2001.11「由布院にて」

 芹川のせせらぎが、もう秋も深まろうというこの時にふさわしくないほど、華やいで聞こえる。熱いほどの日差しも私の額をてらし、腰から下は41,2度の長湯温泉につかっていて、さわやかな冷気にさらしている裸の上半身すら、うっすらの汗ばんできた。
「御前湯」という名前の温泉に浸かったからといって大名気分になれるわけではないが、たしかに今ながれている時間は、物理的に刻まれる時間とはかけはなれて、ゆったりと流れている。あの日常の流れは、物理時間の3倍も早く流れているのに。
 強い日差しを励ますように青く抜けた空を見上げると、それでもやはり秋の深まりを感じさせるようなかすかな気配…
 ふたたび目を芹川の対岸にうつすと、五彩に輝く山の端から、ゆっくりと川の流れと反対の方へと雲が、時の移ろいそのままに、ゆったりと姿をあらわしてきた。何気なくみていると、その形が犬の顔のようで、しかも私が12年前に脳の手術を受けた時に身代わりのように亡くなったシェットランドの「シェップ」に似ているのに気付いた。首筋に手をあてると、ほとんど意識に上ることのなくなった傷痕にふれ、走馬灯のように12年のことがかけめぐった。翻弄されるような時代の激変、震災のこと、記憶のフラッシュバック。世の中の変わり目を戦前、戦後とよく言うが、今、神戸では震災前、震災後といい、私にとっては術前、術後である。
 すべてに甘ちゃんであった私にその傷痕はいはば新しいレンズを与えた。より鮮明に結ばれる世間という画像。そして、見えてしまったことから逃れられない性。
 首の傷痕の左に出来た固まりにおもわず手がすべる。憤怒のあまり脳が噴出してきたのではないかなどと冗談をいいながら診察を受けたら知人の医者はこともなげに「老人性の疣(いぼ)です」と断定した。自覚せぬままに進行する老い。わたしのことをマコリンと呼んだりする輩がいるが、これではイボコロリンと改名しなければ。
 睡眠不足と、旅へ出たことを自らに確認するために車中から少しずつ飲みつづけている酒精のために、ようやく駄々をこねていた中枢神経もほぐれてきて、見上げれば我が愛犬の姿も、その形を失った。すこし西へ傾きかかった陽が芹川の川面をきららにひかり、森の木々のゆれと、微かな硫黄の香りの室内楽を奏でる。川上の浅瀬で踊る光が鍵盤となってモーツァルトの音の粒に見える。どの曲というのではなく、自然に脳裏に浮かぶモーツァルトらしき調べ。その一瞬に忘我となり、半覚半醒。陶然たり。
 75歳で浴槽でポックリとなくなった父の齢まで17年を切った。千日回峰のような日々を三回おくり、あとは終着駅までゆるやかに下っていこう。

2001.10「旅の始まり、関空で野宿とは!」

夏休みも終わり、穏やかな秋に向けて!
8月20日
フランス行きを明日に控え「ミニアチュール神戸展」の後片付けに大童、夜は秋の市長選にからむ大事な会議に駆けつける。そんな慌ただしい時に「明日は台風11号が直撃、K―CATは全面欠航、関空への連絡橋も閉鎖の見込み」という連絡が入る。
 こんな大事な時に10日も留守にするとは何事かと、満座のなかで非難されながら、家人が荷物を大急ぎで纏めてタクシーで駆けつけ、バスで関空へ向かう。ああ、またしてもぼくの海外行きは異変が付き物というジンクスを裏書きしてしまった。
 ちなみに過去の事例は(すべて旅立ちの日か、帰国の日のこと)湾岸戦争勃発、昭和天皇ご逝去、サンフランシスコの地震、そして神戸の震災である。今回のことはさほどのことではないが、お騒がせ男には違いない。
 さて関空では、あてにしていたホテルが満室で、とうとう出発ロビーで夜を明かすはめになった。24時間空港といいながらレストランもバーもすべて10時までに閉まってしまう。会議に駆けつける時に歩きながら食べたマクドナルドのハンバーガーが夕食となった。ロビーのベンチは寝るのに支障はないが、明るいのと、月に何度もないと思われる床清掃の日で、うるさくて仕方がない。でも旅への期待と、頭の痛い市長選の事で胸騒ぎを押さえながら、少しまどろんだ。

