2022年5月「CREWS」

地球全体がパンデミックで分断され、国内でも人と人とが分断され、マスク越しを強要される時代です。

例えばギャラリー島田のある神戸・北野界隈でも、パンデミック禍の前は海外、とりわけ韓国、台湾、中国のアジアの人々を呼び込み観光地として賑わっていました。
その姿をばたりと見なくなりました。

各国、それぞれに交流より分断の時代になりました。
コロナ禍で国境は超えにくくなっていますが、だからこそ「人として」、地球の乗組員としてそろそろ国境を越えて行こう、それを可能にすることこそアートの役割ではないでしょうか。

アートの世界は、分断を越えていくことを伝えねばなりません。
地域を越えて、国を越えて、繋がっていこう。

私たちは世界に繋がる作家と、時代を共有することが出来ます。

新型コロナウィルスの世界的拡大の直後からこの画廊通信で連載を開始したコラム「パンデミックの時代に」では、世界各国と「言葉」で繋がることができました。
フランス、ドイツ、英国、セルビア、カナダ、チェコ共和国、デンマーク、アメリカ合衆国在住の作家、演奏家たち、また、アフリカ、アジア、ヨーロッパ各国に詳しい国内の研究者、ジャーナリストの皆さんに、各地のパンデミック事情を伝えていただきました。
この「パンデミックの時代に」は近々ブックレットの形にまとめて発行します。

さて、私たちギャラリー島田が5月の末から6月にかけて開催する特別企画展に、私は「CREWS」と名付けました。
この時代の「今を生きる」人たちは誰しも「乗船者」として魂に刻印を受けることになります。
私たちは地球の運命共同体の乗員(CREW)として「今」を伝えようと呼びかけます。

私たちが乗っているのは、遥か未来を目指す銀河鉄道かも、沈没を運命づけられたタイタニックかも、予想もつかぬ場所へと私たちを連れていく異次元の乗り物かもしれない。

あなたもまた一人のCREWとして「今」を表現してくださいという思いを込めて―
 
       新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある…

       われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する…

       風とゆききし 雲からエネルギーをとれ…

       個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ

宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より

2022年4月「11年」

東日本大震災から11年になりました。
私の生き方に大きな影響を与えた二つの震災。神戸と東北。
1995年の阪神淡路大震災。そこから立ち上がろうとした「アート・エイド・神戸」。
そして2011年3月に発生した東日本大震災では「アーツエイド東北」の設立に関わりました。
振り返れば4月の初めからその後の1年半ほどひたすら被災地を巡礼のように歩きました。
そして6度目の東北入りをした私が「せんだいメディアテーク」で運命的に加川さんと出会ったのでした。
神戸の震災から立ち上がったものとして「この巨大絵画を神戸で」と思い詰めて伝えました。
そして会場探しに奔走しました。巨大ゆえに入る会場がなかなか見つからず、いよいよ諦めかけていたとき、KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)と出会いました。
奇蹟的に寸分たがわぬ寸法で加川広重の巨大絵画「雪に包まれる被災地」「南三陸の黄金」「フクシマ」がおさまり、「巨大絵画が繋ぐ東北と神戸プロジェクト」を開催できたのです。
私がひたすら被災地としての東北を歩いたことを踏まえて赤坂憲雄さん、髙村薫さん、加川広重さんと私との対談をしたのが、プロジェクト2年目の2014年。
その詳細を『こころざしの縁ー東北の復興、福島の復興と日本の明日』としてアート・サポート・センター神戸から刊行しました(2014年10月15日刊)。
3年目の2015年には福島の原子力発電所建屋を描いた「フクシマ」を迎え、最大規模でプロジェクトを開催しました。
その後、フランスのMortagne-au-Percheでは、テロの影響で規模縮小となりましたが、「11/3/11 FUKUSHIMA」として開催。記録誌(フランス版)も刊行され、大きな話題になりました。

