2002.12「 三隣亡(さんりんぼう)の私。百足(むかで)のひと刺し、鱈子(たらこ)の指」

 朝6時に起きて、そろそろ肌寒くなってきたので、薄いセーターを着ようと、まだ薄暗い廊下でセーターに手を伸ばした途端に、指に強烈な痛み。何やら分らないままに、手にしたセーターと分厚い本を放り投げて、力一杯、指を振り回し、急いで電気をつけました。見ると、廊下に16センチばかりの大きな百足がにょろにょろと動いています。
急いで台所にかけつけ、調理ハサミを持って取って返して、逃げる百足を憎しみを込めてずたすたに切り裂きました。残酷なようですが、やつらの生命力はまことに強靭で、四つに切ったぐらいでは、まだまだ動いています。右の人差し指は鱈子かフランクフルト状態。 それが、ようやく癒えたら、4tトラック2台の山内雅夫展の搬入で左手親指付け根を捻挫、昨日の休日は書斎でギャラリーへ電話して法橋さんと仕事の打ち合わせ中に、何気なくセーターに止まった虫を右手で払った途端に、またしても鋭い痛み。「蜂に刺された」と慌てて電話を切って、百足事件のあと、画家の栃原敏子さんが持ってきてくれた、毒を吸い出す器具で吸引、針を抜き、毒を吸い取った。あとで法橋さんから「そうとうワイルドな家ですね」と笑われた。泣きっ面に蜂とは、このことだ。

忙中旅あり2002
5月革命とポンピドー  

 なぜ、わたしがフランスの3大美術館のうちポンピドーに最も惹かれるのかを説明しておかなければならない。私たちは現代に生きている。20世紀の歴史についてはある程度理解しているし、私たちが抱えている文明的課題についても、ある程度共通の認識を持っている。それは現代芸術が提起する課題でもある。だから何の予備知識を持たなくても、率直に作品と向かい合うと、理解不能という感じはしない。(現実には現代美術を理解不能と思っている人が多いが) だから、ここで20世紀の美術の歴史をたどりながら、20世紀を生きてきた自分の位置を確認し、大きなパースペクティブ(遠景・透視)のなかで作品を客観視することが出来るのです。だから、何度来ても、見飽きることなく興奮するのです。

ポンピドーセンターは、これまでエリートが独占する芸術や文化の枠を破り、社会すべての人々に開かれた場を創造することが理念として謳われた。

初代館長はスウェーデン・ストックホルム近代美術館館長から引き抜かれたポンテュス・フルテン。

彼の素敵な言葉を紹介しておく。

美術館は生命を燃焼させるところだ。

そこは生き生きとした空間であり、墓場のモニュマンとしてはならない。

美術館は近代都市において、最後にたどりつく人間的な場所であり、

そこは同時に視覚的に大きく凝縮したところである。

私たちは68年5月革命の本質的な状況、すなわち(街路の状況)のような、

そこにすべての人々が、階級や文化や教養の差を越えて、誰一人拒否されたと

感じる必要なくいられる空間を作ることが出来ないかと思っていた

この彼の言葉に感動せずにおれない。

 1968年、突如として発生した 「5月革命」は、大学生たちの反抗、反乱の型になって表われた。5月10日、パリの学生街カルチェ・ラタンの道路上には、バリケードが築かれて、警官と学生、労働者との間で、乱闘がくりかえされた。ドーゴール体制に対する異議申し立てであったが、この事件が日大全共闘の学園紛争に繋がり、世界的に学生たちの抵抗運動に発展していった。しかし考えてみれば、当時の首相がポンピドーであって、事態収拾に苦労した当事者である、彼の名を冠したセンターが、あの時のコミューンを再現するというのだから、面白い。

ドイツの劇作家、ブレヒトゆかりの名門劇場、ベルリーナ・アンサンブルの芸術監督である演出家クラウス・パイマンが日経新聞9月22日に面白いことをしゃべっていた。彼はフランス5月革命など世界が揺れた時代を経験した68年世代を自認し、

「自分の舞台は人々を啓蒙し、対立することを明確にし、権力を笑いものにする」「アンサンブルをブレヒトの博物館にしてはならない」「劇場は、唯一真実を口に出来る場所。現実を反転させる演劇の力」「現実の世界のほかに美しい理想世界を持っているのが68年世代」。

 この言葉の一言一句がフルテンの言葉に酷似している。私も現代における芸術の役割については、彼らの考えに共鳴し、その息吹をここに感じているのだ。村上春樹の「海辺のカフカ」からの孫引きだが 詩人イエーツの「夢の中から責任ははじまる(In dreams begin the responsibilities)」に倣っていえば「夢の中から可能性ははじまる(In dreams begin the possibilities)」のだ。すべては想像力の問題なのだ。ぼくも夢のようなことばかり言ってきた、その夢から可能性は生まれ、ぼくはまたその夢を語ることの責任を取らねばならない。ぼくにとってのギャラリー島田やアートサポートセンター神戸の仕事は、その実験の場でもあります。世間的には無名の画家たちを企画展だけで紹介していくことは商業的には至難の業です。痩せ我慢で、どこまで続けられるか。

白髪一雄のパフォーマンス・ビデオとヨゼフ・ボイス
 今回、ポンピドーで印象に残った一つは、4階の16室(ここは大体、いつも兵庫県に生まれた美術運動「具体」の作家が紹介されていて、この運動が世界的に果たした役割を教えてくれる)に足を踏み入れてまず目に飛び込んできたのが白髪先生の若かりしころの、ロープにぶら下がって足で描いている無音のままに延々と流れる制作風景の映像だった。そして、その横ではヨゼフ・ボイスのこれまたパフォーマンスが無音のままに延々と流れていた。ぼくは8年前にスイスのルツェルンで偶然、ボイスの大規模な展覧会を見ている。このドイツ生まれの巨匠は概念芸術というか、全く単純であるのにいくらでも深読みを誘うようでもあり、それが難解でもあるという、私にはまだまだ謎の作家である。白髪とボイスの周りをうろうろして、感覚として謎の解明に挑む私であった。

パリ郊外へ
  26日(月)朝10時、渡辺幹夫さんがホテルまで車で迎えに来てくれる。渡辺さんは欧米で活躍するメゾチント(銅版画)作家でフランス在住25年。当画廊でも何度も紹介してきた。絹の肌を持つヌードのフォルムをテーマとしている。来年秋に久方振りにギャラリー島田で個展をする。私の渡辺さんへのリクエストは、どこか郊外へ案内して欲しいということだった。

南へ90キロ走ったToury村というところに、フランスの著名な彫刻家ヴァンサン・ヴァベダ(Vincent Batbedat)の農家を改造した大きなアトリエ兼住居がある。奥さんはパリ15区の画廊オーナーでミッシェル・ブロウタ(Michele Broutta)。渡辺さんはミッシェルの画廊の作家である。ここを訪ねるのは初めてということで助手席の私が地図を見ながらのナビゲータ(案内)役である。途中で大雨となり冠水しているところもある。今年のヨーロッパは天候不順で東欧は洪水に見舞われ、パリも真夏でも肌寒い。ヴァンサンの描いた地図の教会を目印に無事到着。まずはアトリエ拝見。アトリエといっても牛舎、倉庫、作業所などをそのまま使って、かれのステンレスの立体を作るアトリエ、石の作品のアトリエ、展示場など。高い天井に大きな梟(ふくろう)が住み着いているという。アトリエ見学が終わると、すぐにアペリティフ、そして70才のヴァンサン自ら、炭で大きな肉の固まりを焼き始める。それから3時間くらい飲んで、食べて。ヴァンサンは自分が呑み助だから、客人が来たら、一人一本のワインを空けるのがフランスの流儀だと言い張る。ばくは、飲め飲めと強要するのは日本の宴席の悪癖だと思っていたが、あれは呑み助の世界共通の悪癖だったのだ。ミッシェルは若き日のビュッやダリと深い親交があり、彼らの有名な版画集を出版したりしている。もうすぐベルサイユ宮殿で彼女の挿画本のコレクションによる展覧会が開かれるという。

ここで盛大な歓待を受けたのでした。

 再び車上の人となった私たちは一路パリへ。渡辺さんのアトリエに車を置いて、藤崎孝敏さんとサンジェルマンの教会の前で20:30に落ち合うためだ。渡辺さんは遠く田舎に住居とアトリエを持っていて、そちらでメゾチント(銅板画)の版の制作をし、ここメトロ10号線西の端、ブローニュの瀟洒なマンションの1階にあるアトリエは主として刷りを行うための工房だという。フランスで25年。渡辺さんの「絹の肌をもつヌード」の作品は世界中にファンがいて70枚の新作はアメリカ、北欧、フランス、日本で発売と同時に、ほとんど売り切れるという。田舎では野菜を作り、毎日、釣りを楽しみ「売れなくてもやっていける」と笑う。

 孝敏、幹夫さんと3人で混み合うサンジェルマン界隈で日本食の店を見つけて入る。藤崎さんの好みである。それぞれの近況を語り合う。今回の旅の目的の一つは松村光秀さんの展覧会をパリでやる為の調査である。ミッシェルにも画集をプレゼントして感想を聞いた。「昔の日本画の作家か?」「いや、現存の洋画家だ」というと大変興味をもって真剣に眺めていた。15区にあるミッシェルの画廊は版画専門だし、高齢のため閉めるつもりだそうだ。パリで画廊といえば、日本でいう企画画廊が当たり前で、貸し画廊はあっても日本人か韓国人がやっていてコレクターや評論家は見向きもしないという。企画画廊で個展をするにはオーナーとの信頼関係を時間をかけてつくり上げる必要があるとのアドバイス。そういえば、ヨーロッパ各国を長年回ってきて、日本のようにアマチュアが貸し画廊で、立派な値段をつけて売っている光景はあまり見たことはない。

 思いがけず。旅日記が長くなってしまった。まだ藤崎さんのアトリエを訪ねたことや、パントマイムの勉強にきている沖埜楽子さんと会って、ジュドポーム美術館のジュルジュ・マチューの展覧会へ行ったことなど書きたいことがあるけど、8月に言った旅日記を11月まで牛の涎(よだれ)のように書いてしまった。ここらで筆を置く。