8月21日
幸い台風は異常に進度が遅く、フライトは予定より45分おくれで無事出発。
 今回の旅の目的は、秋に展覧会を予定している二人の作家を訪ねる事と、僕にとって二つの聖地である「セザンヌのエクス・アン・プロバンス」と「ゴッホのアルル」を訪ねる事でありました。
 旅の詳細はいずれゆっくりと纏めたい。今回は美術を巡る思いを簡単に

<バンスの栗山茂展「EYES-SITE」>  ニースのバスセンターから約50分で城壁に囲まれた中世の街バンスに着く。  マティスが食事をしたという店にてプロバンス料理で昼食。向こうの丘に見えるマティスが最晩年に設計と装飾を手がけた有名な「ロザリオ礼拝堂」へ。真夏の照り付ける太陽のもと、上り坂15分。簡潔な美しさにあふれたマティスのスピリットを堪能。 そこからまた歩いて10分。古い石造りの街の中心付近に「白い教会」と名付けられた昔の教会を現代美術系のギャラリーにした素敵なスペースがある。ここで7月23日から9月4日まで栗山さんの個展が開かれている。  栗山さんはニースに20年以上住んでいて人の顔ばかり描いている。私の画廊とは1993年に亀井純子文化基金の助成を受けて日本での初個展を開いて以来の付き合いです。前回のうちでの個展で評論家の中原祐介氏に認められ、そのご縁で東京のINAXギャラリーでの展覧会が実現、昨年は東京国立近代美術館と京都国立近代美術館の「顔―絵画を突き動かすもの」に数少ない現存作家として招待され、東京国立近代美術館ニュース「現代の眼」520号の表紙を飾りました。  顔といっても内省的な作品で、どんどん抽象化されて、今回はとうとう目だけになってしまいました。深い緑の中に目らしきもの、みようによっては深海のさらにブラックホールのような穴にも見える裂け目がある、そんな不思議な絵が18点のシリーズで三つの白い壁面に展示されていて、強い南仏の陽光に慣れた目には、ただ真っ黒にしか見えず、室内の暗さに慣れるに従って、じんわりと引き込まれ、次第に瞑想に誘われるのです。時間を忘れ、足が止り、栗山さんの内的世界へ旅をすることになります。  この作品が頭を離れず、アルルで、ゴッホが眺めたのと同じ場所、ローヌ川の岸辺で「星月夜」を見上げながらも、栗山さんの絵のイメージが浮かんで仕方がなかった。それは「孤独」であり「孤高なる魂」としてゴッホとダブって見えるのだ。  栗山さんは9月にはサンポールのギャラリーで一ヶ月の個展があり、いよいよギャラリー島田での個展につながります。  栗山展は亀井純子基金の10周年記念企画として10月13日(土)から18日(木)まで。 <二つの聖地>  前日に栗山さんにエクス・アン・プロバンス行きのバスターミナルを教えてもらい、僕達は荷物を抱えて、急いでいた。なぜか時計が後れているのに気がついて慌てていた。  そこでばったりとアトリエにむかう栗山さんに出会った。 「島田さん、こんなところで何をしているのですか?」 全然違う方向へ急いでいたらしい。栗山さんも、いつもと違う時間に、違う道を歩いていたらしい。奇跡のような出会いで、ぼくたちは日に何本もないバスに無事に乗ることが出来た。 二つの聖地でのことは、またゆっくりと書きたい。でもこれだけは指摘しておきたい。  セザンヌが30数枚の絵をものにした「サント・ビクトワール山」のことである。  なぜセザンヌはこの山にそれほどこだわったのだろう。  ぼくの乗ったバスはニースから南下してエクスへ近づいていく。葡萄畑、向日葵畑、緑のなだらかな丘の向こうに白い サント・ビクトワール山が見えてきた時には感激した。ところがだんだんと近づいてきて西側から山の南側を回り込んで見る山は、一物一草も生えていない白い石灰岩の異様な山だ。しかもかなり長い山並みで、その前に切り立った城壁のような山がある。人を寄せ付けぬ峻厳にして狷介な姿に息をのむ。優しい緑の山を見なれた私達には異様な感じを与えるし、更にはセザンヌの描いたイメージとも余りに違うのだ。  エクスの街に入り、セザンヌの息吹のある生家やアトリエ、彼の好んだカフェやレストランを訪ねながら気がついたのだが、セザンヌがサント・ビクトワール山を描いた場所は五箇所あるが、当然のことエクスの街から山を描くのはすべて東側から見た景色であり、その姿は白い山には違いない。しかし絵になっている通り、なだらかな稜線をもっていて、それほど人を拒む峻険さは感じられない。でも実際のサント・ビクトワール山は極めて厳しい、狷介な印象がぬぐえない。  ぼくが推測するのは、この狷介な山にセザンヌが惹かれたのは、そ   こに自分の姿を重ねていたのではないかと思われてならない。いわば自分の自画像を描くようにこの山を描いたのではなかったのか。セザンヌの困難な人生とこの山の姿がだぶって仕方がなかった。ここでも「孤立」と「孤高」がある。 <藤崎孝敏さんとピガールの仲間たち>  翌リは寒いと聞いていたのに、南仏と変わらぬ暑さ。三日の滞在のうち、一日はほぼ僕の大好きなポンピドー芸術文化センター(国立近代美術館)にこもり、もう一日はオルセー美術館、藤崎さんのアトリエは2回訪れた。長い付き合いだけど、これほど長時間話しあったのは初めてかもしれない。  前回訪ねた素敵なアトリエは再開発のために立ち退き、もう少しピガール駅に近いアパルトマンのアトリエも広く天井も高い。  二日間、夕方から遅くまでカフェやレストランやバーで話し込んだのだけど、この下町界隈で、とにかく人気者で、ひっきりなしにいろんな人が「やあやあ」と挨拶にくる。  その日暮しの詩人や音楽家やダンサーや、得体のしれない人達。そして美女までも。  15年もいればねえ、と藤崎さんはいうけど、それでもこんなにフランス人と同化している画家も珍しいのではないか?夜になれば怪しげなネオン、セックスショップ、飾り窓の女、街娼、よっぱらい。そんな界隈で孝敏さんは人々から愛され、頼られ、その友人として僕を歓迎してくれる。酔っ払ってカフェのおやじから叩き出される、ほとんどトランス状態の文無し詩人エミーが僕のために絵葉書をかってきて一編の詩を書いてプレゼントしてくれる。深夜のワインバーで、ワインをおごってくれる人がいる。  彼 のインスピレーションの源泉はここにあると納得した。孝敏さんが息をし、匂いを嗅ぎ、肌をふれた人々の真実。表面上は栗山さんとは正反対に見える藤崎さんだが、ここにも「孤立」と「孤高」がある。 藤崎孝敏展は10月29日(土)から11月 7日(日)まで。 <生まれ変わったポンピドーセンター(フランス国立美術館)>

