2022年7月「私が子供だったころ 」

1942年生まれ。
終戦まぢか、神戸も大空襲を受けた。
新潟の親戚の家に疎開していた写真が残る。
父は三菱重工神戸の勤労畑で、戻ってからも転々とし、そのあと潮見台の社宅に。といっても立派な洋館に2世帯が上下に住み分けて。
そこから、須磨浦幼稚園と母が始めていた幼児生活団(週に一日)と両方に行ってたらしい。
幼稚園のお絵描きで、白い画用紙をだして「雪のなかのウサギ」と言ったという話が伝わる。
西須磨小学校へ進学。
離宮道を米軍の車両が上がっていった。
一年生のとき「こくご」の教科書が足りなく「さくらがさいた どこまでさいた」と父が墨と筆で書いた。
小学校では、1,2年のときの担任が軍隊上がりだったりした。
帰りにみんながバラバラと遊びに出て、今のギャラリー&喫茶 あいうゑむ のあたりの店に行っていた朧の記憶がある。
この年頃の子供はみんな同じだと思う。
夏は潮見台の家から急坂を駆け下りて泳ぎに明け暮れ、真っ黒で「インドのカラス」と言われた。
今の、鳩山由紀夫夫人の、みゆきさんはその頃の近所の遊び仲間で、宝塚少女歌劇へ。
その後、私が「アートエイド神戸in東京」で上京した時に再会。鳩山邸に招かれたりした。
最近も「こぶし基金」に志縁を頂いたりしたのも幼馴染ゆえだ。
私はその後、神戸大學附属明石中学から神戸高校へ、その後の合唱人生で、様々な得難い体験をした。
メンバーとしても指揮者としても多くの受賞を重ねた。
そして神戸高校合唱部が1ヶ月間にわたるアメリカ西海岸のホームステーでの旅に同行したのが前半生の卒業だったかもしれない。


特別企画展 CREWS
私たちは「画廊通信」で2年にわたり世界中の皆様からご寄稿いただいた「パンデミックの時代に」というコラムの連載を終えました。
その緊張感を抱えながら今回は、パンデミックや戦争で分断されている地球全体の、私たちは乗組員CREWであるとの呼びかけの応えて、多くの方が、それぞれの思いを込めて参加されています(会期は6月21日まで)。
なにより、ここに集ってくださったみなさまの思いがうれしく、昨日も、今日も、明日も、私は、このCRUISEを楽しんでいます

2022年6月蝙蝠日記 「30年」

1990年5月28日 40才という若さで世をさった亀井純子さんから託された思いから、この基金は誕生しました。
1992年7月23日。公益信託「亀井純子文化基金」が認可。30年前でした。
そして一般財団法人設立。
その後、公益信託「亀井純子文化基金」を吸収。
2011年3月11日 東日本大震災で 「アーツエイド東北」の設立に関わる。
2011年4月1日 公益財団法人「神戸文化支援基金」として認可を受ける。
       
その後、基金内に冠名基金として、

          「西川千鶴子基金] 2010年9月 (1000万)
          「島田誠・悦子基金」 2011年6月 (1000万)
          「川本昭男・やよい基金」2016年5月 (1000万)
          「島田誠・志水克子基金」2018年5月 (6000万)

志縁

公益財団法人と名がありますが、兵庫県下の芸術文化支援を市民メセナで支援し続けてきました。
これを私たちは 「芸術を支える援ける」ではなく、「志の縁をつなぐ」すなわち「志縁」と呼んでいます。

緊急支援

コロナ禍に見舞われた2020年は、あらゆる芸術文化活動が休止に追い込まれた。     
県下の6つの地域を役員全員で分担し、三段階で緊急支援助成(総額930万円)を行いました。
2021年もコロナ支援の意味も込め、1件あたりの限度額を20万から50万円とし、
総額680万円 26件に助成しました。

              近年の通常助成の変遷は、    2018年  15件  315万
                2019年  17件  395万
                2020年  16件  300万
                2021年  26件  680万
                2022年  27件  500万

そして基金の誕生から今年2022年、30年の節目を迎えることができました。

2022年1月蝙蝠日記 津高和一

母子像   1951  曲りくねった続柄は母子列伝。系譜の糸を持った手が鮮やかに染まり、母子は今日という日に私語する。

埋葬       1952  遍歴の跡も残さない不在証明。前後左右。それに頭上に脚下。この風景の中で僕はいつか紙ヒコーキを飛ばした。きょう風信は、樹木たちの口伝のざわめきを聞く、ぼくの耳のことだった。