2002.11「忙中旅あり2002」

 レオナルド・ダ・ヴィンチの「マシーン」
ヴェネティアでは”アカデミア美術館(Galleria dell’ Accademia)”、”ドウカーレ宮殿(Palazzo Ducale)”で14世紀~18世紀にかけてのヴェネティア派あるいはトスカーナ派といわれるベッリーニやジョルジョーネ、ティアポロなどの作品をたっぷりと見た。塩野七生さんの描くヴェネティアの魅力ある男たちが、この輝かしい街を作り上げてきた歴史を評議員大会議室に偲び、サン・マルコ広場を挟んで寺院と反対側にあるコッレール博物館(Museo Correr)では、ヴェネティアの歴史や生活、さらには戦いの歴史、すなわち商船でもあり戦艦でもあった船の模型や武器、武具、海戦の模様などを興味深く見た。
 特筆しておきたいのはラ・ズッカへ食事に行くときにふらっと立ちよった近代美術館(Galleria Internazionale D’arte Moderna)でのレオナルド・ダ・ヴィンチの「マシーン」という展覧会です。ダ・ヴィンチのデッサンを基にした様々な機械の木製模型があって、触って動かしていいのです。起重機やべアリングや運搬のための機械などの模型が30台ばかりあり、日本の子供たちを夢中にさせるだろうと思いました。ミラノのスカラ座の前にレオナルド・ダ・ヴィンチの像がありますがミラノのダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館にも彼のデッサンをもとに作った模型がありますからそこからの巡回かもしれません。帰国後、書棚の肥しになっていた「知られざるレオナルド(岩波書店)」を取り出してみました。”他の人々がまだ眠っている暗いうちに、あまりにも早く目覚めてしまった男”(ジグムント・フロイト)が絵画、水理学、解剖学、機械、建築、楽器まで研究した手稿、いわゆる1965年に発見されたマドリッド手稿の抜粋研究書であるこの本にヴェネティアで見たマシーンのスケッチを発見して、改めてこの本棚の肥しを読んで見る気になっています。
この本も大部です。知的好奇心はこうして増殖していくものなのですね、いくら時間があってもたりませんね。それにしてもこれはという本はやはり買っておくものですね。書店主の間は、本は無限に手元にありましたが、いまはそうはいきません。

ヴェネティアの素敵な男たちへ乾杯

 今、ヴェネティアの歴史についてレクチャーする紙面はないけど、塩野さんに教えられぼくが街を歩きながらしきりに考えていたことを簡単に。ヴェネティアの歴史はローマ国の末期、アッティラ率いるフン族の侵攻を怖れたヴェネト地方に住む人々が、452年に潟(ラグーナ)に住み着いたことに始まる。魚と塩以外の資源を一切もたないこの国は交易を生業とし、地中海に海のハイウェーを確立し、莫大な富を蓄積した。しかしヴェネティアの歴史はまたこの海路を死守するための戦争の歴史でもあった。商人の国であったヴェネティア人はシェイクスピアの「ベ ニスの商人」で冷徹な金儲け一途なイメージを与えられたが決してそんなことはない。ヴェネティアは1797年にナポレオン率いるフランス軍に全面降伏して共和国が崩壊したが、潟(ラグーナ)を天然の要塞として1000年の間、このアドリア海の女王と謳われた島へ、ただの一度も敵の侵入、破壊を許さなかった。このごろ「ノーブレス・オブリッジ(高貴なる人の義務)」と良く言われる。これは社会貢献の義務ということだが、ヴェネティアの男たちは、この美しい街を守るために私財も命すら投げ出した。今、私たちが感嘆している街はこのようにして守られてきたのだ。ゲーテが「イタリア紀行」の中で「私を取り囲んでいるものすべては、高貴さに満ちている。これらは、ひとつにまとまった人間の努力によって生まれた偉大で尊敬を受けるに値する作品である。この見事な記念碑は、ある一人の君主のためのものではない。全民族の記念碑なのである」であると言ったのはこのことなのだ。ぼくがヴェネティアで酔っ払っていたのはワインのせいではない、この男たちに心からの乾杯を捧げたためである。

絵画繚乱のミラノ
  24日は一日中、美術館である。朝、早くドゥオーモ(Duomo)に籠もる。14世紀後半に着工し正面が完成したのは19世紀初めにナポレオンによってであった。
 8時半の開館を待ってブレラ美術館(Pinacoteca Brera)へ。スカラ座の右手のヴェルディ通りに続くブレラ通りに面している。歩いても15分である。ここも2度目で、10年前に当時、神戸流通大学の助教授であった吉田順一さんをコーディネターとし、私が団長として神戸の若手商業者の皆さんとヨーロッパを回った時に自由時間を利用して駆け込んだ。
今回、時間はたっぷりある。中庭で迎えてくれるのがカノーバ作のナポレオン一世の銅像である。シーザに見立てたという裸のナポレオン像には本人が閉口したそうだ。
この美術館そのものが1776年にオーストリアの女帝マリア・テレーゼによって創立され、ナポレオンがコレクションを充実させた。ヨーロッパの歴史は重層的で一筋縄ではいかない。音声ガイドを借りて見て回った。15世紀から現代まで、イタリア美術の歴史が一堂に集められている。印象に残っているベスト5.ベッリーニ「ピエタ」「聖母子」マンティーニ「死せるキリスト」カラバッジョ「エマオの晩餐」それにベッリッツア「第4階級(Quatro Stato)」。 このベッリッツアはブレラの一番出口に掛かっている大画面なのだけど、じつはこのあと見た市立近代美術館(Civica Galleria d’Arte Moderna)の入り口にも掛かっていて、ブレラが習作、近代美術館のが完成作ということらしい。この絵が、まさにイタリア美術の19世紀と20世紀を繋ぐ位置であるということなのだろう。じつにうまい配置である。「第4階級」は労働者の行進、いわばデモ風景で、ブレラの中世的絵画と全く趣を異にするものだった。
ことのついでに近代美術館に触れるとドゥオーモから地下鉄1号線で二つ目のPalestro駅の近く、旧王宮(Villa Reale)の中にある。入場は無料。モランディ、モリジアニ、ピカソなどもある。
別館にどんどん人が入っていくので私も入ってみたらDUANE HANSON(1925年ミネソタ生まれ)の「More than Reality(真実を超えて)」という展覧会をやっていたここは有料。作品はアメリカの典型的な下層階級に属する人々を、シャツも、靴も、下着も、髭も、体毛もすべて、瞬きをしないという以外は実在そのままに制作する立体作家で、名前は知っていたけど作品は初めて見た。同じアメリカのジョルジョ・シーガルは良く知っているけど、彼の作品は人物が全て真っ白にオブジェ化していて、それだけにもっとエモーションに訴える。僕はシーガルの方が好きだ。でもハンセンの掃除婦や工事人夫、ガードマン、ポリスなど下層階級の人々の、ひたむきで誠実であるだけに、肉体的にも精神的にもどこか弛緩して空ろで、現代という時代がかかえている病理をむき出しにして見せられている不快さまで達していることでアートたりえているのだろう。
 ミラノにはもう一つ現代美術館(Civico Museo d’Arte Contemporanea)がある。ドゥオ-モ正面を背にした左側に王宮(Palazzo Reale)があり、1階が博物館、3階が現代美術館になっている。1階チケット売り場に大きなマリリン・モンローのポスターが貼ってあり、へえ、現代美術館の特別展がマリリンかと驚きながら、ともかく入ったら会場は地下で、写真家ダグラス・カークランド(Dauglas Kirkland) によるベッドでシーツにくるまるモンローを延々と写した写真展で、早々に退出。出口で聞くと現代美術館は3階だと教えられて、上がってみるとなんとNYのホイトニー美術館によるNew York展だった。ミラノの美術館は何故かアメリカの現代美術に占拠されてしまっていた。この展覧会は私には馴染みの深い作家ばかりで、既視感に満ちていて発見はなかった。

我が愛しの王国・ポンピドー・芸術センター
 パリでは、たくさんのことを報告しなくてはなりません。真っ先に訪れ6時間ほど過ごした私のパリの恋人といってもいいポンピドー芸術センター(Centre Pompidou)。日本へ1957年に来日して「アンフォルメル(非定形)旋風」を巻き起こし、「具体」美術運動の興隆期に影響をあたえあったジョルジュ・マチューの展覧会をジュ・ド・ポーム美術館で見たこと、10度目くらいになるオルセー美術館のことなど、書きたいことは山ほどあります。ここでは、ポンピドーのどこに惹き付けられているかを書いて、私たちの新しい兵庫県立美術館のありようとを考えるヒントにしたい。私のエッセイ集「忙中旅ありーー蝙蝠流文化随想」(エピック社刊)にも詳しく書いた(p94~99)ので合わせて読んでいただきたい。
ミラノからパリに入ったのが25日の日曜日。商店は閉まっている、まだバカンスのところも多い。こんな日は美術館に籠るに限る。
 ロンドン在住で5月にギャラリー島田で個展をさせていただいたボリビアの画家フェルナンド・モンテスさんがパリにくるなら是非ここに泊まれと教えてくれたホテル・モンペンシエール(Hotel Montpensier)に入るとすぐに、近くのパレ・ロワイヤル(Palais Royal)からメトロでランバトー(Rambuteau)へ。地上へ出ると目の前に工事中の現場のように配管むき出しのポンピドーの裏側だ。通りはローラー・スケーターの大群、競技のスタート地点らしい。
表に回ると、大きな広場のそこここでパフォーマンスが繰り広げられていて黒山の人だかり。チケット売り場にも行列である。午後3時。カフェやショップやレストランに行ったりしながら(再入場可)午後9時の閉館までいた。
 新しい兵庫県立美術館は「芸術の館」と標榜しているけど構造、設備は美術中心でしかない。ポンピドーは20世紀の芸術・文化の資料収集を目的として建てられ、そして正にそのように機能している。
 私がいつも籠る国立近代美術館は4階と5階にある。4階が入り口で1960年から現在までの美術を、5階が1905年から1960年までの美術を展示している。ちなみに1848年のパリ2月革命の年から20世紀初めのピカソの「アビニヨンの娘たち」に代表されるキュービズムの誕生直前までがオルセー美術館、それ以前、古代から19世紀初めまでの美術はルーブル美術館で見ることが出来る。これらの美術館が歩いてはしご出来る距離にあるけど決して一日で回るなど無謀なことはせぬように。
 6階は企画展示の三つのギャラリーとレストラン。このレストランはグルメでグルマンであったポンピドー大統領のファーストネームにちなんで”ジョルジュ”。改装前にはカフェテリアの雰囲気で、いつもごったがえしていたのに、2000年にリーボーンしてからは高級感溢れるレストランに変貌していて驚いた。料理も芸術だというわけで、高いけど、おいしい。なにより働く若い男女がファッションショーのように、モデルのような格好で音楽にあわせて動きまわる。きっとコンセプトが「舞台」なのだ。空間仕掛人コスト兄弟が経営、若手建築家ブレンダン・マックファルレーヌとドミニク・ジャコブの手がけたインテリアが話題を呼び、中央にディスプレーされた大きな排気管のオブジェが目を引く。お洒落なクリエーターやデザイナーが集まる人気スポットらしい。でもここからの眺望だけでも充分のご馳走だ。
 その他のフロアーには三つのシネマや広大な図書館があって自由に閲覧できる。 図書館は全ての書棚をつなげると14kmに達すると言われている。2階には宗教、社会学、政治、法律、科学、工学関連の書籍が、3階には美術、歴史、地理関連の書籍や、ビデオ、CDなどのコレクションもある。ここは10時までオープンしていて、遅くまで一心に勉強したり遊んだりしている人々で賑わっているのを見ると心がうれしく騒ぎます。
 1階チケット売り場の横には「子供のためのギャラリー」があり、単なる託児施設ではなく、子供のためのワークッショップや企画展が常時開催され、遊びながら芸術体験が出来るのです。21世紀音響研究所を初め、枚挙にいとまがない施設が内包され20年間で1億6千万人、年換算で8百万人、一日2万5千人が訪れる人気施設なのです。これは人気テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の現在の入場者にほぼ匹敵します。
 兵庫県立美術館の設置について、様々な検討が行われたはずですが、こうした成功例に学ぶことなく20世紀最後の旧来型大規模美術館になってしまい、名前だけが「芸術の館」なのか、理解に苦しむところです。
ポンピドー芸術センターこそは大人の知的遊園地なのです。日本では大人の痴的遊園地ばかりが賑わっている気がします。