20世紀の美術を俯瞰するには、こんなに面白い場所は無い。まさに知的刺激にあふれた大人の遊園地である。事実、平日でもひっきりなしに人が訪れている。日本の美術館となんという違いだろう。ぼくは6時間、ここで遊んだ。
 うれしかったことを一つだけ。ここは6階が20世紀前半の近代美術の傑作が網羅されており5階におりると20世紀後半の現代美術の系譜をたどることが出来る。ここで思いがけず白髪一雄先生の大作と、嶋本昭三・村上三郎先生のパフォーマンスの作品を発見した。現代美術史における「具体」の位置を改めて確信した。
 今度来る時は、元永定正先生の作品が展示されている時に来てみたい。

2001.05「濃い沖縄」

 正味二日間の短い沖縄への旅をした。前からずっと気になっていて、それでいて足を踏み入れるのを躊躇していた。たんなるリゾート観光で行ってはいけないとの思いがその遠因である。幸い、那覇で自称・建築親方を営む真喜志好一さんが震災以来、足繁く神戸に来られて画家の坪谷令子さんのお引き合わせで知己をえることができた。それにしても真喜志好一とはなんて素敵な名前なのか。「真の志をもって一筋に喜喜として生きることを好む」。そして真喜志さんは、まことにそのように生きているのだ。彼を頼って満を待しての沖縄である。そして、今、わたしは完全に沖縄の虜になりそうな予感がしている。
まず、ホテルである。真喜志さんが薦めてくれたホテルは那覇のメインストリートの国際通りの突き当たり安里三叉路から路地へ少し入った沖縄第一ホテルである。リゾートと対極の古い民家のような隠れ家のような小さなホテルで設備も何もかも古い。永六輔さんの定宿ときいて迷わず決めた。大江健三郎さんもここで執筆されたようだ。ここから真喜志さんのプログラムによる僕の濃い・深い沖縄の旅がはじまった。
念願の沖縄そばで昼食をすませてホテルで待っていると親方があらわれた。彼の車で沖縄の歴史、基地の歴史のレクチャーを受けながらの旅である。那覇市から国道58号線を北へ、宜野湾市の中心部に居座る普天間基地を見ながらさらに北上し沖縄市の巨大な嘉手納基地をぐるっと回ってきた。途中で基地の中を見下ろせる「安保の丘」で訓練飛行を見学。基地上空を常時7~8機の戦闘機が急旋回し離着陸の訓練をくりかえす。会話の出来ないほどの凄まじい爆音である。ここに限らないが沖縄の上空には絶えずヘリや飛行機が飛び、爆音が通奏低音のようのいつも聞こえている。
 真喜志さんは那覇生れ那覇育ちながら神戸大学で建築を学ぶ約10年間を神戸で過ごした。私とほぼ同じ頃、同じ大学にいたがキャンバスが違うので学生時代の面識はない。
 那覇で佐喜眞美術館、沖縄キリスト教短期大学、市立壷屋焼物博物館などの建築家としての優れた仕事をしながら米軍基地の返還運動のリーダーとして知られている。いわば沖縄の良心を体現する人で、まず他人への思いやりを優先し、それがゆえに自ら苦難を引き受けてしまうウチナンチュー(沖縄の人)の典型である。
 私達ヤマトナンチュー(本土の人)は沖縄の歴史やウチナンチューの心を学ばなければ、日本人としてもアイデンティティーを確立できないのではないかと、旅の間中、考えていた。
 基地返還運動のリーダーといえば、日頃平和ボケした頭には過激な政治運動のように感じられるかもしれないが、琉球王国以来、争いを好まない優しい民族であったウチナンチューが太平洋戦争で国内唯一の地上戦の舞台となり23万人(県民15万人、兵士8万人)もの戦死者を出し、なおかつ戦後も、この小さな島に在日米軍基地の70%もを引き受けさせられているという現実を考えれば、基地返還は政治運動でもなんでもなく、一個の人間としての当然の発言を粘り強く繰り返しているにすぎないのだ。