黙然をりて

樹木とは   山崎佳代子

三本の手をお持ち

背中の三本目の手で

誰かと繋がっておいで

旧い東の歌を

母の国の言葉で

誰かがくちずさむ

思いをめぐらせば

あらゆるものは

結ばれている

目に見えぬ者が

男の土地に旅女を

つなぎとめたように

沙羅双樹の幹に

若枝が芽を吹いて

木の葉の手をひろげ

四月の光を浴び

人は樹木なのか

森とは人の輪なのか

背中に芽生えた

新しい手をひらく

まだ見ぬ人の手を求め

手とは

天からふりそそぐ

光のことにちがいない

詩集 黙然をりて 2022年3月10日 刊行 書肆 山田

東日本大震災から11年の日に山崎佳代子さんの詩集『黙然をりて』が届きました。
装幀は扉野良人さんです。
2019年10月には「ドナウの小さな流れ、小さな水から視る世界」と題し、山崎佳代子さん、季村敏夫さん、扉野良人さんにギャラリーでお話をしていただきました。
刊行を準備しているブックレット『パンデミックの時代に』に山崎さんのベオグラード(セルビア共和国)からの寄稿も掲載されます。

2022年3月「中島由夫との出会い、今」

1984年、海文堂ギャラリーを訪ねてこられた中島由夫・文子夫妻と出会った。以後、毎年のように個展を開催することになった。
88年には現代芸術運動コブラの流れを汲むヨルゲン・ナッシュとリス・ツヴィックを招待。
89年に中島さんは海文堂書店の東壁面に15m×4mの巨大壁画を描いた。
94年、厖大な資料を整理して、中島由夫の基礎文献となる「Yoshio Nakajima Document 1940 –  1994」(編集:佐野玉緒)を海文堂ギャラリーから出版した。

 95年の阪神淡路大震災の後、私は「アート・エイド・神戸」の活動に取り組むことになる。
”すべての地に新しい陽は昇る!”は、私たちを励まし続ける言葉だった。
その後刊行したアート・エイド・神戸の記録集の表紙には、北欧の太陽を描いた中島さんの
鮮やかな作品を使わせてもらった。 

「Yoshio Nakajima Document 1940 -1994」の中の山野英嗣さんの言葉——

抽象絵画の先駆者であるカンディンスキーやモンドリアンにしても、彼らの絵画空間においては、自然のイメージが放棄されて新たな人工世界が創造されているのではなく、そこでは、自然的なものと精神的なものとの融和が成し遂げられているのだと、私は思う。そして現代、絵画の領域はあらゆる意味で、その可能性が吟味し尽くされたような観を呈している。これは、高度に情報化された社会にあって、創造者自身でさえもが、余りにも人工的産物に触れ過ぎているからではないだろうか。

 だが、白夜のスウェーデンに野営し、そのダイナミックな自然をアトリエに、強烈な意志によって、色彩と形態との絵画の根源を形成する葛藤を追求し、絵画の可能性に挑戦し続けるひとりの日本人画家がいる。極寒の地に身を委ねながらも、あくまでも研ぎ澄まされた造形感覚の持ち主、それが現代抽象画家に地平を切り開く中島由夫氏である。
山野英嗣(兵庫県立近代美術館学芸員 ※当時)

そして中島由夫自身の言葉——
北国の冬は永く、暗くつらい毎日である。
森や林の中に咲く野花、この花さえも、地下まで凍る、冬の寒さに耐えて春を迎えるのである。
太陽を待ち、あこがれる大自然と人間。その姿は健気で私の心をとらえる。
北欧の天地が冬の支配から脱して、春、太陽をまつそのよろこびは、
いつも太陽のある国の人々とは全くちがう。
6月に入り白夜になる。
人々の表情は明るく、大人達も子供の様に外にとび出していく。
雪の残りがキラキラ光る。
太陽が大自然と人間に愛を与えてくれるのだ。
白夜。それは生命の炎が燃焼する時であろう。
私も、自分の求めている太陽と大自然の太陽とに出会う。
中島由夫                    

こうした中島由夫さんの出会いと今を、どうしても残しておきたいと考え、企画したのが今回の中島由夫展の大切な意味です。
中島さんは1940年生まれ、私は1942年生まれ。中島さんはいまでも、雪がちらついていても上半身裸で外で描いてるそうで、やわな私とは全く違います。
長い長い付き合いですが、今生、最後の二人の仕事だと私は思っています。

