2002.11「忙中旅あり2002」

 レオナルド・ダ・ヴィンチの「マシーン」
ヴェネティアでは”アカデミア美術館(Galleria dell’ Accademia)”、”ドウカーレ宮殿(Palazzo Ducale)”で14世紀~18世紀にかけてのヴェネティア派あるいはトスカーナ派といわれるベッリーニやジョルジョーネ、ティアポロなどの作品をたっぷりと見た。塩野七生さんの描くヴェネティアの魅力ある男たちが、この輝かしい街を作り上げてきた歴史を評議員大会議室に偲び、サン・マルコ広場を挟んで寺院と反対側にあるコッレール博物館(Museo Correr)では、ヴェネティアの歴史や生活、さらには戦いの歴史、すなわち商船でもあり戦艦でもあった船の模型や武器、武具、海戦の模様などを興味深く見た。
 特筆しておきたいのはラ・ズッカへ食事に行くときにふらっと立ちよった近代美術館(Galleria Internazionale D’arte Moderna)でのレオナルド・ダ・ヴィンチの「マシーン」という展覧会です。ダ・ヴィンチのデッサンを基にした様々な機械の木製模型があって、触って動かしていいのです。起重機やべアリングや運搬のための機械などの模型が30台ばかりあり、日本の子供たちを夢中にさせるだろうと思いました。ミラノのスカラ座の前にレオナルド・ダ・ヴィンチの像がありますがミラノのダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館にも彼のデッサンをもとに作った模型がありますからそこからの巡回かもしれません。帰国後、書棚の肥しになっていた「知られざるレオナルド(岩波書店)」を取り出してみました。”他の人々がまだ眠っている暗いうちに、あまりにも早く目覚めてしまった男”(ジグムント・フロイト)が絵画、水理学、解剖学、機械、建築、楽器まで研究した手稿、いわゆる1965年に発見されたマドリッド手稿の抜粋研究書であるこの本にヴェネティアで見たマシーンのスケッチを発見して、改めてこの本棚の肥しを読んで見る気になっています。
この本も大部です。知的好奇心はこうして増殖していくものなのですね、いくら時間があってもたりませんね。それにしてもこれはという本はやはり買っておくものですね。書店主の間は、本は無限に手元にありましたが、いまはそうはいきません。

ヴェネティアの素敵な男たちへ乾杯

 今、ヴェネティアの歴史についてレクチャーする紙面はないけど、塩野さんに教えられぼくが街を歩きながらしきりに考えていたことを簡単に。ヴェネティアの歴史はローマ国の末期、アッティラ率いるフン族の侵攻を怖れたヴェネト地方に住む人々が、452年に潟(ラグーナ)に住み着いたことに始まる。魚と塩以外の資源を一切もたないこの国は交易を生業とし、地中海に海のハイウェーを確立し、莫大な富を蓄積した。しかしヴェネティアの歴史はまたこの海路を死守するための戦争の歴史でもあった。商人の国であったヴェネティア人はシェイクスピアの「ベ ニスの商人」で冷徹な金儲け一途なイメージを与えられたが決してそんなことはない。ヴェネティアは1797年にナポレオン率いるフランス軍に全面降伏して共和国が崩壊したが、潟(ラグーナ)を天然の要塞として1000年の間、このアドリア海の女王と謳われた島へ、ただの一度も敵の侵入、破壊を許さなかった。このごろ「ノーブレス・オブリッジ(高貴なる人の義務)」と良く言われる。これは社会貢献の義務ということだが、ヴェネティアの男たちは、この美しい街を守るために私財も命すら投げ出した。今、私たちが感嘆している街はこのようにして守られてきたのだ。ゲーテが「イタリア紀行」の中で「私を取り囲んでいるものすべては、高貴さに満ちている。これらは、ひとつにまとまった人間の努力によって生まれた偉大で尊敬を受けるに値する作品である。この見事な記念碑は、ある一人の君主のためのものではない。全民族の記念碑なのである」であると言ったのはこのことなのだ。ぼくがヴェネティアで酔っ払っていたのはワインのせいではない、この男たちに心からの乾杯を捧げたためである。