<佐喜眞美術館と佐喜眞道夫> この旅で、眞喜志さんの前述の三つの大きな仕事をすべて見た。細部は承知しないがそれぞれの設計思想は彼独特のもので貫かれていて、それは端的にいえば沖縄の風土、地霊を生かすということに他ならないと私は感じた。その典型として佐喜眞美術館をあげておく。ここに行ってみたいとずっと願っていた。ここは丸木位里、俊さんと、佐喜眞道夫さん、そして真喜志好一さんという人の縁が沖縄という地の縁で出会い、基地返還協定という時の縁を得て奇跡的に生れた美術館である。この不思議さについては、この通信で十分にふれることはできないが、佐喜眞さんが1983年に丸木さんと出会い。その前年から描き始められていた「沖縄戦の図」(全14部)に衝撃を受け、この絵を沖縄に置きたいという丸木さんの願いを自分の運命として引き受ける。曲折の末、普天間基地のフェンスに囲まれた東の端、国道330号に近いところに佐喜眞さんのご先祖からの土地があり、1992年に返還され、基地に楔を打ち込むようにこの美術館が立つこととなった。横には佐喜眞家の沖縄特有の亀甲墓があり、ここに「沖縄戦の図」を常設することは特別の意味がある。真喜志さんは、その全ての意味を了解し、さらに深めて素晴らしい美術館を作った。それは屋上にあるたしか23段の階段である。6月23日(慰霊の日)の夕日が昇る方向に合わせられていて、その最上段から基地が手にとるように見える。  ちょうど企画展示室では丸木俊さんの展覧会をやっていて、のっけから思索に導かれ、一点、一点を凝視した。案内してくれた真喜志さんの姿はいつのまにか消え、誰もいない美術館の静寂の中で、4m×8.5mの「沖縄戦の図」の前に立ったときの衝撃は詞に出来ない。静寂の濃度が息苦しいほどで。細部を見る目と全体を受け止める心との緊張感で、頭の中にキーンという高周波音が鳴り続ける。ここはまさに霊が支配する場である。ぼくはまだ浅い認識ながら真喜志さんによって沖縄への複雑な思索に導かれ、そしてここへ辿りついた。この土地がもつ歴史の記憶、地霊、「ゲニウス・ロキ」が足元から脳天へと突き抜けていく音を確かに聴いた。  ふと人の気配がして振り返ると大きな体に優しい微笑を湛えた佐喜眞さんの姿があった。 <泡盛に溺れる>  真喜志さん取って置きの沖縄料理の店にいる。佐喜眞さんも大きな体をたたむようにして座敷に座っている。ゴーヤーチャンブル、フーチャンブル、豆腐よう、ドウル天、ミミガー、スヌイなど郷土料理がずらっと並び、30度の泡盛をストレートでぐいぐい。  ぼくは重症の花粉症で、このところアルコールは控えていたけど、ここで後れをとるわけにいかない。  沖縄のこと、佐喜眞さんの兄事する窪島誠一郎さんのこと、木下晋さんのことなど、話は尽きない。眞喜志さんが三線(さんしん)を取って山猫奏法(だれでも簡単に弾けるかれ独特の奏法)を教えてくれる。そしてメドレー四連発「?」「めだかの学校」「でんでんむしむし」そして最後に「沖縄を返せ」。気がつけば佐喜眞さんも和している。  この時から、このメロディーが耳について離れない。この声につられて、ふらふらと眞喜志さんの友人が寄って(酔って)くる。アロハを着て寛いでいるけど、いただいた名刺には那覇市長公室長とある。ぼくらの仲間やのに反対側の室長をしていると紹介し、眞喜志さんが、何やらけ しかけている。  