2022年2月「阪神淡路大震災から27年」

津高和一さんのこと

ギャラリーの用件でイギリス在住のフェルナンド・モンテスさんを訪ねた帰途。
ソウル経由で神戸の震災を知り、大阪空港で対岸の神戸が燃え盛るのを見た。
翌日、西宮から徒歩で神戸に向かった。その西宮で津高先生ご夫妻がお亡くなりになられたことは知る由もなかった。
前月の20日ころに奥さまからのお電話で津高邸にお伺いして作品を求めた。ご夫妻に促されてのことでした。
その作品が今回のDMに使われている作品「響」です。私が購入することを決めて、それからサイン・日付を入れられたと思います。
私にとってのこの作品は絶筆であり、遺言であるように受け止めています。
その後の作品の行方やお墓のことなど様々なことは吉田廣喜さんが導かれました。
そして、今回、様々な陶の作品、その小品、断片なども珍しいものです。
大作は親しくさせていただいてきた三木谷良一さんの奥様からお借りさせて頂きましたが、サンパウロビエンナーレの出品作や様々な来歴のあるもので、蘇るものがあり、目が離せなくなります。

 堀尾貞治さんのこと
ギャラリー地階、正面のパティオ上部の壁面にある作品が2005年の横浜トリエンナーレで、会期中に会場奥の壁に毎日赤白のストライプをスタッフが塗り続けてきたその作品の一部で、終了後、堀尾さんが持って来てくださり、今の場所に展示し続けているものです。
もう17年に及ぶのですね。
「あたりまえのこと」が尋常ならざるものとして「ある」ことを、豊富な資料とともにご覧ください。
こうして膨大な資料を拝見していて、気がつきましたが、どの写真も笑顔がいいですね。怖い、あるいは怒っている姿は一枚もありません。

東北大震災へ
神戸の大震災から、「アート・エイド・神戸」が誕生し、被災地から生まれた芸術を大規模に東京で、そして福岡で発表しました。
そして2011年の東日本大震災。財団法人「神戸文化支援基金」に倣って「アーツエイド東北」を立ち上げた。
2012年1月、加川広重が巨大絵画「雪に包まれる被災地」を仙台メディアテークで発表。神戸での3回に及ぶ巨大絵画プロジェクトにつながった。
その後、縮小した規模になりましたがフランスのモルターニュ・オ・ペルシュで山田晃稔さん・迪子さんご夫妻が中心となり「11 / 3 / 11  FUKUSHIMA」を開催、加川広重の巨大絵画のレプリカも展示され大きな話題となりました。

2021年12月蝙蝠日記「二つの本」

二つの関わりのある大部の本が準備されている。

一つは南輝子(歌人・詩人・画家)さんによる、『神戸バンビ耽溺者(ジャンキー)』。

神戸にあった巨大スピーカで聴かせる、伝説のジャズ喫茶「バンビ」。そこを拠点とする人間模様は、私の合唱やクラシックと重なることはないが、しかしひりひりと接しあう人間模様はジャンルを超えて心を殴打する。

父がジャカルタで虐殺されたこと、そのことが沖縄で丸木位里、丸木俊「沖縄戦の図」を核とする佐喜眞美術館と、韓国にルーツがある松村光秀とを深く繋げた。そして板橋文夫が「ロイクラトーン」を弾き、南輝子も松村も聴いた。2007年1月のここでのライブを南輝子は歌集「沖縄耽溺者(うちなージャンキー)」(ながらみ書房、2010年刊)で書いている。

Roy-cwratone わが魂をゆさぶつて清めつくすよ蕊の蕊まで

1999年(震災4年)、岩岡でのコンサート「祈りのライブ」に通った、それからの南の歩みはとてつもない。

後の一つは
『海の本屋のはなし   海文堂書店の記憶と記録』は平野義昌さんが執筆。2015年に苦楽堂から刊行されました。

今回は『海という名の本屋が消えた』という名で「みなと元町タウンニュース」に長期連載(11月1日発行の第351号で96回目)しているものを刊行することを平野さんに奨めています。

これは消えた海文堂とはほとんど関係なく元町地域の詳細細部の歴史発掘と言ってもいい基本文献です。

草地賢一さんのこと
「自分のコミュニティーのなかに、市民参画型、市民提案型の草の根民主主義を拡大してほしい。そのためにはボランティアが、チャリティー(慈善)にとどまることなく、ジャスティス(公正)の実現のためになって欲しい。」

ー『阪神大震災と国際ボランティア論―草地賢一の歩んだ道』に、私が“神戸宣言に生きようとした戦士”として草地さんを書いたなかから。

岩波新書の『神戸発 阪神大震災以後』(1996)に草地さんが「市民とボランティア」を書き、私が「神戸に文化を」を書いた。それが『ひとびとの精神史』へと繋がったのでした。

