2001.10「旅の始まり、関空で野宿とは!」

夏休みも終わり、穏やかな秋に向けて!
8月20日
フランス行きを明日に控え「ミニアチュール神戸展」の後片付けに大童、夜は秋の市長選にからむ大事な会議に駆けつける。そんな慌ただしい時に「明日は台風11号が直撃、K―CATは全面欠航、関空への連絡橋も閉鎖の見込み」という連絡が入る。
 こんな大事な時に10日も留守にするとは何事かと、満座のなかで非難されながら、家人が荷物を大急ぎで纏めてタクシーで駆けつけ、バスで関空へ向かう。ああ、またしてもぼくの海外行きは異変が付き物というジンクスを裏書きしてしまった。
 ちなみに過去の事例は(すべて旅立ちの日か、帰国の日のこと)湾岸戦争勃発、昭和天皇ご逝去、サンフランシスコの地震、そして神戸の震災である。今回のことはさほどのことではないが、お騒がせ男には違いない。
 さて関空では、あてにしていたホテルが満室で、とうとう出発ロビーで夜を明かすはめになった。24時間空港といいながらレストランもバーもすべて10時までに閉まってしまう。会議に駆けつける時に歩きながら食べたマクドナルドのハンバーガーが夕食となった。ロビーのベンチは寝るのに支障はないが、明るいのと、月に何度もないと思われる床清掃の日で、うるさくて仕方がない。でも旅への期待と、頭の痛い市長選の事で胸騒ぎを押さえながら、少しまどろんだ。

8月21日
幸い台風は異常に進度が遅く、フライトは予定より45分おくれで無事出発。
 今回の旅の目的は、秋に展覧会を予定している二人の作家を訪ねる事と、僕にとって二つの聖地である「セザンヌのエクス・アン・プロバンス」と「ゴッホのアルル」を訪ねる事でありました。
 旅の詳細はいずれゆっくりと纏めたい。今回は美術を巡る思いを簡単に