2002.10「2002年「忙中旅あり」 イタリア・フランス編 part.1」

 僕の最初の海外は1963年にアメリカへ、神戸高校の合唱部の副指揮者として一ヶ月近くの旅をして以来、今回がちょうど20回目の海外ということになる。 イタリアは1983年12月にツアーの一員として駆け足で通り抜けて以来、4度目である。

8月18日 関空発11時 ミラノ、マルペンサ空港には午後3時到着。空港バスで中央駅まで。ホテル・カノーバは駅のすぐ近く、移動に便利とインターネットで見つけ、都合3日間泊まったけど、足場がいいだけで何の取り得もなし。ミラノは後でまた戻ってくるのでその時に触れる。

8月19日 11時5分発、中央駅から汽車でヴェローナへ。1時間半。
 タクシーでホテル・トロコロへ。
 この日のことでは、今回の旅で建築的に最も印象に残った美術館であるカステリベッキオについてだけ書く。
 カステリベッキオはヴェローナの君主だったスカラ家の城で14世紀に建てられたレンガ造り。市内を蛇行する美しいアディジェ川にかかるこれも煉瓦造りのスカリジェロ橋のたもとに立つ。この城をイタリアの名建築家であるカルロ・スカルバが美術館としてリファインした。
7年前にヨーロッパを放浪旅行していた、今は建築をやっている次男の陽が、ヴェローナに行くならここだけは見ておいたほうがいいとすすめた。 雄大で優美なお城は勿論であるが、どこまでが古くて、どこからが新しいか定かでないスカルバの知的でシンプルで、それでいてディーテイルのまことに美しい空間にみとれる。 展示品がとりたてて傑作といえないのに、展示品の生かし方がまことにゆき届いているのにまず感心した。なんでも簡単に破壊して現代風に立て直すか、とって付けたように繋ぎ合わせたとしか思えない改築が目に付く日本である。 私が見た中では、こうしたリファイン建築の見本がここカステリベッキオとパリのオルセー美術館である。

マントバの捻じり鉢巻き爆笑おっさん
8月20日 今日は今度の旅のハイライトであるアレーナでのオペラ観劇の日である。オペラは午後9時、日没を待っての開幕である。たっぷり時間はある。朝9時にはホテルの近くからバスでヴェローナの駅に出た。そのバスだけど、通勤の人たちで結構こんでいたけど、終点の駅に着くとバスの前後の昇降口がパッと全開してお客がいっせいに降りた。私たちも押し出されるように降りて見回したけど、誰一人、切符を渡したりしていないし、見ている人もいない、狐につままれたように無銭乗車客となってしまった。 さてマントバまで約40分。駅につく前にきれいな湖のほとりを走る。小さな街らしいので歩いて湖の辺を散歩しようと歩き出すけど、方向が分らなくなってまた駅に戻り駅前の地図でサンジョルジョ城を確認してタクシーに乗る。上手く運転手に伝わったのかどうか「カスト(城か?)」と聞かれてイエスと言ったら、私が思っているのと反対の方向に走りだした。車はスーペリオーレ湖を左手に数分、右に曲がって坂をちょっと登ってすぐに止まった。近すぎるなと思ったけど、ここがマントバのシンボル、ドッカーレ宮殿であった。 マントバといえば北イタリア・ルネッサンスの中心地で、イタリアのみならずヨーロッパの宮廷からも尊敬を集めたマントバ侯爵夫人の美しい姿を思い浮かべるけど、私にとってはむしろ「風の中の、羽のように、いつも変わる女心」とマントバ侯爵が歌うヴェルディのオペラ「リゴレット」の舞台としての馴染みがある。
 さて何の予備知識もなく美術館を巡ってルーヴェンスやグレコなどを時間の制約なしにゆっくりみた。窓外にはきれいな湖が広がっている。出口を探しているとレストランへ降りていく表示がある。古いお城の雰囲気を残した、落ち着いたレストランで、外に置かれたパラソルのあるテーブルで、湖をぼんやりと眺めながらビールを飲む。幸せな気分。 その時、後ろで「ジャポネ?」とマダムの声がした。「イエス」と答えると、奥へ戻っていってアルバムをドンと置いて「見ろ」という。沢山の写真はここのオーナーが日本へ招かれてイタリア料理の指導に行った時のもので、ハウステンボスのホテルの厨房や、すし屋、カラオケ、宴会などの日本の思い出が一杯つまっている。日本の若くてきれいな女の子に囲まれてご機嫌な男がここのオーナー氏であるらしい。眺めていると写真の主が現れた。なんと捻じり鉢巻きに太ったお腹に短パン。東山市場の魚屋のおっさんそのままである。
 ともかく愉快なオッサンで何かと日本の思い出を話したがるし、時間が12時前になったのでここで昼食をとることにした。何かお勧めのものをとリクエストすると若いシェフを呼んできた。言われるままに二皿頼んだが、これが滅法うまかった。メニューを見た時にお値段が一品7ユーロから12ユーロ(850円から1500円)くらいなのだけど、若いシェフが薦めたのはどちらも8ユーロだった。偉い! 味のわからん日本人だからとともかく高いものを薦めるのではなく、安いもので自信のあるものを薦めてくれた。感謝。 一つはかぼちゃのラビオリにアーモンドの粗微塵とオリーブがかかっていた。もう一つはパルジャミーノ・チーズのドンとした大きな固まりにワインなどに漬け込んだ洋梨や柑橘類など3種類を添えたお皿。ワインとの合性が抜群。家人がナフキンで鶴を折ると皆が私にも折ってくれと集まってくる。おっさんにもワインをすすめて、デザートやコーヒーはサービスしてくれる。大変に盛り上がってしまった。del Nonnnoというレストランでのこと。最初に飲んだビールや珈琲も入れて29ユーロ(約3600円)。安いナー。
 さて帰りである。タクシーに乗り5分で着いたので帰りは湖畔を散歩しながら20分位だろうと思って歩いた。釣りをしたり甲羅干しをしている人を眺めながら30分で駅に戻った。
 4時にホテルへ戻ってオペラに備えて小休止。イタリアは怖い。すられる、取られる、騙されるとさんざん聞かされてきたけど、ここのホテルに着いた時にもマダムが盛んに話しかけてくる。よく聴いてみると私がインターネットで申し込んだ時に「安い部屋でいい」と書いていたのを憶えていて、その時には空いてなかってけど、今はもっと安い部屋が空いているけど変わるか?と聞いているのだ。もう支払い済みだし、構わないと答えたが終始、まことに親切であった。

一晩にヴェルディの「ナブッコ」を3回も聴いた
 オペラは陽が落ちた9時から始まる。終わるのは午前1時頃だろう。日本から持参の「即席麺赤いきつね」で夕食。アレーナまでホテルから徒歩2分。7時にはアレーナ前の広場のカフェに座って、続々と集まってくる人々をビールを飲みながらワクワクして見ていた。8時に会場に入る。アレーナは1世紀に建築された円形闘技場で2万人が入れる。
 チケットはインターネットで買った。まことに簡単で”ヴェローナ”で検索すればオペラのスケジュール、座席表、値段表など分りやすく案内がある。クレジットカードナンバーを入力して予約すれば、折り返し予約ナンバーを知らせてくる。あとは現地で座席券と引き換えるだけである(もっともこの事務所を探すのにアレーナの周りを三周してしまったけど)。フィールドがアレーナ席といって1等席、2等席で18,000円、15,000円といったところ。僕らが買ったのはスタンドの階段席の3等で約11,000円。スタンドの後方は自由席でそれでも5~9千円ほどである。席は固くて座り心地は良くなくて皆座布団を借りている。私たちはホテルのタオル持参である。
 スタンドがぎっしり埋まり、上等席にきらびやかに飾った男女が入ってくるのを双眼鏡で覗くのもオペラ鑑賞の楽しみの一つである。
 9時10分前。オーケストラが入場、照明が変わり、舞台に古代衣装に身を包んで銅鑼を持った女性が登場、ドドドドドドー、ガアアアンーと打ち鳴らした。その時暗い夜空からパラ、パラと小さく雨粒が落ちてきて、弦楽奏者が立ち上がって楽屋に消えた。会場にどよめきが広がった。レインコート売りが忙しく走りまわっている。こんなこともあるかと私たちは持参の傘を。待つこと30分。ようやく雨も止み、舞台やオケピットを拭いて回る人たちが忙しく立ち働いて、オケが入り、再び銅鑼がドドドガアアアアンと鳴った。 と、またまたポツリ。中断。会場から開始を促す大きな拍手が何度も起こり、上等席にいた紳士が、両手を広げて”もっと拍手を”と煽っている。浦上忠文さん(市会議員)を思い出した。イタリアの文ちゃんは拍手が起こる度に律儀に傘を畳んで答えた。(お前に拍手しとんと違うぞ)売り子はレインコート、飲み物を売るために走り回っている。
 私の周りはドイツ人のグループで若い人が小さな声だけど「わが想いよ、金色の翼にのって飛んでいけ」のメロディーを歌いだした。ぼくも小さく和した。こうなれば待つことそのものがイベントの雰囲気だ。人影が疎らになった上等席の真ん中で一つの傘でこれみよがしに抱き合っているカップル(変な奴)。
 10時20分頃、再び清掃係りが忙しく立ち働き始め、三度、銅鑼がドドドドゴーンと鳴った。いよいよだ。と、またしても雨がパラパラ。中断。  恰幅のいい紳士たちが舞台袖に詰め掛けて腕をふりあげて抗議している。場内アナウンスがあって中止、払い戻しを伝えられたのが11時。7時から4時間の音楽不在のドラマを楽しんだ。1万5千人くらいが入っていたから、払い戻しだけで1億円くらいに上ったのではないか。
 妻と子供を続けて失ってどん底にあった28歳のヴェルディ。イタリアはオーストリアの支配下にある。こうした状況のなかで「ナブッコ」は作曲されました。エジプトとパレスチナの民族的対立をテーマに抑圧されるイタリアと失意のヴェルディを鼓舞するように感動的に歌われる「行け、我が想い黄金の翼に乗って」の合唱曲はイタリア人の愛国心に火を着け熱狂的に迎えられ、イタリアの第二の国歌として歌い継がれてきた。この曲だけはアンコールしないと前に進めないと言われている。あえてスペクタクル「アイーダ」を避けて、イタリア人がイタリアの古代遺跡で演じる「ナブッコ」しかも「我が想いよ」を聴きたかったのに誠に残念である。
 そのままホテルにも帰るのが残念で、またカフェに座った。先ほど舞台に詰め寄った紳士が隣の席でもの静かにビールを飲んでいた。顔を見合わせて「仕方ないね」というように僅かに微笑みを交わした。なにか同志という感じであった。