1995年1月17日、草地さんは自宅で震災に遭遇。19日に「阪神大震災地元NGO救援連絡会議」を設立。その拠点は当時の私の海文堂書店に近く、活動を身近に共にしました。

そして震災から半年がたち、県の呼びかけに呼応し、さまざまな分野の専門家12名で構成する被災者復興支援会議が発足した。草地さんは震災前からのNGOあるいはボランティア関係の役割として参加し、私もなぜか選ばれてそこにいた。文化という視点だったのだろう。貝原俊民知事(2014年不慮の交通事故でなくなる)のもと、この会議を通じ「官から頼まれてもやらない」「官から頼まれなくてもやる」というボランティアの思想が創りあげられていった。支援会議の全体会議は78回。移動いどばた会議は143回、フォーラムは61回。1998年3月までの凄まじい活動を草地さんと共にした。

「語り出す 学ぶ つながる つくる 決める」ーその後の「被災者生活再建支援法」などに繋がっていく、この流れのなかに現在の多彩な人材、担い手が育っている。

1999年12月29日。震災とNGOの「防災」国際フォーラムの打合せの最中に体調を崩し入院。1月2日、心肺停止、マラリアによる敗血症。享年68才。

2021年11月「設立 1992 から 今 2021 これから 未来へ」

1990年5月28日 40才の若さで亡くなった、一人の神戸市民・亀井純子さんの思いがきっかけとなり神戸文化支援基金は生まれました。

設立1992年7月23日 「公益信託 亀井純子文化基金」の誕生

当時、財団をつくるには基本財産が最低でも1億と言われました。

後々、最後までお世話になった新野幸次郎さん(神戸都市問題研究所長・元神戸大学学長)の助言と仲介の尽力で誕生しました。

例がないと門前払いの県行政に対し、メセナ時代といわれる現代の新しい地平を拓く事例として認めるようにという助言でした。

今後も年間百万円以上の助成を行うことを条件に許可がおりたのが1992年7月23日でした。1300万からの旅立ちでした。

足跡 亀井純子さんの名を冠した基金から卒業し、一般財団法人としました。
2009年10月15日「一般財団法人 神戸文化支援基金」
2011年4月1日 公益財団法人神戸文化支援基金として認定されました。
さらに、活動の幅を広げました。
東日本大震災への支援、「アーツエイド東北」の設立に関わる。
この後 公益財団法人神戸文化支援基金の中に1千万円以上の寄付を戴いた方には「冠名基金」としました。

「島田誠・悦子基金」   2011年
「河本昭男・やよい基金」 2016年
「島田誠・志水克子基金」 2018年

名を冠していますが、財団としての資金使途はすべて運営委員による審議に則り助成されます。

今までの受取寄付金​​​156,416,453円
助成実績​​​​  75,035,058円

2020年 コロナ禍による緊急支援助成  900万円。県下6地区に分かれ53件を助成。
今、リアルに起こっていること
2021年の助成実績はは26件 680万円でした。
助成対象の倍ほどの申請を丁寧に審査し、決定したものをHPでご覧いただけます。

活動内容の整理
1 申請を受けて活動助成
2 KOBE  ART  AWARD
3 特別プロジェクト助成
4 緊急支援助成

時代的な状況に応じて今後の対応を考えていきます。

亀井純子さんの名を記した時代の19年、公益財団法人神戸文化支援基金として認定されてから10年になります。

それにしても脈々と流れる亀井純子さんのスピリットに今更ながら驚きます。

未来へ   こぶし基金のめざす歩み
2020の緊急助成の翌年に「こども未来プロジェクト」に取り組もうとしました。今は国を挙げ、地域を挙げ「こども」に眼差しが行っている感じがします。では、私たちがなすべきことは何なのかをゆっくりと考えたいと思います。そのためにもこぶし基金のあり方そのものも変えていきたいと考えています。

こぶし基金の助成活動は従前の助成事業とKOBE ART AWARDを合わせて年間300万で推移してまいりました。

しかしコロナ禍に見舞われた昨年は上記のとおり680万の助成を行いました。

こぶし基金の誕生から成長の足取りに至るまで亀井純子さん、そして亀井健さんの精神を受け継ぐものとして島田誠が理事長を務め、多くの評議員・理事・事務局の皆さんと歩みました。すべての皆さんに感謝の言葉しかありません。

