2001.05「濃い沖縄」

 正味二日間の短い沖縄への旅をした。前からずっと気になっていて、それでいて足を踏み入れるのを躊躇していた。たんなるリゾート観光で行ってはいけないとの思いがその遠因である。幸い、那覇で自称・建築親方を営む真喜志好一さんが震災以来、足繁く神戸に来られて画家の坪谷令子さんのお引き合わせで知己をえることができた。それにしても真喜志好一とはなんて素敵な名前なのか。「真の志をもって一筋に喜喜として生きることを好む」。そして真喜志さんは、まことにそのように生きているのだ。彼を頼って満を待しての沖縄である。そして、今、わたしは完全に沖縄の虜になりそうな予感がしている。
まず、ホテルである。真喜志さんが薦めてくれたホテルは那覇のメインストリートの国際通りの突き当たり安里三叉路から路地へ少し入った沖縄第一ホテルである。リゾートと対極の古い民家のような隠れ家のような小さなホテルで設備も何もかも古い。永六輔さんの定宿ときいて迷わず決めた。大江健三郎さんもここで執筆されたようだ。ここから真喜志さんのプログラムによる僕の濃い・深い沖縄の旅がはじまった。
念願の沖縄そばで昼食をすませてホテルで待っていると親方があらわれた。彼の車で沖縄の歴史、基地の歴史のレクチャーを受けながらの旅である。那覇市から国道58号線を北へ、宜野湾市の中心部に居座る普天間基地を見ながらさらに北上し沖縄市の巨大な嘉手納基地をぐるっと回ってきた。途中で基地の中を見下ろせる「安保の丘」で訓練飛行を見学。基地上空を常時7~8機の戦闘機が急旋回し離着陸の訓練をくりかえす。会話の出来ないほどの凄まじい爆音である。ここに限らないが沖縄の上空には絶えずヘリや飛行機が飛び、爆音が通奏低音のようのいつも聞こえている。
 真喜志さんは那覇生れ那覇育ちながら神戸大学で建築を学ぶ約10年間を神戸で過ごした。私とほぼ同じ頃、同じ大学にいたがキャンバスが違うので学生時代の面識はない。
 那覇で佐喜眞美術館、沖縄キリスト教短期大学、市立壷屋焼物博物館などの建築家としての優れた仕事をしながら米軍基地の返還運動のリーダーとして知られている。いわば沖縄の良心を体現する人で、まず他人への思いやりを優先し、それがゆえに自ら苦難を引き受けてしまうウチナンチュー(沖縄の人)の典型である。
 私達ヤマトナンチュー(本土の人)は沖縄の歴史やウチナンチューの心を学ばなければ、日本人としてもアイデンティティーを確立できないのではないかと、旅の間中、考えていた。
 基地返還運動のリーダーといえば、日頃平和ボケした頭には過激な政治運動のように感じられるかもしれないが、琉球王国以来、争いを好まない優しい民族であったウチナンチューが太平洋戦争で国内唯一の地上戦の舞台となり23万人(県民15万人、兵士8万人)もの戦死者を出し、なおかつ戦後も、この小さな島に在日米軍基地の70%もを引き受けさせられているという現実を考えれば、基地返還は政治運動でもなんでもなく、一個の人間としての当然の発言を粘り強く繰り返しているにすぎないのだ。

<佐喜眞美術館と佐喜眞道夫> この旅で、眞喜志さんの前述の三つの大きな仕事をすべて見た。細部は承知しないがそれぞれの設計思想は彼独特のもので貫かれていて、それは端的にいえば沖縄の風土、地霊を生かすということに他ならないと私は感じた。その典型として佐喜眞美術館をあげておく。ここに行ってみたいとずっと願っていた。ここは丸木位里、俊さんと、佐喜眞道夫さん、そして真喜志好一さんという人の縁が沖縄という地の縁で出会い、基地返還協定という時の縁を得て奇跡的に生れた美術館である。