何故にかくも美しきか、夏の名残の薔薇都市ヴェネティア(Venezia)
 三回も開幕を告げる銅鑼を聴きながら肝心の音楽を聴けなかったので、もうヴェローナに用は無い。前日にヴェネティア行きの座席指定をとっておいて、朝早くに列車に乗った。 
 一時間半でサンタ・ルチア駅へ。まず駅へ近づいていく15分くらい、海を渡っていく間に姿をあらわすヴェネティアに言葉にならない感動をした。僕のヴェネティア体験は19年前の僅か一日でしかなく、それもツアーだったので記憶も鮮明ではない。その後の僕のヴェネティア認識は塩野七生さんの「海の都の物語 ヴェネティア共和国の一千年」が全てである。塩野さんが惚れ込んだヴェネティアの男たちの生き生きと雄雄しい姿に僕も惚れた。今回の僕のヴェネティア体験は彼らの面影を、いまや過去の栄光にすがってだけ生き延びている夏の名残の薔薇都市に探すことに尽きた。
 駅を出ると,ヴァポレット(vaporetto)に乗ろうとする人たちでごった返している。大きな荷物だけをホテルに届けてくれるサービスがあると本にあったので探したが分らないので72時間有効のチケット(約18ユーロ)を買って1番線でレアルトまで乗った。ご存知のようにヴェネティアには車は走っていない。街をS字形に縦断する大運河(CANAL GRANDE3600m)と毛細血管のように縦横に走る運河がこの都市の交通を支えている。ヴァポレット(vaporetto)とゴンドラとモーターボートが人も物もすべて運ぶ。道はいたるところで曲がったりくねったり行き止まりだったりする。ホテルを探すのは容易ではないが駅で、他の人が何かを尋ねているので、その人に「ホテル・ BONVECCHIATI?」と書いてみせるとレアルトで降りろと、簡単な地図を書いてくれた。多分、この地図がなければ簡単には探せなかっただろう。サン・マルコ広場に近い手ごろなホテルをこれもインターネットで予約したのだけど由緒あるホテルでとても良かった。部屋の窓から真下にオロコロ運河があってひっきりなしにゴンドラが通る、サン・マルコ広場まで2分である。
 ヴェネティアについて最初にすべきことは、ともかくヴァポレットにのってこの都市の概要を肌で感じることである。次にすべきことは、ともかく路地を歩くことである。
 朝、まだ暗いうちにホテルを出てヴァポレットに乗って外海へ出る、ともかくヴェネティアはどこから眺めても海に上に蜃気楼のように出現した幻想都市にように美しい。とりわけ空が青く抜け、やがてチリアンパープル(古代フェニキア人が地中海産の貝の粘液で染めたと言われるピンク系の紫)を掃いたように染まってくるのには、今、悠久の時間に繋がっているという震えるような想いがある。

  トルチェッロ島のランチ
 6年前にシチリアへ旅をしたときは、伝説の名シェフ、ジャン・ムーランの美木剛夫妻との旅だったのでおいしい食事を期待したのだけど、なぜか食欲をみせない美木さんがスパゲッティ・ボンゴレばかり注文して、がっかりだった。今回は、ぜひ美味しいイタリアンをと思って調べてきた。家人は知人からトルチェッロ島のホテルのレストラン”ロカンダ・チプリアーニ”が良いという情報をもらったので早速、日本からファックスで12時にランチの予約を入れた。
 この日は朝早くからレアルト橋より歩き始め、適当にいつでもサン・マルコへ戻れるつもりで散歩をしていた。ヴェネティアの街では高い鐘楼ですら目印にならない。方向感覚がなくなる。迷えば運河に出ればいい。でもこの朝は全く反対側のサン・ミケーレ島の方へでてしまった。でもヴァポレットに10分くらい乗ればと思っていたら、島の外周を大回りして40分くらいかかってしまった。大急ぎでホテルに戻り、一応の身なりに着替えて10時半ころホテルを出た。1時間半の余裕をみての出発である。トルチェッロ島へはヴァポレットで45分とあった。これが勘違いの始まりであった。島へいくヴァポレットの乗り場はけFond.Nuoveといって、今朝、散歩の果てにようやく乗ったところのまだ先で、サン・マルコから45分。トルチェッロ島へはここからさらに45分だったのだ。 しかも、Fond.Nuoveで船員に乗り換えの場所を聞いていて、船員が指差すところから、ゆっくりとトルチェッロ島への舟が出て行ってしまったのでした。
 この島行きのヴァポレットはガラス工芸で有名なムラーノ島、レース編みで知られたブラーノ島を経由します。半日周遊にもってこいのコース。トルチェッロ島はヴェネティア発祥の地として7~14世紀には人口2万人を超え、栄華を誇りましたがマラリアで人口が激減、それ以降、栄光のヴェネティアに属しているのが不思議なほど寂れてしまっていて見るかげのもない。船着場から唯一の見所であるヴェネティアで最も古い教会といわれるサンタ・マリア・アッスンタ教会とダイアナ妃を始めとする英王室が好んだホテルくらいが見所である。レストランには1時間遅れで着いた。
 豪華とはいえないレストランだが花に溢れた庭が美しい。1時間も遅れたのに嫌な顔一つせず、庭に近い良い席をshimadaと書いて取っておいてくれた。日本から考えれば全く高くないお値段だが、とても美味しかった。(具体的に書けば恨まれる)  食事について、もう一つ書く。次男の陽が、出発前に電話してきて「ヴェネティアだったらラ・ズッカというレストランが良いよ」と電話番号を教えてくれた。もう8年も前に放浪旅行した時に感激したという。
 ホテルで聞いたが知らないという。電話してくれたが誰も出ないという。街で買い物をしたついでに店の人に聞くと知っているといって、地図を書いてくれたけど、例によってヴァポレットの降りる駅と、大体この辺りというだけである。この街では正確な地図など書きようもないのである。当てずっぽうにあるいていると住宅番号に気がついてすぐに分った。日本でもどこにでもあるような家庭的なお店だけど、安くて美味しいので二日通った。店の名前は「かぼちゃ」という意味である。

2002.9「ギャラリー島田の22ヶ月」

 半年も持たないのではと心配されたギャラリー島田も無事22ヶ月を終えようと しています。相変わらず商売下手で、毎月の資金繰りの心配が絶えませんが、 「そもそも商売人でない人が商売してんのやから、それは仕方が無い」と慰めにも ならない慰めを言われて、また妙に納得してしまう私です。
 でも仕事を通じてやりたいことは山ほどあって、画廊に行くのが楽しくて仕方が 無い毎日であることに感謝をしています。
 画廊は8月31日まで少し長い夏休みに入ります。島田はイタリアとパリへ旅行 をします。充電と今後の仕事に関わることを兼ねての旅です。
「忙中旅ありーーイタリア、フランス篇」は9月17日の火曜サロンで報告する予定です。

2002.8「島田喧嘩堂?」

 加藤周一先生に、私の理想は木村蒹葭堂のような生き方です、というと即座に「財力が問題だな」と言われた。まったくその通り、芥川龍之介に「蒹葭堂のコレクションにはクレオパトラの髪の毛もあるはずだ」と言わしめた膨大な博物資料、書誌コレクションは大名も舌をまく充実したものである。わたしなど逆立ちしても及ばないのは勿論である。勿論、問題は財力だけではない、そういわれたのは加藤先生の優しさである。 でも長い間、蒹葭堂は若くして楽隠居して造酒家にお本家からの年30両の援助で妻妾、娘、奴婢の5人家族を養いながらやりくり算段したと信じられてきた。これも芥川龍之介の試算に従えば、当時の30両は今で言えば、せいぜい年収300万円くらいらしい。それならば私にも蒐集できると考えるのは浅はかで、中村真一郎が見事にブルジュア木村蒹葭堂の謎を解いて見せている。
 鴎外(前回の通信では欧外と書いていて申し訳ない。訂正します)は渋江抽斉で新しい史伝小説の形式を発見した。それは渋江の中に?外は自分自身を見て、充分な資料を発掘して年代を追って詳細に再構築する(推理小説的謎解き)、事実を尊重して粉飾を加えない「知的私小説」としての独創的形式だと加藤先生はおっしゃる。勉強会での私の質問は 「抽斉が亡くなるまでの前半は確かにそうだけど、後半になって人物が生き生きとしてくるのは史伝的というよりは想像力によるロマン的手法ではないか?」。
 加藤先生の答えは「確かに、後半は史伝に徹底していない、それは現実生活において女性に恵まれなかった?外が抽斉の4人目の妻、五百(いお)を理想の女性として書いたからだろう」「鴎外が発見したこの史伝の手法は、後にあまり発展しなかった」
 私の質問は「先生の盟友の中村真一郎先生が”木村蒹葭堂のサロン”を書いたのは、この手法を徹底したのではないですか」
 加藤先生の答えは「中村が書いたのは蒹葭堂という中心よりは、当時のきら星のごとき文化人との交流を書く事によって江戸という時代の面白さを浮かび上がらせた」
 たしかに中村真一郎は手法としては?外が発見した史伝の手法を踏襲しているが浦上の文ちゃんのお父さんが絶賛したという簡潔にしてポエムの連続であるという文章の美しさとは遠く、冗長である。美術的に言えばコラージュ(いろんな素材を断片的に貼り合わせて色や線で構成する抽象画)でありパッチワークである。
 そこで中村真一郎が推理小説的に発見した蒹葭堂の実像である。従来の年30両の僅かな本家からの楽隠居としてのお手当てでは絶対にかくのごとき膨大なコレクションを成し、博物館を運営することは不可能である、実は彼は大阪商人としての抜け目なく自分のコレクションを生かしたビッグビジネスを展開していたのだということを中村は発見した。しかしその財力をまたコレクションに再投資していたわけで私生活が華美であったわけではないようだ。
 蒹葭堂(けんかどう)について、もう一つの面白い発見を紹介しよう。彼が貧しい家計をやり繰りして博物の蒐集をしたという伝説を中村真一郎が異論を唱えているが、中村氏の本に3枚の木村蒹葭堂の邸宅図が掲載されている。谷文晃の下図と本図、もう一枚は蒹葭堂自身によるものである。まことに堂々たる大邸宅である。門前に河が流れ、庭園、菜園、果園、何棟にも別れた書庫、魚沼、迎賓室など。遠くに山並みが望まれ理想郷である。さすがに凄いブルジュアであると信じていた。ところが、今回入手した水田紀久氏の「水の中央にあり 木村蒹葭堂研究」(岩波書店)によると、いままで蒹葭堂の邸宅と信じられてきた谷文晃の図は、じつは実物を写生した真景図ではなく、蒹葭堂が、こうありたい、こうあってほしい、と言う自適の理想を文晃が描き記した架空の邸宅図であると指摘している。面白いなあ。

