すこし興奮気味で深夜3時に目が覚め、うとうとしただけで5時には起床した。まだ暗い道を星を額に受けるように歩いた。
空路大分に入り、バスで大分駅へ、そこから一両だけの普通電車で1時間弱。
今年の春は早く、1週間も早く初桜の蕾がふくらみはじめ、梅、白木蓮、辛夷、桃、山際が匂いたつように白く煙る。そこに鮮黄色の連翹(れんぎょう)。春霞がたゆたう。缶ビールを片手に長閑(のどか)である。
3月12日、13日。中谷健太郎さんのお誘いに応じたものだ。昨年、選挙に関わってボロボロになっている私を見かねて、何度かお声をかけていただいていた。昨年秋の通信にも「由布院にて」を書いたがじつはあの原稿は1年以上前のもので、あの時は行っていない。2年ぶりである。
磯崎新さんの設計した洒落た由布院駅から大分川沿いに蛍見橋を渡って金鱗湖を目指す。一羽の白鷺が一心に餌とりしている。頭の後ろに細く長く毛が伸びてNYにいる川島猛先生の奥様、順子さんの髪のようにお洒落だ。
大分川といえば大きな川に思えるが小川である。金鱗湖に注いでいるとばかり思っていたけど流れは逆である。
九州の北海道といわれる由布院の今日は、雲一つなく、歩いていると汗ばむほど。
亀の井別荘には、何度もよせていただいているけど、連泊は初めてである。
ゆったりとした門をくぐるとフロントの方が笑顔で迎えてくれる。中谷さんは、お客様と話し込んでおられ、ちらと見ると新井満さんだった。リ・ウーファンの素敵な銅版画を眺めながら練柚子を請けにお茶をいただき待つこと10分。「やあ、いらっしゃい」と中谷さん。選挙の労を労われ自らも99%勝ち目のない選挙を14票差で勝ちに持っていった経験を話される。「今晩は柳家権太楼一門の寄席があるんですよ、お席を用意しますから、早めに食事をされて楽しんで下さい」
亀の井別荘は由布岳の麓、金鱗湖に接して、1万坪の広い敷地に和室15、洋室6の部屋のみ、満室でもお客は50人を超えない。従業員の数の方がはるかに多い。
案内されたお部屋は、雪の科学者でエッセイストとしても知られる健太郎さんの叔父さんにあたる中谷宇吉郎さんの「壷中天地あり」の書に書物を開いた絵を添えた軸の掛かる庭の眺めの素晴らしいお部屋。須田剋太先生がお気に入りで、ここに滞在して画作したいと望まれたとか。奥様が部屋を汚したらたいへんだから新聞紙をひきつめて下さいと電話されたという。一度は司馬遼太郎さんとご一緒で、言わずといれた「街道をゆく」の取材である。
お二人が亀の井を訪ねられたのは1975年頃らしく「街道をゆく8」の豊後・日田街道の中に「由布院の宿」として収められている。若き日の健太郎さんの面目躍如の姿が愉快。今の息子さんの太郎さんの年の頃である。
ようやく遅いお昼を「山家料理・湯の岳庵」で。亀の井別荘で泊まるのは至難でも、公共のスペースとして食事の「湯の岳庵」、喫茶の「天井桟敷」、物販の「鍵屋」などがあり、それぞれ、しつらい、たたずまい、おもてなしに拘りがあって味わい深い。
ぼくは朝食をホテルの食堂でとった他はすべてここで食した。
蕎麦。栽培から 蕎麦打ちまで一貫して、一日30食ほどしか供しない。山女魚、豆腐、すっぽん、豊後牛、牛舌、90日ほど遊ばせた地鶏、卵白が2段に盛り上がる生玉子、山菜、和風オムレツなど、基本的にこの地の農家と契約したものを料理している。その外、関鯵(せきあじ)の一夜干しを売店でもとめて焼いてもらった。
町へ出てみたが、思っていた以上に観光俗化がすすんでいてちょっとがっかり。ぼくの好きな高見乾司さんの「空想の森美術館」は経営の行き詰まりで閉館されていて、これもがっかり。鉛筆画の木下晋さんの作品が展示された時に木下さんと来て、高見さんに「湯の岳庵」でご馳走になった。好漢は宮崎で再起を目指すと聞いた。頑張って!