こんなことまであけすけに書くのかと思いますが、財団のHPのTOPに書かれています。

2021年11月末現在 基金残高 74,564,553円

へえ、そんなに!と驚く私ですが、そのすべてが、いはば無名のご寄付によるものであることに、身が引き締まる思いなのです。

2022年は新しい体制で、新しい取り組みを・・・・

長い歴史をもち、相当の基本財産をもちながら「こぶし基金」には固定的な事務所費、人件費が不要であり柔軟に対応してきました。

しかし、2022年には新しい理事もお迎えして、こぶし基金も生き生きとした兵庫・神戸の文化的未来図を書く主体となりたいと願っています。

2021年10月「加藤陽子さんとの出会いと今」

中井久夫『樹をみつめて』(みすず書房・2006年)は「神戸は生きる喜びのためにある街だ。詩人と画家が多い」そしてまた「戦争の切れ端を知るものとしてその”観察”と題して提出せざるにおれないきもちで」書かれたとある。

本書の書評をその年の10月29日の神戸新聞文化面「ひょうご選書」に私が書いた。そして、その中の『戦争と平和  ある観察』を、戦後70年、神戸の震災から20年の年、2015年8月に人文書院から刊行され、加藤陽子さんは聞き手として【対談】「中井家に流れる遺伝子」で中井家の戦争体験を聞き出しました。私は最後に中井先生との対談「大震災・きのう・今日ー助け合いの記憶は『含み資産』」に出ています。

退陣した菅首相による「日本学術会議の会員候補6名の任命拒否」でただ一人名を挙げたのが加藤陽子さんでした。その首相が1年で座を去りました。
私は上述の通り加藤さんと縁があって、存じ上げ、中井久夫さんの『戦争と平和  ある観察』に加藤さんと共に拙文を載せていただきました。
その後、私は加藤陽子さんの著作『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)ー小林秀雄賞受賞ーも読みましたが、その加藤さんの名を上げて任命拒否。政権が個人を「弾圧」する。菅退陣の社説でもこの件を指摘していましたが安部から続く政治の退廃は私たちの責任でもあります。

その後、加藤さんの書かれたものを読みふけっています。

『太平洋戦争への道  1931-1941』(半藤一利・加藤陽子・保坂正康、NHK出版新書)。そして『この国のかたちを見つめ直す』(毎日新聞出版)。

『この国のかたちを見つめ直す』の冒頭に「危機の時代には、国家と国民の関係を国民の側から問い返して、見つめ直すことが必須となろう」とある。
そして学術会議の任命拒否問題についてたずねるインタビューに「私は、この国民世論のまっとうさに、信を置きたい」と答えておられる。
縁をいただいた私も、「この国のかたちを見つめ直す」者として信を返したいと思います。

新聞が退陣を報じるなかで政権発足直後の日本学術会議会員候補6人の任命拒否のことにも触れられています。このこと一つで菅氏には首相の資格は無かったのでした。今回の退陣は、当然であり必然ですが、世界を覆うパンデミック以前に自壊を続ける日本を立て直すのは政治ではなく地域に基盤をもつNGO、NPOや市民力なのでしょう。

『戦争と平和  ある観察』(人文書院)はすでに版元では絶版なのですがギャラリー島田では残部僅少でお求めいただけます(¥2,300+税)。

地下会場で、中井久夫『関与と観察』(みすず書房)や加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』などの書籍を資料としてご覧いただけます。

 

髙村薫『作家は時代の神経である   コロナ禍のクロニクル 2020→2021』

髙村さんの『春子情歌』『冷血』『新リア王』『空海』『太陽』などを読みふけってきました。ギャラリーの作家を共に尋ねたりお見えいただいたりの日々が懐かしく本書もすぐに求めました。
「ご飯論法」のように日常的にほとんど質疑の体をなしていない昨今の国会の問答は、もはや日本語の解体というべき事態である。度重なる公文書の改ざんや議事録の破棄。いまやこの国は記録や文書の意味を解さない未開国であり、多くの場面でいちいち国民に嘘をつく手間すらかけなくなった烏合の衆が政治ごっこをしているのだと言ってよい。そんな末法の世に、私たちは汗水たらして生きている。(P.68)

