今年の12月に遠藤先生の没後5年を記念して先生の代表作を集めて回顧展をひらく計画を進めています。遠藤せんせいは1988年を最初に三回の個展をさせていただきました。残念なことに、1996年12月17日に脳出血で倒れられ、27日には帰らぬ人となられました。その遺作展は1998年5月に神戸阪急で開催されて、私も拝見し、改めて先生の気品のある、心に響く抽象作品に感銘を受けました。先生の画暦を拝見していても、先生本来の仕事の発表の場は、必ず海文堂ギャラリーを選んで下さっていたことがわかります。今回の回顧展は、新しいギャラリー島田のスペースを先生が元気でおられたなら、どんなに喜んで下さっただろうとの思いから奥様と相談して企画しました。
この計画にあたって、奥様から遠藤先生が自分の人生について、芸術について語った言葉のメモを大量に託されました。ほとんどがカレンダーの裏であったり、スケッチブックの切れ端であったりするのですが、几帳面で流麗な、そして極めて詩的な、すばらしい文章です。たぶん、アトリエで筆を止めて、深い沈黙と思索の中で書き付けられたものと思われます。こうした文を心情を吐露するというのでしょう。
作家が創造する苦しみ、孤独、自負と懐疑の間をゆれる心。ああ、何と私は作家と表面を撫でる付き合いしかしていないのか、と自己嫌悪に陥りました。
今、津高和一先生のご本も読み直している。「美の生理」「騙された時間」。お二人には共通する資質があり、今回、お二人の文を同時に読みながら、是非とも、これらの文章を皆さんに読んでいただく術はないかと思案しています。
1994年7月10日
これでいいのだとは思はないが・・・・・
ともかくやってみようと思う
白と黒。 もう一度も二度も チョウセンしてみようと決心した
モノクローム もう一度、やってみる
そこに 大きな世界が切り開かれればよい。
そして又、自然さが出ればと
今はその白と黒の世界に夢をみる(かける)
きびしい色 しかしこんな美しい色がどこにあるだろうかこれが最終の色かもしれない これが最後の色(活字にしただけでは伝わらない遠藤さんの言葉である。美しい字で、墨で配された文字は、それ自身で作品である)
このような、遠藤先生の心の内を覗かせるような言葉が限りなくあります。夜、密やかに読み続けて、ゆっくりとパソコンに打ち込みはじめています。「詞華集」として残すための準備です。
<西村先生のデッサン>
先生のお宅の片隅から1960年前半のキュビズムの影響の濃い、優れたデッサンを発見し、久美子ママと長男の泰利さんにお願いして先生のデッサンを捜していただいている。
先生が2月末からご自宅での療養となり、なにかと大変な時だけど、先生がご存命中に私が是非、しなければならない三つの使命があると思っているので、急いでいる。こんな大言壮語して、恥じをかくかもしれないが、敢えて口に出すことによって自分に言い聞かせている。その一つは「私と妻とモンマルトル」を公的な美術館に収めることである。鴨居さんに、亡くなられる3年前の大作「1982年わたし」という、何も描いていない白いカンバスの前に座る画家と、その回りを、今まで鴨居さんが描いてきたモデルたちが首をうなだれるようにしてとりまいている絵と(石川県立美術館が制作中に買った)、西村先生の、この200号がだぶって見えてしょうがない。1990年の二紀会の本展に出した作品で、この頃、建築家である長男の泰利さんの設計で天井の高い、彩光ののいい、快適なアトリエが完成。
とても喜ばれた先生が、画業の集大成として、またこれからの決意を込めて取り組んだ作品である。画面の右下に赤いストライプのお洒落なシャツをきてスケッチをする先生。左下にモデルとなる久美子ママ。中央のメトロのアベス駅の先生の大好きなアールヌーボーの出入口。鴨居先生の絵と同じように、これを囲むようにサクレクール寺院、テアトル広場、モンマルトルの階段、「洗濯船(バトー・ラボアール)」「跳ね兎(ラパン・アジル)」があり、遠くにパリの街並み、そしてエッフェル塔も見える。制作動機の近似性に対して、鴨居先生と決定的に違うのは、画面に横溢する描く喜びであり、光に満ちた透明感である。聴覚障害というハンディーを持ちながら、純真な少年の心を失わず、素晴らしい家族にも恵まれ、その幸福感を画面一杯に漂よわせて、人を幸福にしてきた先生の傑作だと思う。しかし、先生の幸福は長くは続かない。1994年の年末、恒例の海文堂ギャラリーでの個展を終えた寒い朝、ゴミを出しに行こうとされて足をとられたようによろめいたそうである。軽い脳梗塞。それから回復されたけど、再び旺盛な創作欲は戻らなかった。しかし、私の一つ目の願いは、どうやら果たされそうである。
二つ目の願いは、1990年に先生の昔の名作を纏めて発見した時に簡単ではあるけれど画集に纏めさせていただいた。作品は個人の収蔵となれば多くの人の目に止ることはない。そうした作品があったことすら忘れられる。だからこそ画集として残しておかねばならない。今回、私が発見したデッサン群にしても同じことである。なんとか画集として残せないかと考えています。じっくりと、何度もながめ続けて、画集に収録する作品を選ぶ、あとは私の決断だけである。
最後の願いは、これだけの画家を単なる神戸の画家にとどまらせたくない。その最上の成果を東京で発表したい。手を尽くして努力していますが、これが一番難しい。今、一つの美術館と交渉中である。しかし、これは半端ではなくハードルが高い。だれか、手を貸して下さい。