絵画繚乱のミラノ
  24日は一日中、美術館である。朝、早くドゥオーモ(Duomo)に籠もる。14世紀後半に着工し正面が完成したのは19世紀初めにナポレオンによってであった。
 8時半の開館を待ってブレラ美術館(Pinacoteca Brera)へ。スカラ座の右手のヴェルディ通りに続くブレラ通りに面している。歩いても15分である。ここも2度目で、10年前に当時、神戸流通大学の助教授であった吉田順一さんをコーディネターとし、私が団長として神戸の若手商業者の皆さんとヨーロッパを回った時に自由時間を利用して駆け込んだ。
今回、時間はたっぷりある。中庭で迎えてくれるのがカノーバ作のナポレオン一世の銅像である。シーザに見立てたという裸のナポレオン像には本人が閉口したそうだ。
この美術館そのものが1776年にオーストリアの女帝マリア・テレーゼによって創立され、ナポレオンがコレクションを充実させた。ヨーロッパの歴史は重層的で一筋縄ではいかない。音声ガイドを借りて見て回った。15世紀から現代まで、イタリア美術の歴史が一堂に集められている。印象に残っているベスト5.ベッリーニ「ピエタ」「聖母子」マンティーニ「死せるキリスト」カラバッジョ「エマオの晩餐」それにベッリッツア「第4階級(Quatro Stato)」。 このベッリッツアはブレラの一番出口に掛かっている大画面なのだけど、じつはこのあと見た市立近代美術館(Civica Galleria d’Arte Moderna)の入り口にも掛かっていて、ブレラが習作、近代美術館のが完成作ということらしい。この絵が、まさにイタリア美術の19世紀と20世紀を繋ぐ位置であるということなのだろう。じつにうまい配置である。「第4階級」は労働者の行進、いわばデモ風景で、ブレラの中世的絵画と全く趣を異にするものだった。
ことのついでに近代美術館に触れるとドゥオーモから地下鉄1号線で二つ目のPalestro駅の近く、旧王宮(Villa Reale)の中にある。入場は無料。モランディ、モリジアニ、ピカソなどもある。
別館にどんどん人が入っていくので私も入ってみたらDUANE HANSON(1925年ミネソタ生まれ)の「More than Reality(真実を超えて)」という展覧会をやっていたここは有料。作品はアメリカの典型的な下層階級に属する人々を、シャツも、靴も、下着も、髭も、体毛もすべて、瞬きをしないという以外は実在そのままに制作する立体作家で、名前は知っていたけど作品は初めて見た。同じアメリカのジョルジョ・シーガルは良く知っているけど、彼の作品は人物が全て真っ白にオブジェ化していて、それだけにもっとエモーションに訴える。僕はシーガルの方が好きだ。でもハンセンの掃除婦や工事人夫、ガードマン、ポリスなど下層階級の人々の、ひたむきで誠実であるだけに、肉体的にも精神的にもどこか弛緩して空ろで、現代という時代がかかえている病理をむき出しにして見せられている不快さまで達していることでアートたりえているのだろう。
 ミラノにはもう一つ現代美術館(Civico Museo d’Arte Contemporanea)がある。ドゥオ-モ正面を背にした左側に王宮(Palazzo Reale)があり、1階が博物館、3階が現代美術館になっている。1階チケット売り場に大きなマリリン・モンローのポスターが貼ってあり、へえ、現代美術館の特別展がマリリンかと驚きながら、ともかく入ったら会場は地下で、写真家ダグラス・カークランド(Dauglas Kirkland) によるベッドでシーツにくるまるモンローを延々と写した写真展で、早々に退出。出口で聞くと現代美術館は3階だと教えられて、上がってみるとなんとNYのホイトニー美術館によるNew York展だった。ミラノの美術館は何故かアメリカの現代美術に占拠されてしまっていた。この展覧会は私には馴染みの深い作家ばかりで、既視感に満ちていて発見はなかった。