学術会議、任命拒否の暴挙「説明しない」というファシズム。日本学術会議が推薦した新会員105名のうち6名が除外され、その理由は「説明しない」というファシズム。
独善と無責任の「日本病」、個々の責任を問わない社会の甘さが非効率のはびこる独善を生み、独善が無責任な楽観を生むのである。
髙村薫さんには、「加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸」で「東北の復興、福島の復興と日本の明日」にお招きをして赤坂憲雄さんと対談していただき、私が進行させていただいた(2014年1月12日)。その後もご縁をいただき、関心をいただいた山内雅夫さんのアトリエを共に尋ねたりしたことも懐かしい。

2021年7月蝙蝠日記 寄稿「パンデミックの時代に」

2020年4月から画廊通信で、世界を震撼させている「コロナ禍」の現在を特集してきました。私達がギャラリーや財団、サロンなどで繋がっている皆さんが、世界中でこの未曾有の時をどのように過ごし、どのように考えているのかを伝えていただくものです。
今号までで28回。まだ続き、最終的に冊子として纏める予定です。
お願いした皆さんと、その内容、地域は下記のようになります。

1 森孝一     (公財)神戸文化支援基金
2 藤野一夫    神戸大学      ドイツ
3 きたむらさとし   絵本作家      英国
4 武谷なおみ   イタリア文学​ イタリア
5 松谷武判    美術家       フランス
6 服部孝司    (公財)神戸市民文化振興財団
7 ひがのぼる   子ども国際交流
8 松田素子    編集者    宮沢賢治
9 山崎佳代子   詩人     セルビア
10 後藤正治    ノンフィクション作家
11 松塚イェンセン哲子 美術家  デンマーク
12 名倉誠人    マリンバ奏者 アメリカ
13 弓張美季       ピアニスト   オーストリア、ドイツ
14 辰巳リリアナ             ブルガリア
15 長谷川さおり   美術家    ドイツ
16 塩見正道    映画     堀田善衞
17 石橋毅史    文筆業    香港、台湾、韓国
18 森井宏青    美術家    フィンランド
19 フランティシェック・ノボトニー ヴァイオリニスト チェコ
20 マウロ・イウラート ヴァイオリニスト  ヨーロッパ
21 セキヤマキ   ピアニスト    英国
22 島田剛     国際協力   アフリカ
23 山田晃稔    美術家    フランス・ペルシュ地方
24 片山ふえ    著述家    ロシア
25 松谷武判    美術家    フランス
26 中川真     国際協力   ミャンマー
27 伊良子序      ジャーナリスト   イタリア
28 斉藤祝子    美術家    カナダ

最終的には30名になると思います。

今号で斉藤祝子さんが世界最長となったカナダ・トロントのロックダウンについて書いてくださっています。
法哲学者の井上達夫さんは、欧米のロックダウンに比して、危機の実相を直視していないと、日本の状況について述べています。同調圧力による社会的制裁でいいのか、と。

鞆の浦のこと
万葉歌人、大伴旅人が妻をしのんだ歌が残る広島県福山市 鞆の浦(とものうら)で、県道建設に伴う港湾の埋め立てを広島地裁が差し止めたのは2009年のこと。判決は鞆の浦の景観を「文化的・歴史的価値をもつ国民的財産」としました。
その鞆の浦を描いた高野卯港さんの「鞆の浦風景」が森栗茂一さん(大阪大学名誉教授)の努力で「鞆の浦歴史民俗資料館」に収蔵されたのは素晴らしいことでした。
これは、卯港さんの亡くなった翌年2009年にギャラリー島田で開催した「高野卯港追悼展」でも展示していた作品です。
卯港さんは奥さんの京子さんと鞆の浦を訪れ、その風景を描きはじめました。
「鞆の浦風景」が完成したのは卯港さんが亡くなる1か月前でした。