沖縄を一瞬、垣間見ただけだが、自然、建物、言葉、音楽、風俗、食事など、何をとっても独特の伝統、文化をもっていて、彼らの郷土愛は具体的にして鮮明であり、うらやましい。文明がローラーをかけて地ならしをしていったにしても、それとの対比において沖縄文化はいっそう際立つ。 <さらば沖縄>  翌日は首里城、金城町石畳、平和通りの牧志公設市場、沖縄の焼き物の壷屋付近を回り、朝も昼も沖縄の珍しい料理を食し、最後に東シナ海に沈む夕日を見る。  ぼくの心に住みついた沖縄は、日本人として避けて通れない深い問題を孕み、人間の根源的なものを触発し、ゆさぶり、そして魅了する。この感覚を胸に落とすのは簡単ではない。しかし多くのヤマトナンチューがこうしてこの地の魔力に取りつかれてきた。  沖縄本島の北部、石垣、宮古、西表、ヨロン、波照間島などの離島へ足を伸ばせるのはいつか。ありがとうウチナンチュー。

2001.03「遠藤泰弘さんからの伝言」

今年の12月に遠藤先生の没後5年を記念して先生の代表作を集めて回顧展をひらく計画を進めています。遠藤せんせいは1988年を最初に三回の個展をさせていただきました。残念なことに、1996年12月17日に脳出血で倒れられ、27日には帰らぬ人となられました。その遺作展は1998年5月に神戸阪急で開催されて、私も拝見し、改めて先生の気品のある、心に響く抽象作品に感銘を受けました。先生の画暦を拝見していても、先生本来の仕事の発表の場は、必ず海文堂ギャラリーを選んで下さっていたことがわかります。今回の回顧展は、新しいギャラリー島田のスペースを先生が元気でおられたなら、どんなに喜んで下さっただろうとの思いから奥様と相談して企画しました。
 この計画にあたって、奥様から遠藤先生が自分の人生について、芸術について語った言葉のメモを大量に託されました。ほとんどがカレンダーの裏であったり、スケッチブックの切れ端であったりするのですが、几帳面で流麗な、そして極めて詩的な、すばらしい文章です。たぶん、アトリエで筆を止めて、深い沈黙と思索の中で書き付けられたものと思われます。こうした文を心情を吐露するというのでしょう。
 作家が創造する苦しみ、孤独、自負と懐疑の間をゆれる心。ああ、何と私は作家と表面を撫でる付き合いしかしていないのか、と自己嫌悪に陥りました。
 今、津高和一先生のご本も読み直している。「美の生理」「騙された時間」。お二人には共通する資質があり、今回、お二人の文を同時に読みながら、是非とも、これらの文章を皆さんに読んでいただく術はないかと思案しています。
1994年7月10日
これでいいのだとは思はないが・・・・・
ともかくやってみようと思う
白と黒。 もう一度も二度も チョウセンしてみようと決心した
モノクローム もう一度、やってみる
そこに 大きな世界が切り開かれればよい。
 そして又、自然さが出ればと
今はその白と黒の世界に夢をみる(かける)
きびしい色 しかしこんな美しい色がどこにあるだろうかこれが最終の色かもしれない これが最後の色(活字にしただけでは伝わらない遠藤さんの言葉である。美しい字で、墨で配された文字は、それ自身で作品である)
このような、遠藤先生の心の内を覗かせるような言葉が限りなくあります。夜、密やかに読み続けて、ゆっくりとパソコンに打ち込みはじめています。「詞華集」として残すための準備です。

