所を求めている男であるが、それが「旅に死す」芭蕉と響き合って、玄妙なる調べで私を誘惑する。

「いまからこんな病気をしていては先が不安であるが、今度の旅は辺鄙な土地への行脚で、現世の無常を思い、わが身を捨てる覚悟で出てきたのだから、たとえ旅の半ばで道路に死ぬようになっても、それも天命だと気力をすこし取り直し、伊達の大木戸を越えた」と芭蕉は書いている。
 伊達の大木戸は宮城県と福島県の県境、現在の福島県伊達郡国見町大木戸付近で、越えて行く山は厚樫山である。上野・谷中を立ったのが3月27日。ここ大木戸を越えていくのが5月2日のことである。
「伊達大木戸風景」は正面に標高約300mの形のいい厚樫山、中央下から右上にむかって広い道路が突き抜けていく。国道4号線・東北自動車道である。当然のこと現在の姿である。芭蕉の時代は奥州街道を通っていったはずだ。
 薄明のシルエット、有耶無耶(うやむや)の空、中央に屹立するがごとき枯れ木。旅の半ばで倒れるのもまた本望、風雅の道の故人たちも、たくさん旅中で死んでいるではないかと、自らを励まし「路縦横に踏み」とは、町奴のする大げさな歩みそのままに伊達に伊達の大木戸を越えたと、半ばヤケクソに芭蕉が洒落ているのである。
 こうしたこと全てに共感した福島清の眼差しを私もまた強く共感している。芭蕉の覚悟は福島清の覚悟であり、枯れ木は画家の姿である。行く方の見えない道は地平で突然、切断され、有耶無耶の空へと消えている。名状しがたい行方。
 この絵は14cm×67cmの小振りで、変形カンバス2枚を合わせ、徹底した凝り性の画家による金無垢丸縁の額に入っている。中央に縦線が見えるのはそのためである。手に取 って矯(た)めつ眇(すが)めつ眺めている(注)。寂寥感(せきりょうかん)に満ちていて「寂しさに悲しみをくわえて、地勢、魂をなやますに似たり」との芭蕉の言葉が低く静かに鳴っている。
 絵はまことに愛(いとお)しいものである。ぼくもまた時空を超えて縦横に思いを踏ん でいく。福島清という男が岩盤を穿つように画業に挑む姿に、芭蕉が終生を旅にくらした姿にと。その思いは私自身へとまた帰ってくる。

 私と福島清との出会いは山岳風景画家、前衛アルピニストとしての認識から始まり、 偏屈アルピニストと偏屈蝙蝠の合性は最初は決して良くなかった。すべてにいい加減を良しとしアバウトな性格の私と、何でも厳密、徹底を尊ぶ福島。でもその福島流の歩みは、些事(さじ)のゆるがせが決定的な事態を招く厳寒岩壁登攀「単独行」の思想を日常においてすら実践していることに思い至る。
 福島清の前半生については未完・未刊の大作「男達の神話」に書き継がれていて、これが滅法面白いのだが、彼は16歳、高校2年にして厳冬の12月末、海抜3千メートルの南アルプス「仙丈ケ岳」の単独登頂に挑み、成功するのである。
 軟弱派の私には想像を絶する世界であるけど、私にはそこに到る精神のありようがまことに興味深い。今、彼は日々の営みにおいて、そして画作において最も険しい路を遥か高みを目指して単独行を試みているに違いない。私はいつしか、私のあの血管から血が滲みだすような憤怒の日々の歩みと重ねあわせて、彼の絵を眺めていることに気が付く。
 振り返ってみれば、怨むよりその日々があってこその今であることを懐かしく思いだしている。