作品       1953  痕跡だけの町で、漂泊粉を持った男がいた。青い空にそれを撒くつもりなのだろうか。

転移       1956  抜けた天に、立てかけた梯子があった。

作品       1956  空白に座っていた。呼吸をととのえようとしているのである。

シュク   1957  この鉄道は不毛の未開地にまで伸びていた。

連          1957  音というものは外側ばかりから聞えてくるものではなかった。内側からも響いてくるのである。

雷神       1958  むかしこの国にはいろいろの神がいた。恐ろしくて手のとどかないものは全部神だった。

いまも口ごもる神が僕のそばにいた。

血縁       1959  ここの住民たちは奇妙な風土病にかかっていた。だれもが煎じ薬を沸かしていた。

とつ       1960  ぬっと立ているやつ。よく喋るやつもいた。ときにつんざくような声で喋るやつもいた。

無名への挑戦      1960  むろん、その逆だってあるのだ。

いのち   1960  果実の汁のようなものだった。

寂          1961  風説は、パラボラアンテナにかからない。耳から耳に伝染した。

吃線       1961  渡り鳥は千里眼のようだった。はるかに遠い風景を映すのである。

塊          1961    僕は自家製の暗号帖を持っている。髪の毛のように細長い記号や、掌のように平べったい符号。

それに焙り出さないと出ない文字もあった。

作品       1962  かれの航海術心得のなかには記載漏れがしばしばあった。

作品       1962  山を下りた呪術師は決まって陽あたりの悪いところに住んだ。

作品       1963  祭日はわが博物誌。蕾の向日性に揺れる。

作品       1964  気象台の降雨量測定にときおり誤りがあった。気まぐれな僕の旅行日程表にも赤鉛筆の注意書きがある。

兆          1965  辺境では戦火が広がり、宇宙衛星は威嚇銃のような大きな音をたてなかった。

漠          1965  コンピュータ占いはよく当るという男が、おんなに話していた。

MAN      1970  その男は舌を出した。喋ることを忘れているのである。

時間       1971  化石になった魚は、一億年目の僕の掌の平で凝固していた。洗剤の白い泡が奇妙なかたちにふくれる。

伝説       1971  木目は落差を測り、移住した人々は転居不明だった。

「津高和一は水と空気の捕捉者だ。……広漠たる空間になじんでいく絵画。造形意志、造形意識よりも、たとえば味覚や聴覚や予感によって、導かれ、方位を定められている絵画。見えるものよりは見えないものを、一層強く感じさせる絵画。」

大岡信の言葉

以上「山村コレクションによる  津高和一  作品の流れ 展」(1971年)図録より

 

堀尾貞治

存在には理由はない。

収入と収支はまったく無関係である。

存在には理由はない。

存在には次元の異なるものが入りまじっている。

存在には理由はない。

言葉は物の表面をなでまわすに過ぎない。

存在には理由はない。

人が生き、物がそこに在ることは奇怪である。

存在には理由はない。

絵画はいろいろな次元に存在する。

存在には理由はない。

傑作は理由を問うことを断念させ、鮮やかに存在する。

存在には理由はない。

重要なのは理由のないことである。

                  村上三郎 1963

『あたりまえのこと 堀尾貞治 90年代の記録』 山本淳夫学芸員の文章より

表札としての「無窮工房」。「色塗り場」「一分打法」「あたりまえのこと」も、ひたすら反復することで「あたりまえでなくなる」

「あたりまえのこと 今

ことさら作品をつくることをせずに「今」という時間で僕にかかわることをだしてみようと考えていたので ぎりぎりになるまで 作品らしいものが出てこない状態で阿吽響というスペースにかかわらしてもらった。 床のスペースが美しいので それをそのままでもよいのですが ちょっとだけごまかしを入れてかかわりをもった

壁面の作品は今まで作っていたもので 手元にあるものを考えることなく置いたという感じであります。

とても無責任な個展という感じです。」(略)