町を諦めて、大好きな談話室にこもる。中谷さんの読書歴、芸術への視点を窺わせる蔵書の山。須田先生の画集もたくさんあり、珍しい画集をつぎつぎ手にとる。暖炉に薪がくべられ、幽かにクラシック音楽が流れる。今回は長い時間をここで過ごした。
夜は柳家権太楼一門の寄席 柳家三太楼の真打披露口上。2時間半に及ぶ熱気あふれる寄席を堪能。「権太楼さんも人情噺がよくなりましたね」と健太郎さん。美しい女将さん、プリンス太郎さんとも久闊を叙する。
夜は露天風呂に。翌朝もまた、まだ暗い露天風呂に入りゆっくりと姿をあらわす由布岳を仰ぐ。1584mの由布岳に少し小ぶりな1375mの鶴見岳が寄り添うようにある。
二つの山が恋をして熱いお湯を出したという。
さすがに湯から出した肩は冷えるが、金鱗湖からも湯気が立ち上りまことに心地よし。こうして洗い流したいもの、ほぐしたいものがゆっくりと溶けていくのを自分の内側を覗き込むようにして待っている。全ては自分の責めにある、語ってどうなるものでもない。悔悟、自責。そして芯に堅い核のようなものが残って静かに熟していくのを待っている。聞こえない音を聞き、聞こえる音を飲み、明けていく光を感じ、溶けていく闇を呑んでいる。
明くる日は、中谷さんの盟友、溝口薫平さんの「玉の湯」を訪ね、お茶を飲んだり川沿いを散策。
1975年4月、中部九州直下型地震で由布院も大打撃を受ける。すぐに立ち上ったのが中谷、溝口を始めとする若い経営者たち。時に健太郎さん41才、薫平さん42才。
そのころ私は33才で海文堂書店に転身したばかりで「まちづくり」など何も知らない。翌1976年8月には「第1回ゆふいん音楽祭」、10月には「牛食い絶叫大会」、翌77年8月には「第1回湯布院映画祭」がはじまって現在の基礎を築いている。それからもう25年。
二日目の夜は健太郎さん、太郎さんとの陶然たる酒宴となった。ぼくはここが発するすべてを毛穴まで開いて呼吸しようとしていた。このしなやかにして強靭な感性の大人は、柔らかな言葉、柔かな物腰で強く闘ってきた。その理念は、私の勝手な解釈によれば、観光を生業とする人たちだけではなく地域住民すべてが幸福であること、そこに住む人の生き方、暮らしかたそのものが最大の観光資源であるということだと思う。
司馬さんの文章を借りれば「施主に自然と人文に関する大きな思想と志がなければ、観光事業などは環境破壊を生むだけの、それそのものが企業公害になりかねない。さらにいえば、当主が計算に長じていて、しかも自身が徹底して無欲でなければ、観光事業は国民の公賊になってしまうおそれがある。日本の環境は、私有財産尊重の民法によって.個人が欲しいままに切りとることができる。しかし環境そのものの本質は、法を超えて思想としてあくまでも公的なものである。せめてその程度の思想でももっていなければ、観光事業は今後、公賊になるのではないか」(街道をゆく8p145、146)
ここでの施主、当主は中谷さんのことで、中谷さんは司馬さんの言う思想をもって闘ってこられた人である。でもこの闘いに勝利は約束されておらず、闘い続ける他ないのである。
神戸においても、北野においても事情は同じである。
明くる朝、風呂からの帰りにまだ暗い庭に佇む太郎さんに会った。昨日から彼に密着していたTVクルーを見送ったところだという。35才の彼が亀の井の次代を担う。髭を生やして陰影のあるいい顔になってきた。
帰りのタクシーの中。由布岳は壮大な焼野だった。そのことを運転手さんに尋ねると、いままでじっと黙っていた彼が、急に多弁になった。
放牧した牛につくダニを退治するために草を焼くという。もともと火山灰の泥地用の農耕痩せ牛を改良して肉牛とした。豊後牛である。 農閑期には由布岳山麓で放牧していた、ここの草はいくら食べても太らないので、今は肉牛のリハビリセンター、エコ牧場だと運転手さんは言う。その豊後牛をPRするために中谷さん、溝口さんが考えだしたのが「絶叫大会」だという。あとは、ぼくが相槌を打つだけで金鱗湖伝説、九州火山地帯、今年の桜異変など尽きず話しが流れ出した。