我が愛しの王国・ポンピドー・芸術センター
 パリでは、たくさんのことを報告しなくてはなりません。真っ先に訪れ6時間ほど過ごした私のパリの恋人といってもいいポンピドー芸術センター(Centre Pompidou)。日本へ1957年に来日して「アンフォルメル(非定形)旋風」を巻き起こし、「具体」美術運動の興隆期に影響をあたえあったジョルジュ・マチューの展覧会をジュ・ド・ポーム美術館で見たこと、10度目くらいになるオルセー美術館のことなど、書きたいことは山ほどあります。ここでは、ポンピドーのどこに惹き付けられているかを書いて、私たちの新しい兵庫県立美術館のありようとを考えるヒントにしたい。私のエッセイ集「忙中旅ありーー蝙蝠流文化随想」(エピック社刊)にも詳しく書いた(p94~99)ので合わせて読んでいただきたい。
ミラノからパリに入ったのが25日の日曜日。商店は閉まっている、まだバカンスのところも多い。こんな日は美術館に籠るに限る。
 ロンドン在住で5月にギャラリー島田で個展をさせていただいたボリビアの画家フェルナンド・モンテスさんがパリにくるなら是非ここに泊まれと教えてくれたホテル・モンペンシエール(Hotel Montpensier)に入るとすぐに、近くのパレ・ロワイヤル(Palais Royal)からメトロでランバトー(Rambuteau)へ。地上へ出ると目の前に工事中の現場のように配管むき出しのポンピドーの裏側だ。通りはローラー・スケーターの大群、競技のスタート地点らしい。
表に回ると、大きな広場のそこここでパフォーマンスが繰り広げられていて黒山の人だかり。チケット売り場にも行列である。午後3時。カフェやショップやレストランに行ったりしながら(再入場可)午後9時の閉館までいた。
 新しい兵庫県立美術館は「芸術の館」と標榜しているけど構造、設備は美術中心でしかない。ポンピドーは20世紀の芸術・文化の資料収集を目的として建てられ、そして正にそのように機能している。
 私がいつも籠る国立近代美術館は4階と5階にある。4階が入り口で1960年から現在までの美術を、5階が1905年から1960年までの美術を展示している。ちなみに1848年のパリ2月革命の年から20世紀初めのピカソの「アビニヨンの娘たち」に代表されるキュービズムの誕生直前までがオルセー美術館、それ以前、古代から19世紀初めまでの美術はルーブル美術館で見ることが出来る。これらの美術館が歩いてはしご出来る距離にあるけど決して一日で回るなど無謀なことはせぬように。
 6階は企画展示の三つのギャラリーとレストラン。このレストランはグルメでグルマンであったポンピドー大統領のファーストネームにちなんで”ジョルジュ”。改装前にはカフェテリアの雰囲気で、いつもごったがえしていたのに、2000年にリーボーンしてからは高級感溢れるレストランに変貌していて驚いた。料理も芸術だというわけで、高いけど、おいしい。なにより働く若い男女がファッションショーのように、モデルのような格好で音楽にあわせて動きまわる。きっとコンセプトが「舞台」なのだ。空間仕掛人コスト兄弟が経営、若手建築家ブレンダン・マックファルレーヌとドミニク・ジャコブの手がけたインテリアが話題を呼び、中央にディスプレーされた大きな排気管のオブジェが目を引く。お洒落なクリエーターやデザイナーが集まる人気スポットらしい。でもここからの眺望だけでも充分のご馳走だ。
 その他のフロアーには三つのシネマや広大な図書館があって自由に閲覧できる。 図書館は全ての書棚をつなげると14kmに達すると言われている。2階には宗教、社会学、政治、法律、科学、工学関連の書籍が、3階には美術、歴史、地理関連の書籍や、ビデオ、CDなどのコレクションもある。ここは10時までオープンしていて、遅くまで一心に勉強したり遊んだりしている人々で賑わっているのを見ると心がうれしく騒ぎます。
 1階チケット売り場の横には「子供のためのギャラリー」があり、単なる託児施設ではなく、子供のためのワークッショップや企画展が常時開催され、遊びながら芸術体験が出来るのです。21世紀音響研究所を初め、枚挙にいとまがない施設が内包され20年間で1億6千万人、年換算で8百万人、一日2万5千人が訪れる人気施設なのです。これは人気テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の現在の入場者にほぼ匹敵します。
 兵庫県立美術館の設置について、様々な検討が行われたはずですが、こうした成功例に学ぶことなく20世紀最後の旧来型大規模美術館になってしまい、名前だけが「芸術の館」なのか、理解に苦しむところです。
ポンピドー芸術センターこそは大人の知的遊園地なのです。日本では大人の痴的遊園地ばかりが賑わっている気がします。