 数年前の海文堂ギャラリーでの個展の時に、すでに現在の「日本人への旅」の探求が始まっていて、私は半ば氏から押し付けられるように「田儀海景」という作品を求めた。
 田儀は出雲の国最西端で、海岸の断崖絶壁を山越えすると石見の国。山陰線の中でも景色のきれいなところで、ここから日本海を一望した風景で近景に枯れ木が立つ。
 福島さんは「この絵をじっくりと眺めて下さい」と意味ありげに笑って渡したのだった。 こうした謎かけで人を試すのが彼の癖で、私には、それが疎ましいのだが、今、こうして新しい作品と引き比べながら考えていることを思えば、すっかり彼の術中に嵌っていることを認めないわけにゆかない。
 絵は文学ではない、ましてや人生訓ではない。私のように文学や、人物になぞらえて絵を解釈することは避けるべきかもしれないが、飽かず眺めるうちに巡る思念こそ、絵をみる醍醐味ではないか。
(注)念入りに見る様

2003.5「お金は淋しがり屋」

 お金は淋しがり屋(蝙蝠日記) 4月上旬にしては花冷えで肌寒く、しかも生憎の雨にもかかわらず北野ガーデンは3 00名を超える参加者で溢れかえりました。このごろの天気予報は当たるから辛い。 この日も雨模様は避けられないと覚悟して、美しい緑の芝生のお庭を諦めて、おもて なしを室内に移し、受付、進行をスムーズに行うために前夜、喧々諤々(けんけんが くがく)の議論を重ねたのでした。
何度も通信に書いた「夜会・ぼたんの会」は、お洒落に、楽しみながら交流し、その 結果として神戸のNGO/NPOへ資金が提供されるという試みで、この趣旨に賛同 して東京から手弁当で駆けつけてくれた永六輔、灰谷健次郎、柳田邦男さんによる神 戸新聞松方ホールでのリレートーク「今 一番 言いたいこと」も600人と盛大で した。
この試みは、アートサポートセンター神戸が提唱しているMSI事業と名づけた新し い寄付の文化の提案で、昨年夏から準備してきました。 「しみん基金こうべ(黒田裕子理事長)」を中心に13の団体が協力して実行委員会 をつくり、構成団体自らがチケットを販売し、その実績に応じて50%を活動資金と して受け取ります。単なるイベントではなく、企画・連携・交流・成果配分という新 たな創造に繋がる仕組みが内蔵されていて、約300万円が活動資金として配分され ました。
こうしたお金のことに関わることは何か卑しいことのように思われたりしますが、実 は一番大事なことであり、1894年に内村鑑三が「後世への最大遺物」の講演で、 後世に残すべき第一に挙げたのも「お金」でありました。しかし、寄付とはお金に限 りません。芸を、時間を、汗を、場を、人脈を、著作権をと、それぞれが自分の差し 出せるものを「志(こころざし)」で束ねて文化を支えるのです。
 よく知られていることですが、こうした文化を支える仕組みとして、大きく三つあ ります。フランス型の国、アメリカ型の市民、日本型の企業主導であり、もちろん実 際はそれらの混合型です。超成熟社会となった日本は、企業主導から市民主導型に移 行しつつあり、文化の育成や創造に参加することは、お金の最も輝く使い方で、貴方 をも輝かせること請け合いなのです。すなわち、お任せ市民社会よさようならと自分 達の社会を自分達で支えるというプライドをもつことに繋がるのです。だいたい私達/NPOに関わる人間は艱難辛苦(かんなんしんく)ものともせず型が多 いのですが、こうした経験の副産物(利息)として、楽しみながら、気持ちよく、輪 を拡げ、新しい知識、経験を身につけ、また自分達の活動に生かしていくことが出来 れば、なによりです。
 私が書店業に従事した1973年頃の日本における出版物と競馬やパチンコなどの ギャンブルの売上高は、どちらも3兆円規模だったと記憶していますが、現在は出版 物は変わらず、ギャンブルは30兆円を超え世界一のギャンブル大国です。それに加 えてスポーツ振興のためのTOTO,地方自治体の財源のための公営カジノ論も盛ん です。この国は教育も、文化も、福祉も賭博のあがりで賄おうとするのですから、ま ことに変な国です。ここに見えるのは、この世の憂さを賭博ではらす、物事を深く考 えないように誘導された国民と、その揚がりで国や都市を経営しようという誠に発展性のない愚民政治思想です。バブルに踊って国全体がギャンブルに走り底知れぬお金を闇に捨てました。これではお金も悲しかろう。
 お金は淋しがり屋だから、ほっておけば、お金が集っているところへ寄っていって しまう。だからこまめにかまってやって、人様のお役に立つ喜びを教えて、光輝かせ てあげましょう。 ギャンブル参考データ(推定) パチンコ 26兆円 競馬 3兆6千億 競艇・競輪・オートレース 2兆4千億 宝くじ 8000億 toto 643億  この他、インターネットギャンブルをはじめ、相当なお金がギャンブルに流れてい る。(この文章の要旨を神戸新聞17日夕刊のコラム“360°”に書きました)

