2002.7「 加藤周一先生と渋江抽斉」

半年ほど前の加藤先生を囲む会で浦上の文ちゃん(古い友人で東灘市会議員)がひょんなことから「鴎外の渋江抽斉が面白いなあ」と言い出して、加藤先生が「あれは歴史小説の傑作だ」と応じられた。ぼくはギックとして黙った。ぼくは読み始めて、難解な漢字の羅列に辟易して途中で投げ出した苦い思い出がある。
 それに以前、この通信にもえらそうに書いた中村真一郎の大部「木村蒹葭堂(けんかどう)のサロン」が滅法面白いのだが、これも随所に漢文、漢詩の引用があり、ここをすっ飛ばして読んで、なおかつ未だに読了していない。
 ところが次回の加藤先生を囲む会は「森鴎外の渋江抽斉」をテキストとする勉強会だという。腹を決めて読む以外にない。最初の1/3を辛抱して読めばあとは楽だと聞いていたとおり、すらすらとはいかないまでも随所に魅力ある人物が出てきて鴎外の筆のすべりも 良く、なるほどなかなかのもんである。
 医官であり時代考証家であった渋江抽斉を、遅れること58年の同じような境遇にあった鴎外が、自らに重ねるようにして書いた江戸時代へのオマージュが面白くないはずがないのだが、それにしてもこんなに難解な漢字の羅列が新聞連載小説であったとは。日経新聞の話題の連載小説が渡辺淳一であったのと比較して、当時の読者のレベル、あるいは新聞社の見識に驚いてしまう。
 ところが調べてみるとやはり話はそう簡単ではなく、松本清張によれば、連載中(東京日日新聞・大阪毎日新聞)に、当時のインテリからもかなりの批判があったらしい。要は、発表する場所を間違っていないか、抽斉は今でいえば「文学界」か「世界」、あとに続く「伊沢蘭軒」にいたっては学術雑誌だろう、非常識だ、と糾弾されたらしい。ぼくは伊沢を読んでもいないし本も持っていないけど抽斉以上に漢文の引用が長々と続き、何日にも渡って延々と白文(注釈などのない漢文)が続くという。松本清張は「大概の鴎外研究家も抽斉については書くけど、蘭軒に触れること少ないのは、ろくに読んでいないに違いない」と皮肉っている。
 自信家で、案外と戦闘的性格の鴎外先生は、これらの批判に反論して「学殖なきを憂うる、常識なきを憂いない」と強弁する。非常識と言われてもかまわない、この程度の教養がない事を憂いると宣言する。
 それにしても江戸時代の文人とはなんと教養豊なことであるか。たとえば木村蒹葭堂のサロンに出入りした数千人の知識人たちが、一人残らず中国古典、四書五経(大学・中庸・論語・孟子)(易経・書経・詩経・礼紀・春秋)という共通の教養をもって自己形成し、その文学的著作においても、共通の価値観をもっていて、いわば一つの「文学共和国」を形成しており、その価値観なり趣味、感覚は、同じ中国古典語で表現している中国人や朝鮮半島人とも共通であるから、それは国際的、普遍的なものである。
 彼らはそれぞれのジャンルにおいて塾に入り師を得て学んでいく。教育というものが大 衆化されていない時代はすべて個人教授にほかならないのである。ならば彼等が学者かと いえばそんなことはない、武士であったり商人であったり町人であったりする。
 蒹葭堂自身、大阪の酒造屋の息子ながら病弱で若くして隠居し僅かな本家からの仕送り で妻妾と娘、それにお手伝いの5人家族を養いながら膨大な博物館コレクッションを蒐集。 幕府に睨まれながら、書画や本草学、医学、蘭学の貴重な文物や標本を蒐集し、屋敷内は さながら私設博物館と化し全国から一級の知識人が集まってきたという。 私にとって蒹葭堂は憧れである。
 渋江抽斉のとっつき悪さと面白さは森鴎外が発見した史伝の新しい形式にある。 それは鴎外が徳川時代の史実を調べるために「武鑑」という今でいえば「帝国興信録」の ような文献を蒐集していてしばしば「渋江氏蔵書記」という朱印のある本に出会い興味を もつことから始まる。そこから推理小説仕立ての謎解きがはじまる。前半は鴎外が勝手に 面白がって考証していくのに付き合わされて疲れる。だんだん面白くなってくるのは登場 人物の輪郭がはっきりしてきて生き生きと活写されはじめてからである。
 とりわけ抽斉の4人目の妻、五百(いお)が精彩を放っていて、抽斉が人の窮状を救うために8百両の無尽講を集めた夜、これを奪いにきた3人の武士に風呂に入っていた五百が腰巻一つつけただけの裸体で懐剣を銜え、湯をかけて追い払ったなどというエピソードなどが紹介される。ところが鴎外にこの話を伝えた抽斉の子息(すなわち五百の子でもある)である保さんの元の話しでは五百は全裸であったそうな。その方が刀を抜いた武士3人が尻尾を巻いて逃げ出した五百の迫力にふさわしい。
 ところで抽斉は木村蒹葭堂に遅れること69年で、鴎外は抽斉に遅れること58年。中村真一郎は鴎外に遅れること55年であり、読者たる私は真一郎に遅れること24年である。中村真一郎の「木村蒹葭堂のサロン」のほうが私たちの時代に近いので引用の頻繁な漢文、漢詩を除く地の文は分り易い(私のこうゆう書き方そのものが時代考証の真似事である)。