 家人に「木村蒹葭堂のような生き方が私の理想である」というと「島田喧嘩堂と違うの?」と返された。そういえば私もあちこちで衝突してきた。喧嘩堂を名乗る資格はあるのかもしれないが、木村蒹葭堂も若い時には革新的であり、長じてからも開明的なコレクションが危険視されて、現代的にいえば酒造法違反という冤罪(えんざい)で蟄居(ちっきょ)を命ぜられたり、没後すぐに危険視されていた蔵書などが500両という安値で幕府に買い上げられたりしている。こうした蒹葭堂の生き方について中村は「かれはブルジャージーという、公卿や武家に対する第3身分の塁に拠って、封建的身分秩序に風穴を明けようとしたのである。その意味で、学芸と好事に遁れて身を守りとおした彼は、心の底では少年時の革命的態度を生涯貫いたとも言える」(p674)と評している。  ところで水田氏の「水の中央に在り」とは、澱みを潔く流し去り、濁りをも自浄し、流れ、交流して止まぬ水の本質に例えて、文化も逆流、停滞、枯渇が許されない、その流れの中央に木村蒹葭堂は在ったという意味である。私のサロンもほんの小川にすぎないが、そうした役割を少しでも果たせればうれしい。

  余談だが、東大国文学研究資料館が故・中村真一郎(大正7年3月5日生、平成9年12月25日没、享年七十九歳)の蔵書のうち、氏が半世紀近くかけて自ら集めた和装本831点(2181冊)を購入した。十数点の漢籍を除けば、全ては江戸期から昭和にかけて日本で印行された漢詩文集である。そのほとんどは、日本人による著作であり、中には和刻本70点ほども含まれている。購入金額は知らない。中村は「新潮」連載中に没したが幸い草稿は完成していた、平成10年3月号まで連載され、僕が手にしている大部の単行本が刊行されたのは平成12年3月30日である。  ところで渋江抽斉の生涯は53年、森鴎外は61年、木村蒹葭堂は67年、中村真一郎は79年である。私にとっても人生のゴールはおぼろげに見えてきている。画廊の仕事は肉体的にも結構激務である。それに私は荷物を限度一杯に抱え込む性癖がある。幸い健康に恵まれたとしても、このペースで走れるのはせいぜい10年か。しかし震災からすでに7年半が経とうとしていることを考えれば10年は瞬時に等しい。今、着実にゴールに向かって、後悔なき足跡を刻んでいくことである。そのためにこそ海文堂を離れ、元町を離れ、ギャラリー島田とアートサポートセンター神戸に専念している。

森鴎外と藤島武二
 小林柱(株)の小林博司社長から東京の藤島武二展が素晴らしいから行ったらと勧められて 上京した。ブリジストン美術館の開館50周年記念展で、これだけの藤島展はあと30年はお目にかかれないだろう。明治、大正、昭和を生き抜き、半世紀にわたって日本洋画壇をリードしてきた堂々たる歩みをつぶさに見られて満足でした。20代の作品からしてすでに才能を確信させ、それがたゆみなき努力と人間的スケールを加えていくに従い、画風画格とも充実していくさまは壮観ですらある。一言で言えば、土方定一が黒田清輝の画業を評した「幸福環境、幸福な才能、幸福な時代」に生きた人と言える。これは小磯良平にもそのまま当てはまる。したがって見る人を幸せにし、本人も栄光につつまれた。しかし、ひねくれものの私などは、29歳の時に黒田清輝の招きで、新設された東京美術学校洋画科の助教授となり、38歳にして文部省から派遣されて満4年間フランス、イタリアへ留学、その後のアジアへの旅のすべて国がらみの仕事であり、最晩年の「日の出」「耕到天」到るシリーズはナショナリズムが色濃い、と見る。
 ここで触れておきたいのはそのことではない。僕が上京したときは森鴎外を読み耽っている時で、藤島の初期、26歳時の明治美術会第5回展の「桜狩」を見た鴎外外が「なかなかいいじゃないか」と快活な声を上げたらしい。24歳の油彩第一作「無惨」は、白滝幾之助の名前を借りて出品したらしいが、この時から鴎外は藤島を買っていたらしい。鴎外がドイツ留学から帰ってきた直後の29歳のころである。本質的には「官」の人であった鴎外が、やはり「官」の人となる藤島を早くから見抜いていたように見えるのが面白い。
 そのあと安田火災東郷青児美術館での「ユトリロ展」に回った。藤島と正反対の不幸を背負った芸術家の姿が痛ましい。それは不幸な出生、アルコール中毒のことではない。
 乏しい才能を振り絞るようにして定規を当てながら遠近法をとって、生真面目に売れる絵を描こうと努力し、そこに隠しようもなく滲みでる孤独の影、それがユトリロの本質ではないか。 したがってユトリロの作品は駄作も多い。しかしその孤独と郷愁が人を引きつけるのも事実である。ちなみに藤島のパリ滞在中にユトリロは画家として認められ、代表的な「白の時代」の入口にいた。会ってるかもしれないしユトリロの作品を少なくとも目にしてたはずである。「われ勝てり」と思ったのではないか。
紫陽花と李(すもも)
 6月は我が家は額紫陽花と李の季節である。小さな庭に額紫陽花の美しい花が心を和ませてくれる。花音痴の私も桜とバラと紫陽花くらいの区別はつく。そしてこれも猫の額にそぐわない李の大木がある。家人によると、どちらも26年前ころに、ここ鷹取山の北裏に越してきた時に苗を植えたものらしい。10年もすると見事に育った李は毎年、食べきれないほどの見事な実をつけ、近所に配ったり、ジャムにしたりして我が家の食卓を飾った。でも次第に、春先から大量に毛虫が発生するようになり、ほっておくと葉が食い尽くされて、身の毛が逆立つような恐ろしいすがたになる。収穫のために木に登るのではなく、毛虫退治に追われるようになってきた。震災後は、すっかり実をつけるのを止めてしまい、僅かに付けた実もヒヨドリの餌食になるか強い風で落下して私たちの口に入ることは稀であった。
 老化だろう、もう実を付けることはないだろう、日当たりが悪くなるのでと、すこし枝落しをしたのが去年である。とっくに実をつけるのを期待もしなかった今年、ふと見上げた枝枝に小さい緑の実が思いがけずにたわわについているのに気がついた。でも大風が吹けばそれまでと期待もしていなかったが、しだいに赤く熟しはじめ、毎朝、鳥たちがうるさく啼きながら啄ばみにくるようになった。鳥たちも未熟で酸っぱいあいだは食べない。よく知っている。こちらは補虫網に布をかけて枝に引っかからないようにして木に登ったり、梯子に乗ったりして採取する。雀やヒヨドリとも競争である。
 我が家では、冷蔵庫でも、ステレオでも家電製品はなべて長寿であるが、故障がちになり、明日捨てようと話し合うと、必ず故障が直る。李にしても、老化が激しいと枝をおとしたので一念発起したに違いない。それで今、やっと気がついた。私がギャラリー島田で、再スタートをきったのもこの家の神と山の神が「もう捨てようか?」と話し合ったに違いない。

