2002.02「津高和一先生の墓参」

追悼展もあと僅かになった風のつよい朝、西宮北口の新しい津高先生のお墓にお参りをした。駅周辺もまったく様変わりして新しいショッピングゾーンが出来ている。

震災前までここはひっそりとした市場だった。震災の翌日、ぼくは津高先生ご夫妻の死を知らずに、関西国際空港からこの駅にたどりついて、緊張感に身を固くして神戸へ徒歩で向ったのだった。

震災の三週間前の年の瀬に雪子夫人からお電話をいただき、手土産の果物を求め、この市場を抜けて先生のお宅へ伺った。今日と同じ寒い昼下がりのことだった。展覧会の打ち合せもあったが、額代の支払いに充てるために絵を買って欲しいという依頼だった。こういう時は奥様の出番である。アトリエで先生と一緒に5点ほどの中から「響」という作品を選んだ。20号の作品で、真っ白い画面に黒く掃いたような強くてかつ洒脱なような線が横に流れている俳句のごとき作品であった。今となれば懐かしい。

この新しいショッピングゾーンを想い出にふけりながら南へ回り込んで信号を渡ればもうお寺の屋根が見えてきた。先生のお宅があったのと同じ高木西町の法心寺である。このお寺も震災で全壊し再建途上、まだ工事中である。

「大きな犬がいます。注意」と書かれた家を覗きこんでいると工事現場の若い人と目があった。「墓まいりに来たのですが」と問うと「本堂の横を回り込んで下さい」と親切に教えてくれる。

真新しい大徳殿という立派な本堂の横に細い道がある。そこは想像したよりもずっと小さな庭で、数十基の小さなお墓が並んでいた。

先生のお墓は左隅にあってすぐに分かった。お墓らしい形をしていなくて、先生の自宅のお庭にあった石がそこにあり「架空通信」という先生の独特の字が彫り込まれていたから。私はその簡素にして気品に満ちた佇まいにパリ郊外オーヴェールのゴッホ兄弟のお墓を連想した。ゴッホのお墓も津高先生と同じように塀に沿って小さな緑に囲まれた簡素なものだ。先生のお墓は現代美術家の吉田廣喜さんと写真家の吉野晴朗 さんが中心になって建立されたもので先生の作品そのままに清々しい。

1992年の1月、今日と同じように寒い、ちょっと陰鬱な天気の日に、ぼくはゴッホのお墓の前にいた。あれから10年、震災から7年。歳月は走り去り、ぼくの身辺も急変した。空に目をやると雲が先生の絵のように詩的にあった。。天上におられる先生とながいあいだ手を合わせ「架空通信」の会話をひっそりと交わした。

夢のなかの猫は足音をたてない(津高和一「騙された時間」より)

遠藤剛熈の遥かな旅

9日の休日、京都を訪ねた。銀閣寺前の草喰「なかひがし」でお昼。久し振りに中東ご夫妻と話しが弾みニ合のお酒をおいしく飲む。そのあと哲学の道を疎水沿いに歩き法然院へ。ここのご住職の梶田真章さんは「法然院サンガ(法然院を核とする人々の集まり)」という素晴らしい文化サロンを運営されていて、私などただ憧れるだけなのです。

世の中凄いことをなにげなくやられる方がおられますなあ。法然院そのものも誠に美しいお庭、本堂を持ち、詞にできない風情があります。梶田さんには神戸の「木馬」で何度もお出合いさせていただいてますがお訪ねするのは初めてでした。でもご不在。南禅寺へ出て、蹴上へ。そして都ホテルの横にあるギャラリー「虹」へ。ここは休廊。覗き込むと私もいただいた堀尾貞治さんの干支「馬」がお留守番をしていましたよ。(「虹」での堀尾貞治展―あたりまえのこと、は15日から27日までです)

酔いを冷ましながら寒風の中を歩き回って四条河原町から阪急で大宮の「遠藤剛熈美術館」へ。

私のギャラリーが北野に移転した2000年11月に遠藤先生が訪ねてこられ、先生の仕事、12月にオープンする美術館のことなどお聞きした。相談めいたお話だったけど、私も自分のことで手一杯で、1年遅れの訪問である。学芸員の内藤さんが丁寧に案内くださり、途中から先生、奥様を交えてのお話にあっというまに時間がすぎた。遠藤先生は1935年京都生まれ、武蔵野美術学校を卒業、一時「光風会」で発表したが退会。自己の信念、信仰、真実の追究のために徒党を組まず、自然と対峙し、内面を掘り下げることのみに専一された。したがって1500点に上る作品の一点も売ることなく、長い時間をかけて完成にむけて書き加えられた力作が圧倒的な存在として迫る。

画題として、今日、ぼくが歩いてきたばかりの「疎水」「南禅寺」「蹴上」が好まれ100号の作品がすべて現場制作というから驚く。アトリエには巨大にして膨大なデッサンがうずたかく積まれ未だに求道者で在り続ける剛毅な姿勢に打たれる。

私は究極の求道者は山内雅夫先生と信じているが、ここにも青春の眩しい輝きを純度をもって保持している偉大な作家がいる。

遠藤先生はロマン・ロラン、ベートーベンを尊敬し、セザンヌ、ゴッホを終世の目標ろしてひたすら精進されている。無垢、純真の人である。

先生も、奥様も拙著をお読みいただいていて、加藤周一先生とも交友がおありとか、この美術館との関りが生れそうな濃密な予感がした素敵な時間でした。

嗚呼!!マーティン

わが友、マーティンがフィリピンで亡くなった。1月12日午後3時ごろのことである。マーティン・ヒューズ45才。神戸の祥龍寺で禅の修業をして、7年ほど前に東大阪の廃寺のようであった安楽寺に住職となった変わり種のアメリカ人の好青年であった。ピアニストの伊藤ルミさんの英語の先生とかでモーツアルトクラブの例会にゲストとして参加していらい、なにか気があって、弟のようになにかと相談にのってきた。ばくは禅の悟りとは無縁だけど日本の事情についてはアドバイスできるからだ。

昨年末にもギャラリー島田にきて、NHKテレビに出たことや本を出したいことなど報告していったところである。これでマーティンも運が向いてきたね、と笑って握手して別れた。

なんで突然? 最初は変なウィルスが髄膜にはいって危篤ときいた。その後で、そのショックで脳にもともとあった腫瘍が爆発したという。でも助かると信じて祈った。そしてマーティンにメールで『元気の蘇生しろ。遊んであげる。奇跡の完全復活で大坊主になれ』 と送った。そして、その直後に訃報を聞いた。ばか野郎、目を覚ませとどなった。

だれか、僕のメールを極楽浄土のマーティンに転送してくれ。