 中村真一郎といえばフランス文学者、愛と遍歴の『四季』(75年),『夏』(78年,谷崎潤一郎賞),『秋』(81年),『冬』(84年文学大賞)の4部作で爛熟した愛の世界を描く作家だとしか認識していなかったが、晩年に(1998年没)、森鴎外を強烈に意識し、鴎外の歴史小説3部作にならぶ「頼山陽とその時代」「蠣崎波響の生涯」「木村蒹葭堂」というこちらも3部作を著すのだから面白い。
真一郎は「山陽(ホモサピエンス知識人)のように学問を楽しみ、波響(ホモ・ファーベ ル芸術家)のように芸術に遊び、蒹葭堂(ホモ・ルーデンス風雅の人)のように社交生活 に明け暮れるというのが私の地上天国の夢であった」と書いているが、ぼくには学問を楽 しむことは無理だけど、そのほかは僕の夢でもある。  この関係の面白さはいくら書いても尽きない。またの機会にしよう。

泣く蝙蝠(こうもり)
忙しいとは。心を亡くすことだとは知っていても忙中にあればなかなか気がつかない。 このごろ、ようやく心にゆとりが持てるように感じる。 西宮の大谷美術館での元永定正展に朝10時に行った。入館するまえに庭園をゆっくりと散歩した。何十回をここに来ているが、庭の散策は初めてである。きっと元永先生のことだから、庭にも仕掛けがあるに違いないと思ったからだけど、時間にも心にもゆとりがなければ、いつものようにサッと見て、サッと帰ったに違いない。 紫陽花が美しく咲き、よく手入れされた日本庭園を歩くのは心の底からうれしい。 そここに元永先生の遊び心が溢れている。ふと気がつけば小さな方舟のような石の作品があり山口牧生「いとけなきものの舟」2001年とある。さらに進めば小さい円形の庭に見慣れた4っの石のオブジェがあり優しく私に微笑を送る。確か津高和一先生のご自宅の庭にあったものではないか。あとで川辺学芸課長にお聞きすると、「いとけなき」は山口先生がお亡くなりになる直前の作品で、津高先生のオブジェは震災後ここに安息の場を得たとのことだ。
 元永先生の展覧会は回顧展ではなく、新作を中心に今を楽しむ先生の柔軟な発想の横溢したもので「理屈やおまへん」と、固い私の頭をぐにゃぐにゃにしてくれる。79才のこの若さはただのもではない。元永定正そのものが偉大な作品である。作品との言文一致である。悦子夫人とのコラボレーションもすばらしい。
 帰りに再び庭へ周った。山口先生の剛直な作品と違う「いとけなき」に感じた「かそけきはかなさ」を確認し、津高先生に挨拶をした。
 いつまでも蝙蝠は泣かないなあと思われる方はごめんなさい。今から泣きます。 6月4日、日本タ対ベルギー戦の夜、ギャラリー島田では火曜サロンがあって「若き女性美術家の生涯」を上映した。奇特な方18名が鑑賞した。この映画は長田に生まれ育った画家の卵、佐野由美さんが震災後からネパールで貧しい子供たちを教えるボランティア教師となり、帰国前日に交通事故に合って亡くなるという短い人生をおったドキュメンタリーである。3回目だが涙が出る。「わたしはここに捜すものがある」という眩しいばかりのポジティブな姿勢と、突然訪れた死という不条理の格差にいつも動揺する。
そのあくる日、さきほど届いた武谷なおみさんの小冊子「プリマドンナの<声>をひろうーーマンマ・シミオナートとの対話」を読みながら一階の画廊で弁当を食べていた。 ぼくはメゾソプラノの名歌手ジュリエッタ・シミオナートのことはよく憶えている。NHKが招聘したイタリア歌劇団の「アイーダ」公演は1956年が最初で、まだ家にTVのなかったばくは(当時12才でした)、須磨駅前の喫茶店に、父に連れられて見に行ったのです。武谷さんも10才のときにTVでみたシミオナートに憧れ、文通がはじまり、母子の情愛に溢れた付き合いになるのですが、阪神大震災に見舞われ九死に一生を得て「マンマ・ジュリエッタ、私いきているよ!」と公衆電話に叫び、電話のむこうでシミオナートがワット泣き出した。というくだりで、私も涙が止まらなくなりました。  
 そして昨日、7月に個展をする井上ようこさんが、4月に亡くなった朝日新聞の学芸記者、井上平三さんのブックレット「私のがん患者術」(岩波ブックレットNo、569)を届けてくれて読み出して、もう駄目です。井上さんとも古いお付き合いで、癌と闘っておられたのは存知あげていましたし、奥様も存知あげていて、密かに心配していました。
 ギャラリー島田が北野に誕生してからもサロンにも足を運んでいただき、なにか透明感すら感じる、強く印象に残るイメージが焼きついています。かれは自らの体験をこのブックレットに残し、見事な戦死を遂げた。私は事情があって40年以上読み続けてきた朝日新聞を止めてしまったので井上さんから聞かされるまで平三さんの死を知らなかった。
 このブックレットは淡々としたなかにも武士(もののふ)平三さんの覚悟の文が素晴しいが、最後に同じがん患者として生きるノンフィクション作家の柳原和子さんの「今年の桜がなぜこんなに早く咲いたのか・・・・、今、わかった。井上さんに見てもらいたかったからだ・・・・。(略)。早すぎた桜はしかし、鮮烈に、惜しまれながら、誰の心にも残像をとどめた」と書き、奥様が、主人の手術のときはいつも桜とともにあり、桜とともに散ったと受けられた文に涙が滲みました。これから桜を見る度に平三さんの事を思い出すでしょう。