<西村先生のデッサン>

 先生のお宅の片隅から1960年前半のキュビズムの影響の濃い、優れたデッサンを発見し、久美子ママと長男の泰利さんにお願いして先生のデッサンを捜していただいている。
 先生が2月末からご自宅での療養となり、なにかと大変な時だけど、先生がご存命中に私が是非、しなければならない三つの使命があると思っているので、急いでいる。こんな大言壮語して、恥じをかくかもしれないが、敢えて口に出すことによって自分に言い聞かせている。その一つは「私と妻とモンマルトル」を公的な美術館に収めることである。鴨居さんに、亡くなられる3年前の大作「1982年わたし」という、何も描いていない白いカンバスの前に座る画家と、その回りを、今まで鴨居さんが描いてきたモデルたちが首をうなだれるようにしてとりまいている絵と(石川県立美術館が制作中に買った)、西村先生の、この200号がだぶって見えてしょうがない。1990年の二紀会の本展に出した作品で、この頃、建築家である長男の泰利さんの設計で天井の高い、彩光ののいい、快適なアトリエが完成。
 とても喜ばれた先生が、画業の集大成として、またこれからの決意を込めて取り組んだ作品である。画面の右下に赤いストライプのお洒落なシャツをきてスケッチをする先生。左下にモデルとなる久美子ママ。中央のメトロのアベス駅の先生の大好きなアールヌーボーの出入口。鴨居先生の絵と同じように、これを囲むようにサクレクール寺院、テアトル広場、モンマルトルの階段、「洗濯船(バトー・ラボアール)」「跳ね兎(ラパン・アジル)」があり、遠くにパリの街並み、そしてエッフェル塔も見える。制作動機の近似性に対して、鴨居先生と決定的に違うのは、画面に横溢する描く喜びであり、光に満ちた透明感である。聴覚障害というハンディーを持ちながら、純真な少年の心を失わず、素晴らしい家族にも恵まれ、その幸福感を画面一杯に漂よわせて、人を幸福にしてきた先生の傑作だと思う。しかし、先生の幸福は長くは続かない。1994年の年末、恒例の海文堂ギャラリーでの個展を終えた寒い朝、ゴミを出しに行こうとされて足をとられたようによろめいたそうである。軽い脳梗塞。それから回復されたけど、再び旺盛な創作欲は戻らなかった。しかし、私の一つ目の願いは、どうやら果たされそうである。
二つ目の願いは、1990年に先生の昔の名作を纏めて発見した時に簡単ではあるけれど画集に纏めさせていただいた。作品は個人の収蔵となれば多くの人の目に止ることはない。そうした作品があったことすら忘れられる。だからこそ画集として残しておかねばならない。今回、私が発見したデッサン群にしても同じことである。なんとか画集として残せないかと考えています。じっくりと、何度もながめ続けて、画集に収録する作品を選ぶ、あとは私の決断だけである。
 最後の願いは、これだけの画家を単なる神戸の画家にとどまらせたくない。その最上の成果を東京で発表したい。手を尽くして努力していますが、これが一番難しい。今、一つの美術館と交渉中である。しかし、これは半端ではなくハードルが高い。だれか、手を貸して下さい。