この不思議さについては、この通信で十分にふれることはできないが、佐喜眞さんが1983年に丸木さんと出会い。その前年から描き始められていた「沖縄戦の図」(全14部)に衝撃を受け、この絵を沖縄に置きたいという丸木さんの願いを自分の運命として引き受ける。曲折の末、普天間基地のフェンスに囲まれた東の端、国道330号に近いところに佐喜眞さんのご先祖からの土地があり、1992年に返還され、基地に楔を打ち込むようにこの美術館が立つこととなった。横には佐喜眞家の沖縄特有の亀甲墓があり、ここに「沖縄戦の図」を常設することは特別の意味がある。真喜志さんは、その全ての意味を了解し、さらに深めて素晴らしい美術館を作った。それは屋上にあるたしか23段の階段である。6月23日(慰霊の日)の夕日が昇る方向に合わせられていて、その最上段から基地が手にとるように見える。  ちょうど企画展示室では丸木俊さんの展覧会をやっていて、のっけから思索に導かれ、一点、一点を凝視した。案内してくれた真喜志さんの姿はいつのまにか消え、誰もいない美術館の静寂の中で、4m×8.5mの「沖縄戦の図」の前に立ったときの衝撃は詞に出来ない。静寂の濃度が息苦しいほどで。細部を見る目と全体を受け止める心との緊張感で、頭の中にキーンという高周波音が鳴り続ける。ここはまさに霊が支配する場である。ぼくはまだ浅い認識ながら真喜志さんによって沖縄への複雑な思索に導かれ、そしてここへ辿りついた。この土地がもつ歴史の記憶、地霊、「ゲニウス・ロキ」が足元から脳天へと突き抜けていく音を確かに聴いた。  ふと人の気配がして振り返ると大きな体に優しい微笑を湛えた佐喜眞さんの姿があった。 <泡盛に溺れる>  真喜志さん取って置きの沖縄料理の店にいる。佐喜眞さんも大きな体をたたむようにして座敷に座っている。ゴーヤーチャンブル、フーチャンブル、豆腐よう、ドウル天、ミミガー、スヌイなど郷土料理がずらっと並び、30度の泡盛をストレートでぐいぐい。  ぼくは重症の花粉症で、このところアルコールは控えていたけど、ここで後れをとるわけにいかない。  沖縄のこと、佐喜眞さんの兄事する窪島誠一郎さんのこと、木下晋さんのことなど、話は尽きない。眞喜志さんが三線(さんしん)を取って山猫奏法(だれでも簡単に弾けるかれ独特の奏法)を教えてくれる。そしてメドレー四連発「?」「めだかの学校」「でんでんむしむし」そして最後に「沖縄を返せ」。気がつけば佐喜眞さんも和している。  この時から、このメロディーが耳について離れない。この声につられて、ふらふらと眞喜志さんの友人が寄って(酔って)くる。アロハを着て寛いでいるけど、いただいた名刺には那覇市長公室長とある。ぼくらの仲間やのに反対側の室長をしていると紹介し、眞喜志さんが、何やらけ しかけている。  沖縄を一瞬、垣間見ただけだが、自然、建物、言葉、音楽、風俗、食事など、何をとっても独特の伝統、文化をもっていて、彼らの郷土愛は具体的にして鮮明であり、うらやましい。文明がローラーをかけて地ならしをしていったにしても、それとの対比において沖縄文化はいっそう際立つ。 <さらば沖縄>  翌日は首里城、金城町石畳、平和通りの牧志公設市場、沖縄の焼き物の壷屋付近を回り、朝も昼も沖縄の珍しい料理を食し、最後に東シナ海に沈む夕日を見る。  ぼくの心に住みついた沖縄は、日本人として避けて通れない深い問題を孕み、人間の根源的なものを触発し、ゆさぶり、そして魅了する。この感覚を胸に落とすのは簡単ではない。しかし多くのヤマトナンチューがこうしてこの地の魔力に取りつかれてきた。  沖縄本島の北部、石垣、宮古、西表、ヨロン、波照間島などの離島へ足を伸ばせるのはいつか。ありがとうウチナンチュー。