芹川のせせらぎが、もう秋も深まろうというこの時にふさわしくないほど、華やいで聞こえる。熱いほどの日差しも私の額をてらし、腰から下は41,2度の長湯温泉につかっていて、さわやかな冷気にさらしている裸の上半身すら、うっすらの汗ばんできた。
「御前湯」という名前の温泉に浸かったからといって大名気分になれるわけではないが、たしかに今ながれている時間は、物理的に刻まれる時間とはかけはなれて、ゆったりと流れている。あの日常の流れは、物理時間の3倍も早く流れているのに。
強い日差しを励ますように青く抜けた空を見上げると、それでもやはり秋の深まりを感じさせるようなかすかな気配…
ふたたび目を芹川の対岸にうつすと、五彩に輝く山の端から、ゆっくりと川の流れと反対の方へと雲が、時の移ろいそのままに、ゆったりと姿をあらわしてきた。何気なくみていると、その形が犬の顔のようで、しかも私が12年前に脳の手術を受けた時に身代わりのように亡くなったシェットランドの「シェップ」に似ているのに気付いた。首筋に手をあてると、ほとんど意識に上ることのなくなった傷痕にふれ、走馬灯のように12年のことがかけめぐった。翻弄されるような時代の激変、震災のこと、記憶のフラッシュバック。世の中の変わり目を戦前、戦後とよく言うが、今、神戸では震災前、震災後といい、私にとっては術前、術後である。
すべてに甘ちゃんであった私にその傷痕はいはば新しいレンズを与えた。より鮮明に結ばれる世間という画像。そして、見えてしまったことから逃れられない性。
首の傷痕の左に出来た固まりにおもわず手がすべる。憤怒のあまり脳が噴出してきたのではないかなどと冗談をいいながら診察を受けたら知人の医者はこともなげに「老人性の疣(いぼ)です」と断定した。自覚せぬままに進行する老い。わたしのことをマコリンと呼んだりする輩がいるが、これではイボコロリンと改名しなければ。
睡眠不足と、旅へ出たことを自らに確認するために車中から少しずつ飲みつづけている酒精のために、ようやく駄々をこねていた中枢神経もほぐれてきて、見上げれば我が愛犬の姿も、その形を失った。すこし西へ傾きかかった陽が芹川の川面をきららにひかり、森の木々のゆれと、微かな硫黄の香りの室内楽を奏でる。川上の浅瀬で踊る光が鍵盤となってモーツァルトの音の粒に見える。どの曲というのではなく、自然に脳裏に浮かぶモーツァルトらしき調べ。その一瞬に忘我となり、半覚半醒。陶然たり。
75歳で浴槽でポックリとなくなった父の齢まで17年を切った。千日回峰のような日々を三回おくり、あとは終着駅までゆるやかに下っていこう。