2003.4「沖縄通信」

 沖縄の基地は静まりかえっていた。私が沖縄を訪れたのは米英軍のイラク侵攻(実体は侵略ですが)の5日前の3月15日でした。瞽女(ごぜ)と呼ばれる102歳の旅芸人小林ハルさん(人間国宝)を鉛筆で描く木下晋さんの展覧会に立ち会うために佐喜真美術館にいました。軍のフェンスに囲まれた美術館は恐らくここだけではないでしょうか。
東京で針灸師をしていた佐喜真道夫さんはケーテ・コルビッツの版画を収集するなどコレクターでしたが、丸木位里、俊夫妻の「沖縄戦の図」(4mX8,5m)に出会い、この作品を展示する美術館建設を自らの使命として、米軍に接収されていた先祖の土地を米軍や那覇防衛施設局と直談判、三年の交渉の末、約千八百平方メートルを返還させました。宜野湾市のど真ん中を占拠する米軍普天間飛行場に楔(くさび)を打ち込むように建っています。まさにここの場(トポス)は「境界的場所(マージナル)」で、沖縄には日本の米軍基地の3/4があり、普天間基地は宜野湾市の1/4を占めているのです。
 設計は神戸大学に留学して建築を学んだ(返還前はまだ沖縄は外国だった)畏友、真喜志好一さん。彼は優れた建築家であると同時に沖縄の良心を体現する快男子で、名刺の肩書き「琉球国・建設親方」がその自負を表しています。私も同じ時期に神戸大学で学んでいますが、面識を得たのは画家の坪谷令子さんを通じてで、阪神・淡路大震災の後、しばしば神戸入りをして様々な助言を頂きました。この美術館のほかに壷屋焼物博物館、建築学会賞を受賞した沖縄キリスト教短期大学などの優れた仕事があります。
 佐喜真さんから相談を受けた真喜志さんは、その用地として沖縄の在来種の植物が豊で、ウチナンチュ(沖縄人)の魂の拠り所としての御嶽(ウタギ=聖地)、亀甲墓があり、海に静む夕陽が見える場所を探し、それが佐喜真さんの先祖の場所としてあったとは奇跡のような話です。
 この美術館の屋上に6段と23段に分かれた階段があり、昇りつめた壁に四角い穴が開いている。6月23日(沖縄慰霊の日)の黄昏時、穴の中に、すっぽり夕日が収まるように設計されています。この日は沖縄の日本軍司令官が自決し、組織的戦闘が終結した日(1945年)です。壁の向こう側は、もう普天間基地そしてその向こうに東シナ海が見えます。返還させた土地に反戦慰霊美術館では米軍も驚いたでしょうねと、佐喜真さんに問うと「いや、彼らは展示品の内容を全部を知っていて案外、簡単に判を押しました、むしろ抵抗したのは日本側でした」と笑う。この美術館の横に大きな亀甲墓がある。(沖縄特有の一族の為の墓で戦争中は防空壕のように避難場所でもあった。)
  「ここは特別に厳しい場所ですから、たんに反戦という捉え方ではなく、深くもの想う美術館であって欲しいのです」と答える。
 この小さな美術館に毎年5万人を超える人が訪れ、そのうち4万人が修学旅行などの学生だという。
 来年で「沖縄戦の図」が描かれて20年、この美術館が出来て10年である。是非、一度は訪れて欲しい場所である。 