2002.7「 加藤周一先生と渋江抽斉」

半年ほど前の加藤先生を囲む会で浦上の文ちゃん(古い友人で東灘市会議員)がひょんなことから「鴎外の渋江抽斉が面白いなあ」と言い出して、加藤先生が「あれは歴史小説の傑作だ」と応じられた。ぼくはギックとして黙った。ぼくは読み始めて、難解な漢字の羅列に辟易して途中で投げ出した苦い思い出がある。
 それに以前、この通信にもえらそうに書いた中村真一郎の大部「木村蒹葭堂(けんかどう)のサロン」が滅法面白いのだが、これも随所に漢文、漢詩の引用があり、ここをすっ飛ばして読んで、なおかつ未だに読了していない。
 ところが次回の加藤先生を囲む会は「森鴎外の渋江抽斉」をテキストとする勉強会だという。腹を決めて読む以外にない。最初の1/3を辛抱して読めばあとは楽だと聞いていたとおり、すらすらとはいかないまでも随所に魅力ある人物が出てきて鴎外の筆のすべりも 良く、なるほどなかなかのもんである。
 医官であり時代考証家であった渋江抽斉を、遅れること58年の同じような境遇にあった鴎外が、自らに重ねるようにして書いた江戸時代へのオマージュが面白くないはずがないのだが、それにしてもこんなに難解な漢字の羅列が新聞連載小説であったとは。日経新聞の話題の連載小説が渡辺淳一であったのと比較して、当時の読者のレベル、あるいは新聞社の見識に驚いてしまう。
 ところが調べてみるとやはり話はそう簡単ではなく、松本清張によれば、連載中(東京日日新聞・大阪毎日新聞)に、当時のインテリからもかなりの批判があったらしい。要は、発表する場所を間違っていないか、抽斉は今でいえば「文学界」か「世界」、あとに続く「伊沢蘭軒」にいたっては学術雑誌だろう、非常識だ、と糾弾されたらしい。ぼくは伊沢を読んでもいないし本も持っていないけど抽斉以上に漢文の引用が長々と続き、何日にも渡って延々と白文(注釈などのない漢文)が続くという。松本清張は「大概の鴎外研究家も抽斉については書くけど、蘭軒に触れること少ないのは、ろくに読んでいないに違いない」と皮肉っている。
 自信家で、案外と戦闘的性格の鴎外先生は、これらの批判に反論して「学殖なきを憂うる、常識なきを憂いない」と強弁する。非常識と言われてもかまわない、この程度の教養がない事を憂いると宣言する。
 それにしても江戸時代の文人とはなんと教養豊なことであるか。たとえば木村蒹葭堂のサロンに出入りした数千人の知識人たちが、一人残らず中国古典、四書五経(大学・中庸・論語・孟子)(易経・書経・詩経・礼紀・春秋)という共通の教養をもって自己形成し、その文学的著作においても、共通の価値観をもっていて、いわば一つの「文学共和国」を形成しており、その価値観なり趣味、感覚は、同じ中国古典語で表現している中国人や朝鮮半島人とも共通であるから、それは国際的、普遍的なものである。
 彼らはそれぞれのジャンルにおいて塾に入り師を得て学んでいく。教育というものが大 衆化されていない時代はすべて個人教授にほかならないのである。ならば彼等が学者かと いえばそんなことはない、武士であったり商人であったり町人であったりする。
 蒹葭堂自身、大阪の酒造屋の息子ながら病弱で若くして隠居し僅かな本家からの仕送り で妻妾と娘、それにお手伝いの5人家族を養いながら膨大な博物館コレクッションを蒐集。 幕府に睨まれながら、書画や本草学、医学、蘭学の貴重な文物や標本を蒐集し、屋敷内は さながら私設博物館と化し全国から一級の知識人が集まってきたという。 私にとって蒹葭堂は憧れである。
 渋江抽斉のとっつき悪さと面白さは森鴎外が発見した史伝の新しい形式にある。 それは鴎外が徳川時代の史実を調べるために「武鑑」という今でいえば「帝国興信録」の ような文献を蒐集していてしばしば「渋江氏蔵書記」という朱印のある本に出会い興味を もつことから始まる。そこから推理小説仕立ての謎解きがはじまる。前半は鴎外が勝手に 面白がって考証していくのに付き合わされて疲れる。だんだん面白くなってくるのは登場 人物の輪郭がはっきりしてきて生き生きと活写されはじめてからである。
 とりわけ抽斉の4人目の妻、五百(いお)が精彩を放っていて、抽斉が人の窮状を救うために8百両の無尽講を集めた夜、これを奪いにきた3人の武士に風呂に入っていた五百が腰巻一つつけただけの裸体で懐剣を銜え、湯をかけて追い払ったなどというエピソードなどが紹介される。ところが鴎外にこの話を伝えた抽斉の子息(すなわち五百の子でもある)である保さんの元の話しでは五百は全裸であったそうな。その方が刀を抜いた武士3人が尻尾を巻いて逃げ出した五百の迫力にふさわしい。
 ところで抽斉は木村蒹葭堂に遅れること69年で、鴎外は抽斉に遅れること58年。中村真一郎は鴎外に遅れること55年であり、読者たる私は真一郎に遅れること24年である。中村真一郎の「木村蒹葭堂のサロン」のほうが私たちの時代に近いので引用の頻繁な漢文、漢詩を除く地の文は分り易い(私のこうゆう書き方そのものが時代考証の真似事である)。
 中村真一郎といえばフランス文学者、愛と遍歴の『四季』(75年),『夏』(78年,谷崎潤一郎賞),『秋』(81年),『冬』(84年文学大賞)の4部作で爛熟した愛の世界を描く作家だとしか認識していなかったが、晩年に(1998年没)、森鴎外を強烈に意識し、鴎外の歴史小説3部作にならぶ「頼山陽とその時代」「蠣崎波響の生涯」「木村蒹葭堂」というこちらも3部作を著すのだから面白い。
真一郎は「山陽(ホモサピエンス知識人)のように学問を楽しみ、波響(ホモ・ファーベ ル芸術家)のように芸術に遊び、蒹葭堂(ホモ・ルーデンス風雅の人)のように社交生活 に明け暮れるというのが私の地上天国の夢であった」と書いているが、ぼくには学問を楽 しむことは無理だけど、そのほかは僕の夢でもある。  この関係の面白さはいくら書いても尽きない。またの機会にしよう。

泣く蝙蝠(こうもり)
忙しいとは。心を亡くすことだとは知っていても忙中にあればなかなか気がつかない。 このごろ、ようやく心にゆとりが持てるように感じる。 西宮の大谷美術館での元永定正展に朝10時に行った。入館するまえに庭園をゆっくりと散歩した。何十回をここに来ているが、庭の散策は初めてである。きっと元永先生のことだから、庭にも仕掛けがあるに違いないと思ったからだけど、時間にも心にもゆとりがなければ、いつものようにサッと見て、サッと帰ったに違いない。 紫陽花が美しく咲き、よく手入れされた日本庭園を歩くのは心の底からうれしい。 そここに元永先生の遊び心が溢れている。ふと気がつけば小さな方舟のような石の作品があり山口牧生「いとけなきものの舟」2001年とある。さらに進めば小さい円形の庭に見慣れた4っの石のオブジェがあり優しく私に微笑を送る。確か津高和一先生のご自宅の庭にあったものではないか。あとで川辺学芸課長にお聞きすると、「いとけなき」は山口先生がお亡くなりになる直前の作品で、津高先生のオブジェは震災後ここに安息の場を得たとのことだ。
 元永先生の展覧会は回顧展ではなく、新作を中心に今を楽しむ先生の柔軟な発想の横溢したもので「理屈やおまへん」と、固い私の頭をぐにゃぐにゃにしてくれる。79才のこの若さはただのもではない。元永定正そのものが偉大な作品である。作品との言文一致である。悦子夫人とのコラボレーションもすばらしい。
 帰りに再び庭へ周った。山口先生の剛直な作品と違う「いとけなき」に感じた「かそけきはかなさ」を確認し、津高先生に挨拶をした。
 いつまでも蝙蝠は泣かないなあと思われる方はごめんなさい。今から泣きます。 6月4日、日本タ対ベルギー戦の夜、ギャラリー島田では火曜サロンがあって「若き女性美術家の生涯」を上映した。奇特な方18名が鑑賞した。この映画は長田に生まれ育った画家の卵、佐野由美さんが震災後からネパールで貧しい子供たちを教えるボランティア教師となり、帰国前日に交通事故に合って亡くなるという短い人生をおったドキュメンタリーである。3回目だが涙が出る。「わたしはここに捜すものがある」という眩しいばかりのポジティブな姿勢と、突然訪れた死という不条理の格差にいつも動揺する。
そのあくる日、さきほど届いた武谷なおみさんの小冊子「プリマドンナの<声>をひろうーーマンマ・シミオナートとの対話」を読みながら一階の画廊で弁当を食べていた。 ぼくはメゾソプラノの名歌手ジュリエッタ・シミオナートのことはよく憶えている。NHKが招聘したイタリア歌劇団の「アイーダ」公演は1956年が最初で、まだ家にTVのなかったばくは(当時12才でした)、須磨駅前の喫茶店に、父に連れられて見に行ったのです。武谷さんも10才のときにTVでみたシミオナートに憧れ、文通がはじまり、母子の情愛に溢れた付き合いになるのですが、阪神大震災に見舞われ九死に一生を得て「マンマ・ジュリエッタ、私いきているよ!」と公衆電話に叫び、電話のむこうでシミオナートがワット泣き出した。というくだりで、私も涙が止まらなくなりました。  
 そして昨日、7月に個展をする井上ようこさんが、4月に亡くなった朝日新聞の学芸記者、井上平三さんのブックレット「私のがん患者術」(岩波ブックレットNo、569)を届けてくれて読み出して、もう駄目です。井上さんとも古いお付き合いで、癌と闘っておられたのは存知あげていましたし、奥様も存知あげていて、密かに心配していました。
 ギャラリー島田が北野に誕生してからもサロンにも足を運んでいただき、なにか透明感すら感じる、強く印象に残るイメージが焼きついています。かれは自らの体験をこのブックレットに残し、見事な戦死を遂げた。私は事情があって40年以上読み続けてきた朝日新聞を止めてしまったので井上さんから聞かされるまで平三さんの死を知らなかった。
 このブックレットは淡々としたなかにも武士(もののふ)平三さんの覚悟の文が素晴しいが、最後に同じがん患者として生きるノンフィクション作家の柳原和子さんの「今年の桜がなぜこんなに早く咲いたのか・・・・、今、わかった。井上さんに見てもらいたかったからだ・・・・。(略)。早すぎた桜はしかし、鮮烈に、惜しまれながら、誰の心にも残像をとどめた」と書き、奥様が、主人の手術のときはいつも桜とともにあり、桜とともに散ったと受けられた文に涙が滲みました。これから桜を見る度に平三さんの事を思い出すでしょう。

2002.6「以下、無用のことながら」

司馬遼太郎さんのタイトルの無断借用です。 この国の体たらくを心配してしまいます。日本という社会にコモンセンスというものがなくなってしまったように感じませんか?社会のなかで無言の不文律、暗黙共通の常識といったものが失せて、毎日がワイドショーの世界になってしまいました。 政治も、官僚も、企業も、教育者も、警察も、弁護士も、検察も、医者も、看護婦も、かつては尊敬をもって見られた職業の上の方から腐っているというか、上まで腐っているといえばいいのか。
 しかし、したり顔に憂いたり、説いたりするつもりはありません。私たちの日常こそを大切にしたいとおもいます。コメントまがいの評論は私のもっとも嫌うものです。日常の積み重ねこそが自己表現であると心得て 刻々に、自分たちが何を判断し、どう行動するかを問われているという事だけは明瞭に自覚してこの一日を過ごしたいと願っています。
 震災以来、強く社会に関わってきて、たくさんの経験をさせていただきました。気がついたら「変人」「過激」とレッテルが貼られて、すべての公的なお役目は無くなりました。それは、なかなか爽快な気分で、頭が丸刈りになったようで、大気や風や陽光などが直に感じられ、これからはこのまま丸刈りで、帽子も被らずにいたいと思います。ここらでじっくりと自分というものを見つめ直し、私の残りの人生、10年(多分あっというまの)を思いのままに柔軟にしかも全力ですごしたいと願っています。いざとなれば身を捨てて「われここに立つ」という覚悟を決めて。

