2002.4「佐本進先生のお墓まいり」

1990年2月28日、小児歯科専門医が、患者の男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書をのこして自殺した。みなさんもこの事件のことを記憶されておられると思う。佐本先生は1983年に自宅の庭に小劇場「シアターポシェット」を開館、若い芸術家の活動拠点として開放したり、脳障害児の治療のための人間能力開発研究所を支援するなど献身的な生き方を貫いてこられただけに、大きな衝撃と悲しみを誘った。
 今年は13回忌にあたる。
 私はいつも心の奥深くに先生の視線を感じ、ことある毎に佐本先生と語り合ってきた。
それはご葬儀の写真に向ったときにはっきりと先生の「あとは君がしっかりやってくれ」という声を聴いたからだ。
遺稿集「天の劇場から」は私のバイブルと言ってもいい。勿論、当時先生はまだ54歳の若さで、先生の思想を完全に表現しえたものではないが、身を持って仁をなしてこられた姿こそが尊い。
 先生のお墓は長田区、高取山の北面中腹にある飛龍寺にある。13回忌にあたって私ははじめて飛龍寺を訪ねた。ここは車でないと行けない。長田の商店街を北へ真っ直ぐ抜けて通称「丸山新道(長田箕谷線)」へ入り、長田方面(機動隊方面)と鈴蘭台方面へと分かれる信号の手前300メートルの左手の急坂を駆け上がる。
 奥様から、だいたいの墓地内の位置は聞いていたけど、いざ車を下りるとどう行ったら良いのか分からない。花屋さんで小さな花束を造ってもらう間に「佐本進さんのお墓はどちらでしょうか?」と尋ねると、親切に「ちょうど蕾がふくらんできたので、梅の枝も添えておきましょうね」とおまけしてくれた上に、社務所まで聞きにいってくださる。こんどは地図を片手にした男の人と一緒に戻ってこられて、多分、このお墓だと思いますよと丁寧に教えていただいた。
 坂を少し登って高台に出ると、右手に丸山が見え、私が大学時代を過ごし、震災まで母が一人で暮らしていた家がそのあたりにある。左手の道路沿いの須磨区の「車」という地名のところから北区の下谷上にかけて無惨に山が削り取られていて痛々しい。先生がお墓に入られたころは、このあたりは緑溢れる場所だったに違いない。
 お墓はすぐに分かった。お亡くなりになって半年後にここに建立されたことが墓銘によって分かる。まだ真新しく見え、手向けられた花が心持ちうなだれ、すでにどなたかがお参りされた気配である。
 初めての墓参りであることを詫びた。先生が亡くなられたのは54歳の時で、ぼくはその時47歳であったのか。今、ぼくは先生の生涯を5年も超え、シアターポシェットは20周年を迎える。
 今回の13回忌にあたって奥様が選ばれて私が監修してお身内に配られた文章を抜粋いたします。ぼく自身の想いに全く重なります。(全文は「天の劇場から」の130P)
わが心のシノプシス(概観)――抜粋
 明確な記憶にないずっと以前から、ぼくの心はいわれなく、ひたむきに「弱きもの」に対して魅せられつづけてきたようである。弱者に対する、たとえようのない共感、愛着心、親近感。それは、多分にぼくの理念ではなく、思想や信条でもなく、おそらくは、拭い去ることのできないぼく自身の体臭のしからしめる所以なのかもしれない。
 多分に強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖め続ける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。
 やりたかったこと、出来なかったこと、苦しんだ時間、笑ったひととき、出合った人たち、去っていった人。悔悟と悲哀、不安と期待、ささやかな喜び、やるせない悲しみ、それらが満遍なく均等に混じり合い押しつまった、途方もなく長く短かったこの日々の行程。どこから折りとっても顔をのぞかせる、かの縁日の懐かしい金太郎飴。折っても折っても出て来る甘さとほろ苦さ、後悔と反省、希望と幻影。それらのすべてに、どうやら今、ぼくは一人で責任を負わねばならないようである。その苦しみや失敗や責めの日々でさえ誰のものでもなく、ぼくの分にふさわしいものだったと、ようやく今でははっきりと、ぼく自身に思えてくるからである。
 この文章は先生の亡くなられるちょうど1年前の1989年1月に雑誌「雪」に寄稿
 されたもので、いわば先生の遺言とも読めるのです。