2001.02「初めての二人展」

「木下晋・ラインハルト・サビエ 初めての二人展」は、とても良い展覧会となった。
 それぞれが大きな作品で、一日がかりの飾り付けは、爪を割り、手を怪我しての重労働となったが、インパクトの強い二人の作品が空間を引き締め、お二人の作品の近似性と、また差異を際立たせた。
皺だらけのお婆さんのどこがきれいなの、気味が悪いとの声もあったけど、ぼくは改めて木下さんが描く越後のごぜ「小林ハル」さんの100才の姿に打たれた。この三点のハル像は、木下さんの最高傑作として後生に残るのもだと思う。幼少のころからデッサンの天才と言われてきた木下さんなので、技法としての進化のことではない。青木新門さんが言ってらした「死と向かい合うことの美しさ」を素直に感動している木下さんの姿がここにある。常にそうであったとしても、今までの作品と明らかに次元の違うものを感じる。それは木下さんがハルさんを「キューリー夫人やマザー・テレサに勝とも劣らない素晴らしい女」と言った、その思いが素直にこちらに伝わるのです。
 突然「針生一郎です」と電話の主が言った。「誰?」と一瞬ためらう。あの美術評論家の?。「今、県民会館にいます」。存在感のある針生氏はこうしてギャラリー島田に現れた。氏はサビエを日本に紹介した人で影響力のある評論家である。この展覧会の案内を木下さんが送って岡山大学で講義をされた帰りに尋ねられたよし。しかし、その案内状を持ってこなかったので、ともかく県民会館に行けば分かるだろうと思ったとのこと。針生さんは木下さんの絵の実物を見るのは初めてとのことで熱心にご覧いただき「いい展覧会だ。来てよかった」とぽつりぽつりと話される。サビエや木下さんのアウトサイダーアーティストの話しになり画壇の話になった。彼等こそ時代を動かす可能性がある。そして藤崎孝敏さんの絵をお見せすると、じっと見つめられ「良い作家ですね」。
長い髪の毛をした独特の風貌がニッコリ笑う。ギリヤーク尼崎さんだ。もう7~8年前に神戸ではじめてギリアークさんの大道芸を湊川神社で披露するお手伝いをして以来のお付き合いである。1997年の木下さんの池田20世紀美術館のオープニングでも「津軽じょんがら節」を激しく踊った。震災後は毎年、菅原市場で1月17日に踊っておられる。氏は根っからの大道芸人で、その生活はすべて芸を披露して「投げ銭」によっている。70才だというのに顔の色艶はとてもいいけど、地べたに石ころの転がるところで激しく飛ぶ、体を打ち付けるで、椎間板損傷など体中怪我が絶えないという。津軽の100才のゴゼさんと、大道芸で「じょんがら節」を踊るギリヤークさん。この空間に厳しい北の海鳴りが聞こえてくる。背をこごめて人が行く。雪が舞う。見上げれば降りしきる雪。見つめれば天に吸い込まれるようにぼくの体が浮く。ギリヤークが天空で舞う。
 三味線が鳴る。ハルさんの声。ハルさんの白髪。皺。
 1月28日にTV「知ってるつもり」で、101才の小林ハルさんの特集があった。木下さんがハルさんの年をとって段々と俗世の芥(あくた)を洗い流していったように美しくなることを説き、今回の作品も紹介された。私も木下さんの作品を通じてしかハルさんを知らなかったので、あの強靭で人生の重みのいっぱい詰まった歌声と、皺だらけだけど、なんか瑞々しいお顔には驚いた。木下さんの「マザー・テレサに匹敵する美しさ」と言った意味が誇張ではないことを知った。ここまで書いて、私はハット気がついた。
 マザー・テレサに感動する世界と小林ハルに感動する世界の違いが、まさにサビエと木下さんの世界の違いだと。このことは兵庫県立美術館の学芸員の江上ゆかさんが、インターネット上の超人気メールマガジン「ART SCAPE」2月15日号に書いてくださる内容と同じ意味だと思う。(この美術雑誌は60万ヒットという人気。ぼくも愛読している。インターネットで誰でも無料で読める。ぼくも愛読している。この人気サイトと兵庫に画廊ではギャラリー島田とだけがリンクしている)
 初日13日のトークは「神戸塾・特別例会」でもあり、普段と違う顔ぶれも見え、また東京、長野、富山、高知、福岡からも駆けつけて盛況であった。とりわけ富山からベストセラー「納棺夫日記」を書いた青木新門さんがきてくれたのがうれしかった。青木さんは5年前にも私がコーディネートした「戦後美術の軌跡」(神戸まちづくり会館)のシンポジウムに信濃デッサン館の窪島誠一郎さん、兵庫県立近代美術館の中島徳博さん、木下晋さんのパネリストとともに飛び入りでゲスト出演して下さり、死と向かい合っていきることの大切さを含蓄のある言葉でしゃべって下さった。
 昨年10月22日にNHKのBSで1時間にわたり山根基世アナウンサーと「死と向き合うとき」という話しをされている。富山の、昔の死体焼却場の小屋の横での話しが実にいい。ご希望の方に貸出しいたします。