早坂暁X木下晋のトーク

 佐喜真美術館の空間は見事に美しい。大きな「沖縄戦の図」を飾るための高い天井、静謐を大切にして話すことも憚られる緊張感に満ちている。きっとこの濃密な気配は、この特別な場(トポス)が有する「ゲニウス・ロキ」すなわち「地霊」によるものにちがいない。
 ここで木下晋さんの展覧会をやる意味は大きい。詳しい説明をしている余裕はないけど、モデルである小林ハルさんをはじめ、木下さん自身もまさにマージナルであり地霊と深く繋がった存在だからである。
 トークに集った80名くらいの半数は高校生のようだったが、吉永小百合の「夢千代日記」の脚本で知られる放送作家、早坂暁さんは木下さんの絵を評して「欧米の絵画は光を描くのに対して木下さんは、時間を描く、対象の中を流れる時間が美しい、時間こそ帝王である」「神は細部に宿るという言葉があるが、同じ細部を写しても写真は神を宿さない、事実を写しても真実を語らない、木下さんの絵は真実を語る」と話し、木下さんは学生を教えることについて「学ぶということは自分の中にある豊な感性を取り戻す、回路をつなぐリハビリテーションである」と応じた。
  夜は早坂暁さんを交え、木下さん、佐喜真さん、真喜志さんらと人気ボーカルグループ「ネーネーズ」の民謡酒場「島唄」に繰り出し、それに飽きたらず今度は正統派民謡「上原正吉芸能館」で「朝里屋ユンタ」などをたっぷりとを聴き、促されて舞台に立った真喜志さんが山猫奏法と呼ぶ沖縄三味線での軽妙な童謡「でんでん虫」を交えた「沖縄を返せ」を聞き、皆と別れて、送っていくという真喜志さんともう一軒どこかの酒場で泡盛に溺れた。
 翌日、例によって早く目覚めて、バスを乗り次いで糸満まで行き、そこからタクシーで独りで沖縄戦で最も悲惨であった、糸満と豊見城(とみぐすぐ)の沖縄南部の戦跡を訪ねた。
 あまり人の行かない「白梅の塔」では当時のままに女学生たちが身を隠し、そして逃げることを許されずに「生きて辱めを受けるなかれ」と自決を強いられた壕が残っていて、誰もいない壕、沖縄特有のガジュマルの木の根っこにできたガマに身を潜めると、まさに丸木さんの絵に見た光景をまざまざと感じじんわりと恐怖がうちから滲みでてくる。
 「ワラビンチャー(こどもたちよ) ヒンギリヨー(にげなさい) ヌチドゥ(いのちこそ) タカラ(宝)」。
 加藤周一さんの「戦争に反対する動機は、客観的な理解過程ではなくて、一種の倫理的正義感です。つまり子どもを殺すのは悪い、ということがある。それで、ためらうことはない」という言葉を思い出しながら、こうした辛い体験を多くの犠牲の中で学びなが、今また、イラクの人々を同じ目に合わせる愚行に手を貸す政府を持つことに耐えられない思いがします。ここ沖縄ではガマが病院であり、司令室であり、塹壕であり、避難所でした。ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館、真武仁を回り、豊見城の旧海軍司令部へ行きました。ここで壕の天井で思い切り岩に頭を打ち、瘤が出来、血が滲みました。
ご注意ください。体制に批判的な者には天誅を下す霊があるのかもしれません。
 ともあれ私達はあまりにも無力であり、私たちの日常と危険な現実との間には距離がありすぎます。しかし、もっと日常的なことですら私達は闘っていないのではないか?
こうした蛮行のDNAは、私たち自身のものなのでしょう。そのことを見据えた上で、私達の行動をチェックしながら選び取っていくことから始めねばならないのでしょう。そして、遅ればせながら丸木さんの絵、佐喜真美術館の楔(くさび)は私達にも向けられているのだと当然のことに気が付きました。