                             18.APR 1994 朝

                                 堀尾貞治

この文は、活字になったことのない文章の部分です。記録集に写真で写り込んでいる自筆文章の前半です。

2021年9月「後藤正治さんのこと」

後藤正治さんの自選エッセイ集、“40年目のケルン”たる『拠るべなき時代に』。

ノンフィクションを書きはじめて40年になる後藤さんの近年の時評・人物論・作家論・書評・エッセイが収められています。

 Ⅰ 時評もどきの Ⅱ 人々の足音 Ⅲ 作家達 Ⅳ 書を評す Ⅴ プロムナード

「すべては往時茫々であるが、それでもいま一歩、足を前に運びたく思う」という後藤さんの言葉。

最後は「それなりに生きたよ」とある。

「過去はただ過ぎに過ぎる」。これは後藤さんが名著『天人』で描いたコラムニスト・深代惇郎の言葉。

後藤さんが40年を締めくくる自選エッセイ集に「拠るべなき時代に」とタイトルを表しておられることは、2年前に大病され死神が近くまで来たと書かれていることからも、全体を貫く強い意志が伝わります。

今、私が様々な脳の不調を抱えながらなんとかあるのは後藤さんに大きく支えていただいてきたことを思うのです。手元にあった『奇蹟の画家』を久しぶりに読み返しても、石井一男さんも私も、ここに書かれていることに恥じなく生きることを心の底で抱えて生きているのですね。

私の側から後藤正治さんとの出会いを思い出すと、その日突然かかってきた電話がはじまりでした。

神戸に関わることになり、後藤さんの周囲の人から、島田さんという人がいいと名が上がったらしいのです。

一度お会いしたいというお電話でした。後藤さんがどのような方と知らぬままお会いすることになりました。

訪ねてこられたのはソフトな紳士で、これが著書でと、文庫本を渡されました。たしか『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』だったと記憶します。

ポートアイランドに新設される大学「神戸夙川学院大学」の教授をされるという話でした。

神戸の人脈も何もしらないとのこと。

ネットで後藤さんを検索することもせず、なにかお役にたてればと思いました。そして乞われるままにまだ新設大学で生徒もまばらの大学で、いまは何を話したのか朧げですが、ギャラリーですからどんな作家を紹介しているかの話をして、すでに評判をとっていた石井一男さんのことも話したのです。まったく無名での出会いのこと、その作品が多くの人々の心を打ったことなど。

その物語が後藤さんの心をとらえた。そんな人がいるのかと。

後藤さんの『奇蹟の画家』は2009年12月に講談社創業百周年記念の書下ろし作品でした。

テレビの「情熱大陸」でも取り上げられ、知らぬ人なき人気作家、すなわち完売作家として続いてきたのは後藤さんのおかげです。今、読み返してみて石井一男さんのことはもちろん私の生まれからその後の生い立ちにいたるまで詳細に正確に書かれていて、私の人生に何一つ足すことも引くこともないです。現在「週間朝日」で集中連載されている「追想 漢たらん」に5ページにわたって書かれている「石井一男と島田誠」も(2021年7月30日号)。

とはいえ、私が後藤さんに心を寄せるのは、後藤さんの世界に魅せられたからで、多くの作品が刊行されるつど夢中になって読んできました。『清冽』『天人 深代淳郎と新聞の時代』『不屈者』『拗ね者たらん』などなど。

後藤さんの著書でひときわ深く傾倒したのは『天人  深代惇郎と新聞の時代』です。

「天に声あり、人をして語らしむ」人はそれを「天人」と呼ぶ。天声人語の書き手ですね。

我が家は朝日新聞とは深い縁があり叔父(島田巽)が論説副主幹、私の二人の従兄弟も朝日で働いていた。

そして「倚りかからず」に生きた詩人・茨木のり子の評伝『清冽』。後藤さんが茨木のり子について書くきっかけは「私が一番きれいだったとき」でさらにそれは写真家の石内都が撮影した広島で被爆して女性たちの遺品の写真に触発されたそうです。西宮大谷記念美術館でつい先日、その写真展を見ました。

    清冽の流れに根をひたす

    わたしは岸辺の一本の芹

    わたしは貧しく小さな詩編も

    いつか誰かの哀しみを少しは濯うこともあるだろうか   茨木のり子「古歌」より

『茨木のり子の家』(平凡社 2010年)は何度も見返してきました。なんといっても書棚の写真が興味ぶかく親しい神戸の詩人『安水稔和全詩集』がドンとあり、安水さんに伝えたら喜んでおられました。そしてお別れの挨拶の下書きがあり、なるほどと思いました。