2001.01 「閑話休題」

 年末、年始の休みが6日もあるのは27年ぶりのことである。もっとも、たいていの年は1月5日ころから10日~14日くらい海外へ行っていたから、前の方が豊かであったのだろう。
 年末は京都に行ったのと、フジ子・へミングさんのカウントダウンコンサートへ出かけ、年始はテレビスポーツ観戦と、ひたすら読書であった。
 久し振りに古巣、海文堂書店をたずね、皆と挨拶を交わしながら本を漁った。お目当ては、話題の猪瀬直樹の「太宰治伝・ピカレスク」で、あとは久し振りの本屋を楽しんだ。結局、文庫の新刊コーナーから沢木耕太郎の「壇」加藤周一「読書論」、新書コーナーから岩波新書2冊、そして大江健三郎の「取り替え子」を選んだ。
 全く無意識の選択であったが、結果として関連しあった選択であることに驚いた。それは、前回の通信でゴッホと鴨居先生の「死」、それも自殺をめぐる考察について触れた。「ピカレスク」は、従来の太宰のイメージを覆す、真迫のミステリーに満ちた評伝で改めて猪瀬の力量に驚いた。自殺(心中)未遂を繰り返し、その都度、ある種のしたたかな計算の上に生き延び、最後は計算違いで死んだ太宰と、文豪面をした井伏鱒二の小心さと犯罪的悪辣さが余すところなく描かれていて実に面白い。そして、ここにも壇一雄がしばしば太宰の友人として登場する。沢木の「壇」は、壇の代表作「家宅の人」のモデルである作家の妻としての壇夫人の立場に徹した評伝小説である。合わせて、彼等の生きてきた時代と芸術家の凄まじい生き方、それらに翻弄される周囲に身をつまされて読む。さらに驚いたことに壇が昭和46年秋にポルトガルのサンタ・クルスの町に住み着きその壇さんを訪ねていった画家・関合正明さんのことがでてくるけど、この関合さんは十数年まえに海文堂ギャラリーで個展をさせていただいた鎌倉の作家で、そういえば壇一雄との交際についても聞いたことを思い出した。関合さんの「随筆・狸の話」を書棚から探したが、本のケースだけが入っていて肝心の中味がない。この本は皆美社という出版社からでているけど、檀さんが最も親しくしていたのが皆美社で、関合さんのポルトガル行きはこの社の関口弥重吉さんたちと同行であった。一足先に帰国した関合さんが体調を崩した壇さんのことを奥さんに「壇はアル中だ」と報告し、奥さんがポルトガルを訪ねるきっかけとなる。この4年後に壇は他界するので結果としては二人にとって、大切な時間を共有することになるのだが、関合さんもいい加減なことを言ったわけではないだろう。「狸の話」になにか書いてありそうな気がする。
 もう一冊の「取り替え子」は、小説を中断していた大江さんの久々の新刊だけど、高校以来の親友で大江夫人の兄である、衝撃的な自殺をした伊丹十三さんとの交流を大江さんらしい、重層的な、手のこんだ語り口で書いているが、実は当事者しか知り得ない暴露的な内容を含んだ誠に痛ましい小説である。まだ、半分しか読んでいないが、あの大江さんにしてと、深い嘆息を憶えながら読んでいる。人の世の生き難さを思う。これらの本に共通するのは異常な死ということである。

閑話休題

ついでながら、この年末年始は実によく泣いた。なんでこんなに涙もろくなったのか。
 映画でいえば、息子の陽から「これだけは見ときよ」といわれた“ダンサー・イン・ザ・ダーク”に泣いた。テレビの「中国少数民族の少女」の可憐な愛しさにも、昨日の浅田次郎の「鉄道員・ポッポ屋」泣いた。(もっとも家内に言わせれば途中でイビキかいてたとのこと)
スポーツ観戦。箱根駅伝で2度涙ぐんだ。ひたむきに生きる人間の姿の美しさに勝るものはない。そんな姿に励まされて私も生きている。