追記

 糸満から帰った私を真喜志さんがホテルまで迎えにきて、那覇市前島3丁目にある元、結婚式場の高砂殿をNPOが管理運営を任されている「前島アートセンター」へ行き、佐喜真さんも合流。
神戸のCAP HOUSEと共通するものがあり 若い理事長の宮城潤さんの説明を聞き、ギャラリーでの制作に飛び入り参加。夜は、また真喜志さんと美味しい沖縄料理と泡盛。最終日は、また一人で中部の北谷(ちゃたん)へバスで行き、珊瑚礁の紺碧の海を眺めて海岸を歩く。気温22度。止せばいいのに映画館へ入って「戦場のピアニスト」を見る。なんと男性優待の日で¥1,000。         
 

2003.3「雪の槐多忌へゆく」

 一夜明けると、昨日の暖かさが嘘のように深々と雪が降っていた。私は24回目の村山槐多を偲ぶ槐多忌に初めて参加するために信州に行って来た。2月23日午後3時から公開鼎談「美術館の役割について」を聞いて、あたりが少し暗くなってくる5時半から信濃デッサン館前の広場で盛大な焚き火を囲んで槐多の法要をすませ、その後は地元の皆さん方が振舞う大鍋の豚汁とお酒で楽しく交流した。鼎談の会場は近くのホールで満席、歌手のおおたか静流さんのアカペラ・コンサートと鼎談の2時間半はあっというまに過ぎた。心がほっこりと暖かくなった。
 鼎談の司会はNHKアナウンサーで人気番組「プロジェクトX」の国井雅比古、シンポジストに星野知子(女優)、辻井喬(堤清二)、窪島誠一郎(信濃デッサン館館主)の豪華メンバー。

槐多の絶唱「いのり」

  神よ
  いましばらく私を生かしておいて下さい
  私は一日の生の為に女に生涯ふれるなと言われればその言葉にもしたがいませう
  生きて居ると云うその事だけでも
  いかなるクレオパトラのにもまさります
  生きて居れば空が見られ木がみられ
  画が描ける
  あすもあの写生がつづけられる
  この詩を残して1919年2月20日午前2時35分、村山槐多は満22歳5カ月の短い生涯を閉じた。
  死因は結核性肺炎。槐多忌はすでに槐多の人生をこえて続けられている。
槐多の人生を振り返りながら、自分自身を見つめ直す日でありたいと窪島さんは伝えた。 そして今回の旅は、私にとってまさにそのような旅であった。
鼎談は、現在、公立、私立を問わず、今おかれている美術館の厳しい現状の報告から始まった。
信濃デッサン館での3万5千人/年の入館者が2万人に減少しているという。ちなみに「無 言館」は10万人。合わせれば結構な数に見えるけど、「無言館」は「戦没画学生の会」 が運営していて財政は別なのだそうだ。
「日本人の心の耐久力、心の筋肉が萎(な)えてきている気がする」でも「本当に来たい人だけが来ればいい。美術館とはそんなものだ」と話はなってきた。自棄ではない、自負の言葉である。私も「ギャラリーとはそんなものだ」と心の中で呟いた。
窪島さんの、例によって真摯であったり露悪的であったり(むかしは窪島さんの自虐的なもの云いに戸惑ったが、今は微笑ましい)の自在の語り口に同意したり、国井さんのプロジェクトXの秘話に涙ぐんだり、良い会でした。
 盛大な炎と、短い命を燃やした槐多のガランス(朱赤色)に思いを重ねて見とれながら、この集いに参加した木下晋さん、沖縄の佐喜間美術館の奥様、梅野絵画記念館の梅野隆館長などと話しが弾んだ。
 その日の宿は近くの別所温泉の上松屋。廊下にも部屋にも、来年、ギャラリー島田で個展をお願いしている水村喜一郎さんの絵が掛かっていて嬉しい。寝る前に風呂に行こうとしたら廊下に津高和一先生の墨一色の版画が3点掛かっていた。こういったセンスで旅館の格が分る。他の点でも隅々まで配慮が行き届いているということだ。別所温泉は、清少納言の『枕草子』に記されているように古名を「七久里の湯」といい、前山寺、安楽寺、常楽寺などの名刹、史跡に囲まれた歴史ある湯の里である。
 