  「以下、有用のことですが」~マリア・ジョアン・ピリス賛歌
ポルトガルのこのピアニストに夢中です。 その素晴らしさは、たとえば最も新しいベートベンのピアノソナタ「月光」の入っ たCDを聴いて見てください。
 「音とは思想である」と確信したほど、なんともいえない素晴らしい音です。 それはピアノの音色という意味ではなく、タッチというのでもなく、音=人、すなわち思想であると感じるような音なのです。もちろん音だけで音楽を語るわけでありません、にもかかわらず音だけで感じるのもがあるのです。
 つい、一月ほど前の日本経済新聞の文化欄にピリスがリスボン郊外ベルガイシュに設立した「文化センター」のことが詳しくのっていました。彼女にとって演奏することは生きることの大切な一つの要素であって、全部ではありません。ここに児童合唱団をつくって子供たちに素晴らしい音楽環境を整えるための協力を呼びかけるものでした。  長い病との戦いを克服して、大自然のなかで深い思索のなかでたどりついた「人への思い、芸術への思い」そんなものが一杯につまっている音!!
 ピリス31歳のときのショパンの演奏と56歳のベートーべンを聞き比べると、録音の差もあるだろうけれど、音が全く違います。今の音には大地の恵み、草原を吹きぬける風、そこでゆったりと生きるピリスの豊かな息使いがたっぷりと込められた音です。
 ピリスは「われここに立つ」と音楽で言っているのです。

 先日、県立美術館のミュージアムホールのオープニングのコンサートをお手伝いさせていただきました。 このコンサートは伊藤ルミさんたちの「ラ・ミューズ・トリオ」のデビューでもありました。ホール自体が様々な問題を露呈したコンサートでしたが、音楽理論、奏法、表現など様々に新しい指導者を得て、次の高いステップを目指している伊藤さんのピアノ演奏にしっかりとした構成力と豊かな感受性の発露を感じました。
 私は聞いていませんが翌日の大阪での出来が素晴らしく、とりわけ「大公」の3楽章の美しさを数人の専門家が伝えてくれました。私たち神戸っ子にとって伊藤さんは身近な存在です、だから分かったつもりでいますが、音楽家として確実に成熟し、もうすぐ「われここに立つ」という音楽を聞かせてくれると思います。

2002.5「由布院へ行く」

すこし興奮気味で深夜3時に目が覚め、うとうとしただけで5時には起床した。まだ暗い道を星を額に受けるように歩いた。
 空路大分に入り、バスで大分駅へ、そこから一両だけの普通電車で1時間弱。
 今年の春は早く、1週間も早く初桜の蕾がふくらみはじめ、梅、白木蓮、辛夷、桃、山際が匂いたつように白く煙る。そこに鮮黄色の連翹(れんぎょう)。春霞がたゆたう。缶ビールを片手に長閑(のどか)である。
 3月12日、13日。中谷健太郎さんのお誘いに応じたものだ。昨年、選挙に関わってボロボロになっている私を見かねて、何度かお声をかけていただいていた。昨年秋の通信にも「由布院にて」を書いたがじつはあの原稿は1年以上前のもので、あの時は行っていない。2年ぶりである。
  磯崎新さんの設計した洒落た由布院駅から大分川沿いに蛍見橋を渡って金鱗湖を目指す。一羽の白鷺が一心に餌とりしている。頭の後ろに細く長く毛が伸びてNYにいる川島猛先生の奥様、順子さんの髪のようにお洒落だ。
 大分川といえば大きな川に思えるが小川である。金鱗湖に注いでいるとばかり思っていたけど流れは逆である。
 九州の北海道といわれる由布院の今日は、雲一つなく、歩いていると汗ばむほど。
 亀の井別荘には、何度もよせていただいているけど、連泊は初めてである。
ゆったりとした門をくぐるとフロントの方が笑顔で迎えてくれる。中谷さんは、お客様と話し込んでおられ、ちらと見ると新井満さんだった。リ・ウーファンの素敵な銅版画を眺めながら練柚子を請けにお茶をいただき待つこと10分。「やあ、いらっしゃい」と中谷さん。選挙の労を労われ自らも99%勝ち目のない選挙を14票差で勝ちに持っていった経験を話される。「今晩は柳家権太楼一門の寄席があるんですよ、お席を用意しますから、早めに食事をされて楽しんで下さい」
 亀の井別荘は由布岳の麓、金鱗湖に接して、1万坪の広い敷地に和室15、洋室6の部屋のみ、満室でもお客は50人を超えない。従業員の数の方がはるかに多い。
 案内されたお部屋は、雪の科学者でエッセイストとしても知られる健太郎さんの叔父さんにあたる中谷宇吉郎さんの「壷中天地あり」の書に書物を開いた絵を添えた軸の掛かる庭の眺めの素晴らしいお部屋。須田剋太先生がお気に入りで、ここに滞在して画作したいと望まれたとか。奥様が部屋を汚したらたいへんだから新聞紙をひきつめて下さいと電話されたという。一度は司馬遼太郎さんとご一緒で、言わずといれた「街道をゆく」の取材である。
 お二人が亀の井を訪ねられたのは1975年頃らしく「街道をゆく8」の豊後・日田街道の中に「由布院の宿」として収められている。若き日の健太郎さんの面目躍如の姿が愉快。今の息子さんの太郎さんの年の頃である。
 ようやく遅いお昼を「山家料理・湯の岳庵」で。亀の井別荘で泊まるのは至難でも、公共のスペースとして食事の「湯の岳庵」、喫茶の「天井桟敷」、物販の「鍵屋」などがあり、それぞれ、しつらい、たたずまい、おもてなしに拘りがあって味わい深い。
 ぼくは朝食をホテルの食堂でとった他はすべてここで食した。
蕎麦。栽培から 蕎麦打ちまで一貫して、一日30食ほどしか供しない。山女魚、豆腐、すっぽん、豊後牛、牛舌、90日ほど遊ばせた地鶏、卵白が2段に盛り上がる生玉子、山菜、和風オムレツなど、基本的にこの地の農家と契約したものを料理している。その外、関鯵(せきあじ)の一夜干しを売店でもとめて焼いてもらった。
 町へ出てみたが、思っていた以上に観光俗化がすすんでいてちょっとがっかり。ぼくの好きな高見乾司さんの「空想の森美術館」は経営の行き詰まりで閉館されていて、これもがっかり。鉛筆画の木下晋さんの作品が展示された時に木下さんと来て、高見さんに「湯の岳庵」でご馳走になった。好漢は宮崎で再起を目指すと聞いた。頑張って!
 町を諦めて、大好きな談話室にこもる。中谷さんの読書歴、芸術への視点を窺わせる蔵書の山。須田先生の画集もたくさんあり、珍しい画集をつぎつぎ手にとる。暖炉に薪がくべられ、幽かにクラシック音楽が流れる。今回は長い時間をここで過ごした。
 夜は柳家権太楼一門の寄席 柳家三太楼の真打披露口上。2時間半に及ぶ熱気あふれる寄席を堪能。「権太楼さんも人情噺がよくなりましたね」と健太郎さん。美しい女将さん、プリンス太郎さんとも久闊を叙する。
 夜は露天風呂に。翌朝もまた、まだ暗い露天風呂に入りゆっくりと姿をあらわす由布岳を仰ぐ。1584mの由布岳に少し小ぶりな1375mの鶴見岳が寄り添うようにある。
二つの山が恋をして熱いお湯を出したという。
 さすがに湯から出した肩は冷えるが、金鱗湖からも湯気が立ち上りまことに心地よし。こうして洗い流したいもの、ほぐしたいものがゆっくりと溶けていくのを自分の内側を覗き込むようにして待っている。全ては自分の責めにある、語ってどうなるものでもない。悔悟、自責。そして芯に堅い核のようなものが残って静かに熟していくのを待っている。聞こえない音を聞き、聞こえる音を飲み、明けていく光を感じ、溶けていく闇を呑んでいる。
 明くる日は、中谷さんの盟友、溝口薫平さんの「玉の湯」を訪ね、お茶を飲んだり川沿いを散策。
 1975年4月、中部九州直下型地震で由布院も大打撃を受ける。すぐに立ち上ったのが中谷、溝口を始めとする若い経営者たち。時に健太郎さん41才、薫平さん42才。
そのころ私は33才で海文堂書店に転身したばかりで「まちづくり」など何も知らない。翌1976年8月には「第1回ゆふいん音楽祭」、10月には「牛食い絶叫大会」、翌77年8月には「第1回湯布院映画祭」がはじまって現在の基礎を築いている。それからもう25年。
 二日目の夜は健太郎さん、太郎さんとの陶然たる酒宴となった。ぼくはここが発するすべてを毛穴まで開いて呼吸しようとしていた。このしなやかにして強靭な感性の大人は、柔らかな言葉、柔かな物腰で強く闘ってきた。その理念は、私の勝手な解釈によれば、観光を生業とする人たちだけではなく地域住民すべてが幸福であること、そこに住む人の生き方、暮らしかたそのものが最大の観光資源であるということだと思う。
司馬さんの文章を借りれば「施主に自然と人文に関する大きな思想と志がなければ、観光事業などは環境破壊を生むだけの、それそのものが企業公害になりかねない。さらにいえば、当主が計算に長じていて、しかも自身が徹底して無欲でなければ、観光事業は国民の公賊になってしまうおそれがある。日本の環境は、私有財産尊重の民法によって.個人が欲しいままに切りとることができる。しかし環境そのものの本質は、法を超えて思想としてあくまでも公的なものである。せめてその程度の思想でももっていなければ、観光事業は今後、公賊になるのではないか」(街道をゆく8p145、146)
ここでの施主、当主は中谷さんのことで、中谷さんは司馬さんの言う思想をもって闘ってこられた人である。でもこの闘いに勝利は約束されておらず、闘い続ける他ないのである。
 神戸においても、北野においても事情は同じである。
 明くる朝、風呂からの帰りにまだ暗い庭に佇む太郎さんに会った。昨日から彼に密着していたTVクルーを見送ったところだという。35才の彼が亀の井の次代を担う。髭を生やして陰影のあるいい顔になってきた。
 帰りのタクシーの中。由布岳は壮大な焼野だった。そのことを運転手さんに尋ねると、いままでじっと黙っていた彼が、急に多弁になった。
 放牧した牛につくダニを退治するために草を焼くという。もともと火山灰の泥地用の農耕痩せ牛を改良して肉牛とした。豊後牛である。 農閑期には由布岳山麓で放牧していた、ここの草はいくら食べても太らないので、今は肉牛のリハビリセンター、エコ牧場だと運転手さんは言う。その豊後牛をPRするために中谷さん、溝口さんが考えだしたのが「絶叫大会」だという。あとは、ぼくが相槌を打つだけで金鱗湖伝説、九州火山地帯、今年の桜異変など尽きず話しが流れ出した。