あぶり出しのように…
2年前に転倒し、一時気を失って救急車で搬送された。その後、記憶に問題が起こり、再検査。
文字が書けない、図形が描けない…。
この年齢に達して、この日々はとても辛い。説明しても分かってもらえない。
脳の老化は仕方がない、これからは「老い」を生きてくださいと医師が伝えた。
孫の迪ちゃんとひらがな練習を一緒にしたり、そんな日々がしばらく続いた。
去年の誕生日には『声の記憶 「蝙蝠日記」2000-2020 クロニクル』を出版した。私のその状態を案じた「風来舎」の伊原さんが纏めてくれた。
私のその時の状態は「読む」「選ぶ」が出来なくて、すべてお任せでした。
ギャラリーの仕事も財団の細部にわたる仕事も、ほぼ任せるようにしてきた。
大体のことは委譲しながら、自分の残りの日々を数えている。
それがこのごろは摩訶不思議なことに、記憶や文字が日々の営みのなかで「あぶり出し」のように蘇ってきた感じがあります。不思議です。何の欲もない日々だからでしょうか。
私は、人とのやり取りはメールや電話ではなく、ハガキか手紙なのです。それが10日ほど前から、まあ整った字でほぼ間違いもなくかなり長い文章が書けて、自分でびっくりしています。

2021年6月「記憶を積み重ねて―メモリアルブックの歩み―」

フランス・ニースのギャラリーFEREEROでCÉSARとARMANを求めた。

立派な画集に2人がそれぞれMakoto Shimada と私の名を記し、作品の色彩素描を添えて送って下さったのがメモリアルブックの果てしない旅の始まりでした。
そして、阪神大震災。その元町駅前に復興支援館が出来た時にしっかりと骨格のある CÉSAR作品が破壊と再生の象徴として巨大な存在感を放っていました。その後、兵庫県立美術館が誕生した時、南へのエントランスに震災の象徴のように座していた CÉSAR は今も座していますが、その震災からの象徴は、重量級の破壊の象徴はどこまで知られているのでしょうか。
セザールが阪神大震災のあと、安藤忠雄さんの求めに応じて送った大作彫刻「エッフェル塔へのオマージュ」。これが元町の復興支援館フェニックスプラザの前に置かれていて、のちに兵庫県立美術館のエントランスに、今でもある。 「エッフェル塔へのオマージュ」であることは私も忘れていた。私の「忙中旅あり」の「駄々っ子アルマン」P86 にあった。
(皆さまへ  「忙中旅あり」はご希望の方に無料で贈呈させていただきます。ギャラリーにお立ち寄りの際にお声がけください。)
今、私のデスク脇にある皮装のメモリアルブックの中の、フランスからイタリアからアメリカからスペインからイギリスからフィンランドから集まった作品たち。ざっと18冊でしょうか。最初のころの作家を抜き書きしてみます。

ヨルゲン・ナッシュ Yorgen Nash(スウェーデン) ―――1988

中島由夫(スウェーデン) 嶋本昭三 石井一男

フェルナンド・モンテス Ferando Montes (チリ) アルマン Arman (ニース)

セザール César (ニース)    西村功 村上三郎 元永定正 白髪一雄 灰谷健次郎  ―――1992

トミー・ワイディング Tommy Widing (ジャマイカ)   栗山茂 (ニース)

グラハム・クラーク Graham Clarke  (イギリス)

井上よう子  木下晋  ―――1993

黄鋭  津高和一  西村宣造  荒木高子

ノエル・コープランド Noel Copeland (ジャマイカ)  ―――1994

筒井伸輔  *筒井康隆さんご子息  ―――1997

松田百合子 ―――1998

ジョセフ・ラブ Joseph Love ―――1999

ヘールト・ファン・ファステンハウト Geert van Fastenhout (オランダ)

吉増剛造、マリリア・コロー Marilya Corlot ―――2000

まさに「メモリアル」で、いまや故人となった作家、外国の作家などが並んでいます。
18冊。点数にして800から900点ほどはあるでしょう。
なぜこんなにたくさんの作品が描かれてあるのでしょうか。
それは1980年頃から積みあがった海文堂ギャラリーからギャラリー島田への、この2021年へと至る40年の歩みの証言そのものなのです。
この作品たちはギャラリーとして販売を目的とはせず、したこともありません。
だからこそ、丁寧な革装として残り続け、それぞれの作家は他の作品を目にし、その世界を知り、また自らの世界をメモリアルとして残すのでしょう。
そう、メモリアルは記念碑ですから。どのページも自らの、そしてギャラリー島田の多くの作家たちとの・・・・
物を書く人は書いたものを残す。描く人は描いたもの、すなわち作品を残す。それをメモリアルとして残す。何百人という画家が刻印するのです。
かつてこのメモリアルブックをスライドショーで3回ほど上映を試みましたが、毎回3時間ほどかけても見切ることはできませんでした。
1980年と言えば、今を生きる作家たちは、絵を描くことすらまだなかったかもしれませんし、ここに名のある作家すら知っているかどうか。彼らもそこに自らの作品を残すことになります。
そして、それぞれの作家がこれからの時代に残す足跡を楽しみにしているのです。
私にとっては新しい旅路を知ることはないかもしれません。しかし、今、新しい旅路にあるスタッフ、あるは作家たちにとって、これらは、どこにもない、かけがえのないメモリアルなのです。