槐多庵での光秀展

 例によって早起きの私は同室の信濃デッサン館の館員である庄村君が寝ている間に朝湯に浸かり、傘を借りて相染川に沿って新雪を踏みながら散歩した。渓流の音が、昨日、焚き火のそばで窪島さんが「ずっとこんな馬鹿なことをやってきた」と呟き「そういえば島田さんも馬鹿なことやってるね」と言っていた言葉と重なった。
 9時半、デッサン館は昨日とうって変わって雪に埋もれていた。昨秋、拡張工事を終えた「槐多庵」での松村光秀展の打ち合わせの為である。窪島さんにいわくデッサン館は「ゴキブリホイホイ」の箱を持ち込んで地元の工務店に設計させた」「だから人がホイホイ入る」と得意の露悪節で笑わせるが、デッサン館、無言館、槐多庵、すべて窪島さんのデザインで、空間感覚が素晴らしい。ぼくはまだ見ていないけど東京の建て直された「キッド・アイラックホール」もなかなか凝った造りだそうだ。借金、借金と口癖のように繰り返す窪島さんだが、彼のコレクション、美術館の在りかた、文章と全て旺盛な自己表現だが、建築デザインも最もお金をかけた彼の重要な自己表現手段であるに違いない。
 槐多庵はデッサン館より、さらに洗練され簡素な中に魂を鎮めるような気に満ちた美しい空間です。絵一筋に打ち込み、それゆえにまねいた貧窮や飢餓、病と闘いながら、自分だけの孤独の道を歩み、灼熱のような短い人生を駆け抜けた槐多を祈念する場での展覧会は、「絵に命を預けた画家」のみに許されるのだと確信した。木下晋がそうであり、水村喜一郎がそうである。今回、選ばれた松村光秀も勿論そうである。
 槐多庵のおける松村光秀展は6月28日から7月21日までです。  あの空間に松村先生の作品が並んだ姿を思い浮かべただけで興奮します。

コロンボのごとき人

 11時、タクシーを呼んで北佐久郡北御牧村八重原芸術むら公園にある梅野絵画記念館へ。佐喜真夫人をはじめ同行3名。「明神池まで来ていただいたら、大きな建物はうちだけですから、すぐ分ります」と館長はおっしゃるが雪一面で、建物の大小も分りづらい。ぐるぐる回って、迎えに出てくれた梅野館長を発見。休館日だけど奥様と一緒に開けて待っていて下さった。梅野さんとは昨日が初対面でしたが、焚き火に照らされた姿はなんとなく刑事コロンボを思わせ、ぼくを隅のほうへ引っ張っていって、早速尋問してこられたのでした。
明神池の向こうにあるはずの浅間連峰の雄大で美しい姿は雪に煙って今日は見えない。梅野さんは良く知られたコレクターであり、藝林美術研究所を主宰し、埋もれた画家、無名の物故作家などを発掘顕彰してこられた。そのコレクションを北佐久郡北御牧村に寄贈し、ここに梅野絵画記念館が建立された。ゆったりとした展示空間に梅野さんの強烈な想いを伝えようとする執念がありありと感じられ、その一角にかなりのスペースをとって我が松村光秀さんの作品が展示されている。親しくさせていただいている神戸の蒐集家、三浦徹先生が、この美術館主催の「私の一点展」に松村作品を出品されたご縁で梅野館長も松村ウィルスに感染された。ここで3月29日から6月1日まで「異色の現代作家たち  松村光秀 蔡国華 村上肥出夫」がロングランで開催されます。館長室に招じ入れられた私は、「絵に命を預けたコレクター」の思いの丈をたっぷりと聞いたのでした。「孤独な仕事です」とおっしゃる梅野さんにとっては、わずか2時間ばかりの滞在では、まだまだ話足りなかったでしょう。  さて私はといえば「芸術に命を預けた人に命を預ける」覚悟はそろそろ出来たかなと思うこのごろです。