2002.4「佐本進先生のお墓まいり」

1990年2月28日、小児歯科専門医が、患者の男児が治療中に急死したことから「死んでお詫びをする」と遺書をのこして自殺した。みなさんもこの事件のことを記憶されておられると思う。佐本先生は1983年に自宅の庭に小劇場「シアターポシェット」を開館、若い芸術家の活動拠点として開放したり、脳障害児の治療のための人間能力開発研究所を支援するなど献身的な生き方を貫いてこられただけに、大きな衝撃と悲しみを誘った。
 今年は13回忌にあたる。
 私はいつも心の奥深くに先生の視線を感じ、ことある毎に佐本先生と語り合ってきた。
それはご葬儀の写真に向ったときにはっきりと先生の「あとは君がしっかりやってくれ」という声を聴いたからだ。
遺稿集「天の劇場から」は私のバイブルと言ってもいい。勿論、当時先生はまだ54歳の若さで、先生の思想を完全に表現しえたものではないが、身を持って仁をなしてこられた姿こそが尊い。
 先生のお墓は長田区、高取山の北面中腹にある飛龍寺にある。13回忌にあたって私ははじめて飛龍寺を訪ねた。ここは車でないと行けない。長田の商店街を北へ真っ直ぐ抜けて通称「丸山新道(長田箕谷線)」へ入り、長田方面(機動隊方面)と鈴蘭台方面へと分かれる信号の手前300メートルの左手の急坂を駆け上がる。
 奥様から、だいたいの墓地内の位置は聞いていたけど、いざ車を下りるとどう行ったら良いのか分からない。花屋さんで小さな花束を造ってもらう間に「佐本進さんのお墓はどちらでしょうか?」と尋ねると、親切に「ちょうど蕾がふくらんできたので、梅の枝も添えておきましょうね」とおまけしてくれた上に、社務所まで聞きにいってくださる。こんどは地図を片手にした男の人と一緒に戻ってこられて、多分、このお墓だと思いますよと丁寧に教えていただいた。
 坂を少し登って高台に出ると、右手に丸山が見え、私が大学時代を過ごし、震災まで母が一人で暮らしていた家がそのあたりにある。左手の道路沿いの須磨区の「車」という地名のところから北区の下谷上にかけて無惨に山が削り取られていて痛々しい。先生がお墓に入られたころは、このあたりは緑溢れる場所だったに違いない。
 お墓はすぐに分かった。お亡くなりになって半年後にここに建立されたことが墓銘によって分かる。まだ真新しく見え、手向けられた花が心持ちうなだれ、すでにどなたかがお参りされた気配である。
 初めての墓参りであることを詫びた。先生が亡くなられたのは54歳の時で、ぼくはその時47歳であったのか。今、ぼくは先生の生涯を5年も超え、シアターポシェットは20周年を迎える。
 今回の13回忌にあたって奥様が選ばれて私が監修してお身内に配られた文章を抜粋いたします。ぼく自身の想いに全く重なります。(全文は「天の劇場から」の130P)
わが心のシノプシス(概観)――抜粋
 明確な記憶にないずっと以前から、ぼくの心はいわれなく、ひたむきに「弱きもの」に対して魅せられつづけてきたようである。弱者に対する、たとえようのない共感、愛着心、親近感。それは、多分にぼくの理念ではなく、思想や信条でもなく、おそらくは、拭い去ることのできないぼく自身の体臭のしからしめる所以なのかもしれない。
 多分に強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべきであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖め続ける体温そのものであり、かっていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来する陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由なく困難な状況へと立ち向かわせているようである。
 やりたかったこと、出来なかったこと、苦しんだ時間、笑ったひととき、出合った人たち、去っていった人。悔悟と悲哀、不安と期待、ささやかな喜び、やるせない悲しみ、それらが満遍なく均等に混じり合い押しつまった、途方もなく長く短かったこの日々の行程。どこから折りとっても顔をのぞかせる、かの縁日の懐かしい金太郎飴。折っても折っても出て来る甘さとほろ苦さ、後悔と反省、希望と幻影。それらのすべてに、どうやら今、ぼくは一人で責任を負わねばならないようである。その苦しみや失敗や責めの日々でさえ誰のものでもなく、ぼくの分にふさわしいものだったと、ようやく今でははっきりと、ぼく自身に思えてくるからである。
 この文章は先生の亡くなられるちょうど1年前の1989年1月に雑誌「雪」に寄稿
 されたもので、いわば先生の遺言とも読めるのです。

2002.02「津高和一先生の墓参」

追悼展もあと僅かになった風のつよい朝、西宮北口の新しい津高先生のお墓にお参りをした。駅周辺もまったく様変わりして新しいショッピングゾーンが出来ている。

震災前までここはひっそりとした市場だった。震災の翌日、ぼくは津高先生ご夫妻の死を知らずに、関西国際空港からこの駅にたどりついて、緊張感に身を固くして神戸へ徒歩で向ったのだった。

震災の三週間前の年の瀬に雪子夫人からお電話をいただき、手土産の果物を求め、この市場を抜けて先生のお宅へ伺った。今日と同じ寒い昼下がりのことだった。展覧会の打ち合せもあったが、額代の支払いに充てるために絵を買って欲しいという依頼だった。こういう時は奥様の出番である。アトリエで先生と一緒に5点ほどの中から「響」という作品を選んだ。20号の作品で、真っ白い画面に黒く掃いたような強くてかつ洒脱なような線が横に流れている俳句のごとき作品であった。今となれば懐かしい。

この新しいショッピングゾーンを想い出にふけりながら南へ回り込んで信号を渡ればもうお寺の屋根が見えてきた。先生のお宅があったのと同じ高木西町の法心寺である。このお寺も震災で全壊し再建途上、まだ工事中である。

「大きな犬がいます。注意」と書かれた家を覗きこんでいると工事現場の若い人と目があった。「墓まいりに来たのですが」と問うと「本堂の横を回り込んで下さい」と親切に教えてくれる。

真新しい大徳殿という立派な本堂の横に細い道がある。そこは想像したよりもずっと小さな庭で、数十基の小さなお墓が並んでいた。

先生のお墓は左隅にあってすぐに分かった。お墓らしい形をしていなくて、先生の自宅のお庭にあった石がそこにあり「架空通信」という先生の独特の字が彫り込まれていたから。私はその簡素にして気品に満ちた佇まいにパリ郊外オーヴェールのゴッホ兄弟のお墓を連想した。ゴッホのお墓も津高先生と同じように塀に沿って小さな緑に囲まれた簡素なものだ。先生のお墓は現代美術家の吉田廣喜さんと写真家の吉野晴朗 さんが中心になって建立されたもので先生の作品そのままに清々しい。

1992年の1月、今日と同じように寒い、ちょっと陰鬱な天気の日に、ぼくはゴッホのお墓の前にいた。あれから10年、震災から7年。歳月は走り去り、ぼくの身辺も急変した。空に目をやると雲が先生の絵のように詩的にあった。。天上におられる先生とながいあいだ手を合わせ「架空通信」の会話をひっそりと交わした。

夢のなかの猫は足音をたてない(津高和一「騙された時間」より)

遠藤剛熈の遥かな旅

9日の休日、京都を訪ねた。銀閣寺前の草喰「なかひがし」でお昼。久し振りに中東ご夫妻と話しが弾みニ合のお酒をおいしく飲む。そのあと哲学の道を疎水沿いに歩き法然院へ。ここのご住職の梶田真章さんは「法然院サンガ(法然院を核とする人々の集まり)」という素晴らしい文化サロンを運営されていて、私などただ憧れるだけなのです。

世の中凄いことをなにげなくやられる方がおられますなあ。法然院そのものも誠に美しいお庭、本堂を持ち、詞にできない風情があります。梶田さんには神戸の「木馬」で何度もお出合いさせていただいてますがお訪ねするのは初めてでした。でもご不在。南禅寺へ出て、蹴上へ。そして都ホテルの横にあるギャラリー「虹」へ。ここは休廊。覗き込むと私もいただいた堀尾貞治さんの干支「馬」がお留守番をしていましたよ。(「虹」での堀尾貞治展―あたりまえのこと、は15日から27日までです)

酔いを冷ましながら寒風の中を歩き回って四条河原町から阪急で大宮の「遠藤剛熈美術館」へ。

私のギャラリーが北野に移転した2000年11月に遠藤先生が訪ねてこられ、先生の仕事、12月にオープンする美術館のことなどお聞きした。相談めいたお話だったけど、私も自分のことで手一杯で、1年遅れの訪問である。学芸員の内藤さんが丁寧に案内くださり、途中から先生、奥様を交えてのお話にあっというまに時間がすぎた。遠藤先生は1935年京都生まれ、武蔵野美術学校を卒業、一時「光風会」で発表したが退会。自己の信念、信仰、真実の追究のために徒党を組まず、自然と対峙し、内面を掘り下げることのみに専一された。したがって1500点に上る作品の一点も売ることなく、長い時間をかけて完成にむけて書き加えられた力作が圧倒的な存在として迫る。

画題として、今日、ぼくが歩いてきたばかりの「疎水」「南禅寺」「蹴上」が好まれ100号の作品がすべて現場制作というから驚く。アトリエには巨大にして膨大なデッサンがうずたかく積まれ未だに求道者で在り続ける剛毅な姿勢に打たれる。

私は究極の求道者は山内雅夫先生と信じているが、ここにも青春の眩しい輝きを純度をもって保持している偉大な作家がいる。

遠藤先生はロマン・ロラン、ベートーベンを尊敬し、セザンヌ、ゴッホを終世の目標ろしてひたすら精進されている。無垢、純真の人である。

先生も、奥様も拙著をお読みいただいていて、加藤周一先生とも交友がおありとか、この美術館との関りが生れそうな濃密な予感がした素敵な時間でした。

嗚呼!!マーティン

わが友、マーティンがフィリピンで亡くなった。1月12日午後3時ごろのことである。マーティン・ヒューズ45才。神戸の祥龍寺で禅の修業をして、7年ほど前に東大阪の廃寺のようであった安楽寺に住職となった変わり種のアメリカ人の好青年であった。ピアニストの伊藤ルミさんの英語の先生とかでモーツアルトクラブの例会にゲストとして参加していらい、なにか気があって、弟のようになにかと相談にのってきた。ばくは禅の悟りとは無縁だけど日本の事情についてはアドバイスできるからだ。

昨年末にもギャラリー島田にきて、NHKテレビに出たことや本を出したいことなど報告していったところである。これでマーティンも運が向いてきたね、と笑って握手して別れた。

なんで突然? 最初は変なウィルスが髄膜にはいって危篤ときいた。その後で、そのショックで脳にもともとあった腫瘍が爆発したという。でも助かると信じて祈った。そしてマーティンにメールで『元気の蘇生しろ。遊んであげる。奇跡の完全復活で大坊主になれ』 と送った。そして、その直後に訃報を聞いた。ばか野郎、目を覚ませとどなった。

だれか、僕のメールを極楽浄土のマーティンに転送してくれ。