2021年5月「伊津野雄二さんと共に 」

聞いたこともなきパンデミックのうちに夏から秋へ、穏やかに冬を迎え、そして春がきた
私達をそして知る多くの人の命を抱き込むように
生死の水際に誰もがあり 私も共にある

私の脳は今あることが不思議である
心の彫像 安らぎの韻律 永くあることの恩寵

瀬戸内の日々 そこで生まれ 泳いだ日々
70過ぎた日々に今も ゆったり明けて行く
それを眺める 大阪 和歌山 淡路 徳島 愛媛 香川 美しすぎる多島美

そして知多の日々 伊勢湾 知多湾 三河湾を経て太平洋へと通じる

久しぶりにギャラリーB1Fでの伊津野雄二展
そして1Fではコレクションによる伊津野雄二展
こうして全体を見渡せば大作、小品。テラコッタ、組作品、水彩、デッサンなど実に多彩で見惚れてしまいました。
ギャラリストとしても気持ちよく展示構成が出来ていました。
画集「光の井戸」も数少なくなりました。
とともに、こんな時こそ、今、ここに、ここでこそ心の彫像、安らぎの韻律とともに・・・  どうぞ・・・ おすごしください。

ポンピドゥーセンター 

前号の「パンデミックの時代に25」はフランスから松谷武判さんの「Covid-19に遭遇して」でした。
そこでこの ポンピドゥーセンターについて「1977年ピアノとロジャースが設計し建築した、裸のまま機能設備がオブジェ風に露出する前衛的建築の実験的総合芸術センター」と紹介されていました。私は大好きで数限りなく行きました。
私のポンピドゥーセンターへの偏愛については、2000年に出版した『忙中旅あり 蝙蝠流文化随想』の一章「我が愛しの王国」で語っています。
そういえば、ギャラリー島田では個展をされる作家は全員、革装のMemorial Bookに自画を必ず描いて頂いています。
今は何枚になるのでしょうか?
昔はこの ポンピドゥーのお洒落なshopで買ってきました。最初のころの5,6冊はここのものでご覧いただけますが、その後各地の革装画集を画家の皆さんにもお願いしたもので、私たちはこれをMemorial Bookと呼んでいます。
松谷さんによれば、この ポンピドゥーが補修改築を余儀なくされ、2023年末から3年間、閉館をするそうです。

画家の皆さんによるメモリアルブック

さてそのMemorial Bookですが、ギャラリーで展覧会をされる作家にそこに絵を描いていただくことを始めたのは1992年1月28日のことです。
1992年は今に連なる多くの作家と出会い、公益信託「亀井純子文化基金」(現在の公益財団法人「神戸文化支援基金」)が誕生した年でもあります。
そして1995年の阪神淡路大震災が私たちの航路を定めました。
これらの本は私が海外へ行く都度に求めたもので装丁もサイズもまちまちですが、美術をめぐる旅の思い出に繋がっていて今では14冊目となりました。即興的であったり、本音や、別の面がでていたり、とても興味深いものです。これも本にまとめる計画があります。

『詩の好きなコウモリの話』

ランダル・ジャレル 作、モーリス・センダック 絵、長田弘 訳。
この頃ではコウモリの姿が見えなくなったのは、人間の暮らしのなかに自然がうしなわれるようになってからです。人間だけの世界ではない。動物も植物もいっしょに住んでいるのだ。そのことを忘れていると、いつか春がきても鳥たちがうたわなくなる世界がくる。そう警告したのは、有名な「沈黙の春」を書いたレイチェル・カーソンでした。
これは「沈黙の春」を望まない小さなコウモリの話です。

『天の劇場から』

「いのち一つ消えるということは、一人の死にとどまることを意味しません。死者を忘れかけている人々の心の傷は、時と共に癒えるかに見えながら、また新しい傷口となって血を流しつづけ、一人の死は縁ある多くの人々の心に突き刺さった鋭い鏃ともなるのです。」(澤地久枝『いのちの重さ』)