<バンスの栗山茂展「EYES-SITE」>  ニースのバスセンターから約50分で城壁に囲まれた中世の街バンスに着く。  マティスが食事をしたという店にてプロバンス料理で昼食。向こうの丘に見えるマティスが最晩年に設計と装飾を手がけた有名な「ロザリオ礼拝堂」へ。真夏の照り付ける太陽のもと、上り坂15分。簡潔な美しさにあふれたマティスのスピリットを堪能。 そこからまた歩いて10分。古い石造りの街の中心付近に「白い教会」と名付けられた昔の教会を現代美術系のギャラリーにした素敵なスペースがある。ここで7月23日から9月4日まで栗山さんの個展が開かれている。  栗山さんはニースに20年以上住んでいて人の顔ばかり描いている。私の画廊とは1993年に亀井純子文化基金の助成を受けて日本での初個展を開いて以来の付き合いです。前回のうちでの個展で評論家の中原祐介氏に認められ、そのご縁で東京のINAXギャラリーでの展覧会が実現、昨年は東京国立近代美術館と京都国立近代美術館の「顔―絵画を突き動かすもの」に数少ない現存作家として招待され、東京国立近代美術館ニュース「現代の眼」520号の表紙を飾りました。  顔といっても内省的な作品で、どんどん抽象化されて、今回はとうとう目だけになってしまいました。深い緑の中に目らしきもの、みようによっては深海のさらにブラックホールのような穴にも見える裂け目がある、そんな不思議な絵が18点のシリーズで三つの白い壁面に展示されていて、強い南仏の陽光に慣れた目には、ただ真っ黒にしか見えず、室内の暗さに慣れるに従って、じんわりと引き込まれ、次第に瞑想に誘われるのです。時間を忘れ、足が止り、栗山さんの内的世界へ旅をすることになります。  この作品が頭を離れず、アルルで、ゴッホが眺めたのと同じ場所、ローヌ川の岸辺で「星月夜」を見上げながらも、栗山さんの絵のイメージが浮かんで仕方がなかった。それは「孤独」であり「孤高なる魂」としてゴッホとダブって見えるのだ。  栗山さんは9月にはサンポールのギャラリーで一ヶ月の個展があり、いよいよギャラリー島田での個展につながります。  栗山展は亀井純子基金の10周年記念企画として10月13日(土)から18日(木)まで。 <二つの聖地>  前日に栗山さんにエクス・アン・プロバンス行きのバスターミナルを教えてもらい、僕達は荷物を抱えて、急いでいた。なぜか時計が後れているのに気がついて慌てていた。  そこでばったりとアトリエにむかう栗山さんに出会った。 「島田さん、こんなところで何をしているのですか?」 全然違う方向へ急いでいたらしい。栗山さんも、いつもと違う時間に、違う道を歩いていたらしい。奇跡のような出会いで、ぼくたちは日に何本もないバスに無事に乗ることが出来た。 二つの聖地でのことは、またゆっくりと書きたい。でもこれだけは指摘しておきたい。  セザンヌが30数枚の絵をものにした「サント・ビクトワール山」のことである。  なぜセザンヌはこの山にそれほどこだわったのだろう。  ぼくの乗ったバスはニースから南下してエクスへ近づいていく。葡萄畑、向日葵畑、緑のなだらかな丘の向こうに白い サント・ビクトワール山が見えてきた時には感激した。ところがだんだんと近づいてきて西側から山の南側を回り込んで見る山は、一物一草も生えていない白い石灰岩の異様な山だ。しかもかなり長い山並みで、その前に切り立った城壁のような山がある。人を寄せ付けぬ峻厳にして狷介な姿に息をのむ。優しい緑の山を見なれた私達には異様な感じを与えるし、更にはセザンヌの描いたイメージとも余りに違うのだ。  エクスの街に入り、セザンヌの息吹のある生家やアトリエ、彼の好んだカフェやレストランを訪ねながら気がついたのだが、セザンヌがサント・ビクトワール山を描いた場所は五箇所あるが、当然のことエクスの街から山を描くのはすべて東側から見た景色であり、その姿は白い山には違いない。しかし絵になっている通り、なだらかな稜線をもっていて、それほど人を拒む峻険さは感じられない。でも実際のサント・ビクトワール山は極めて厳しい、狷介な印象がぬぐえない。  ぼくが推測するのは、この狷介な山にセザンヌが惹かれたのは、そ   こに自分の姿を重ねていたのではないかと思われてならない。いわば自分の自画像を描くようにこの山を描いたのではなかったのか。セザンヌの困難な人生とこの山の姿がだぶって仕方がなかった。ここでも「孤立」と「孤高」がある。 <藤崎孝敏さんとピガールの仲間たち>  翌リは寒いと聞いていたのに、南仏と変わらぬ暑さ。三日の滞在のうち、一日はほぼ僕の大好きなポンピドー芸術文化センター(国立近代美術館)にこもり、もう一日はオルセー美術館、藤崎さんのアトリエは2回訪れた。長い付き合いだけど、これほど長時間話しあったのは初めてかもしれない。  前回訪ねた素敵なアトリエは再開発のために立ち退き、もう少しピガール駅に近いアパルトマンのアトリエも広く天井も高い。  二日間、夕方から遅くまでカフェやレストランやバーで話し込んだのだけど、この下町界隈で、とにかく人気者で、ひっきりなしにいろんな人が「やあやあ」と挨拶にくる。  その日暮しの詩人や音楽家やダンサーや、得体のしれない人達。そして美女までも。  15年もいればねえ、と藤崎さんはいうけど、それでもこんなにフランス人と同化している画家も珍しいのではないか?夜になれば怪しげなネオン、セックスショップ、飾り窓の女、街娼、よっぱらい。そんな界隈で孝敏さんは人々から愛され、頼られ、その友人として僕を歓迎してくれる。酔っ払ってカフェのおやじから叩き出される、ほとんどトランス状態の文無し詩人エミーが僕のために絵葉書をかってきて一編の詩を書いてプレゼントしてくれる。深夜のワインバーで、ワインをおごってくれる人がいる。  彼 のインスピレーションの源泉はここにあると納得した。孝敏さんが息をし、匂いを嗅ぎ、肌をふれた人々の真実。表面上は栗山さんとは正反対に見える藤崎さんだが、ここにも「孤立」と「孤高」がある。 藤崎孝敏展は10月29日(土)から11月 7日(日)まで。 <生まれ変わったポンピドーセンター(フランス国立美術館)>

20世紀の美術を俯瞰するには、こんなに面白い場所は無い。まさに知的刺激にあふれた大人の遊園地である。事実、平日でもひっきりなしに人が訪れている。日本の美術館となんという違いだろう。ぼくは6時間、ここで遊んだ。
 うれしかったことを一つだけ。ここは6階が20世紀前半の近代美術の傑作が網羅されており5階におりると20世紀後半の現代美術の系譜をたどることが出来る。ここで思いがけず白髪一雄先生の大作と、嶋本昭三・村上三郎先生のパフォーマンスの作品を発見した。現代美術史における「具体」の位置を改めて確信した。
 今度来る時は、元永定正先生の作品が展示されている時に来てみたい。