今すべきでない五輪が無理やり開催されました。

『拠るべなき時代に』の一章「書を評す」に「五輪の書を読む」があります。東京五輪から失われたもの・・・肥大化、商業化、プロ化・・・大切なものを失ってきた。

その無残な形骸を目の当たりにする私たち。

1964年の東京オリンピックでの勝者モハメッド・アリとベラ・チャスラフスカはともに1942年生まれ、私と同年です。

後藤さんの2012年の自選エッセイ集のタイトルは『節義のために』でした。

チェコスロバキアの民主化運動に関わったベラ・チャスラフスカが不利益を承知で民主化運動に関わった。そのことを聞くと「節義のためにそれが正しいと信じた」と答えた、とある。

2021年3月「夜が明ける、夜は明ける」

2011年4月のこと

仙台入りし「アーツエイド東北」の設立に関わりました。6度目の東北入りの時に仙台メディアテークでの加川広重の「かさねがさねの思い」という展覧会にて震災後描かれた1作目「雪に包まれる被災地」という作品に出会う。すぐに加川さんに是非、神戸で紹介したいと伝えた。なんの実現への見通しもないままに。

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「加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸」展は、東北の文化復興を支援する市民活動をきっかけとして誕生した。東日本大震災は神戸の市民を再び目覚めさせ、市民からの寄付を東北の文化復興に直接活用できる仕組みを作ろうとした。

神戸での展覧会はどこで、という開催場所のあてがあるわけでもなく、でもやらねば、とだけ思いつめていたその時、出会ったのがKIITO(デザイン・クリエィティブセンター神戸)でした。その時は加川さんの巨大画のためにあるとしか思えませんでした。展示出来たことは本当に奇蹟的なことだったと思います。

2013年「雪に包まれる被災地」、2014年「南三陸の黄金」、2015年「フクシマ」が続いて開催され、巨大絵画の前でシンポジウム、コン サート、映画上映など多彩な関連プログラムも同時に展開されました。

2015年「フクシマ」展は、神戸の震災から20年に重なって、福島の復興を中心に東北の「今と明日へ」をテーマとした、開催となりました。この三つの記録誌は、未曾有の記録としてあります。

作品「フクシマ」について

福島第一原発の近くで人の気配のない街を歩き、津波の被害そのままの状態で雑草に覆われる車や船を見、生まれ育った故郷を追われた方の怒りをお聞きして、私の中に生まれた想いをこの絵にぶつけました。

加川広重

フクシマは今も収束していませんが、6年前にはさらに厳しい政治的課題もある中で、市の施設で市の協賛で開催するのですから、よくぞ実現したものです。

こうした困難の数々を神がかり的に突破してきたのは、加川広重の被災地、そしてそこに今なお暮らす人たちへの強い思いが伝わるから。そしてそれは今、世界が直面していることとも直に繋がっているからです。

2021年、今回は巨大絵画ではありませんが、ギャラリー島田の地下空間全体を使って加川広重展「3.11  夜が明けるまで」を開催いたします。作品とともに、資料展示も含めてみなさまと今を、明日を考える場にできればと思います。

2021年2月「中井久夫先生に教えられた大事なこと」

2015年1月、中井久夫『戦争と平和  ある観察』が人文書院から刊行された。
戦後70年、神戸の震災から20年。戦争を二度と起こさないために自身の戦争体験を語る、とある。
この中に災害を語る・災害対応の文化の章立てがあり、先生と私の対談がありました。

  『戦争と平和  ある観察』

I
戦争と個人史
私の戦争体験
【対談】 中井家に流れる遺伝子  ×加藤陽子

 II
災害を語る
災害対応の文化
【対談】大震災・きのう・きょう 助け合いの記憶は「含み遺産」×島田誠

 『戦争と平和  ある観察』は名著です。
そしてまた、皆さんにお伝えしたいのは 加藤陽子(歴史学者)のこと 。
今度の政府が、日本学術会議への6名の就任を拒否。菅首相がただ一人読んだことがあると名を挙げた方です。
加藤陽子さんは『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)という高校生に向けて書かれた著作で第9回小林秀雄賞を受賞。

    新春詠(朝日新聞)

    明かされぬ理由は誰もが考へる よおーく考へろよと睨まるるごと

    あのことを許したのがすべてのはじまりとわれら悔ゆべし遠からぬ日に

                         永田和宏「学術会議」

特集「パンデミックの時代に」 

人類の歴史の中で地域を超えた災厄に晒されたことは知識としては知っていても、私たち自身がただ中にあることを今現在、自覚的、主体的に生きているわけではない。日々の情報と場当たり的な対応ではなく、文明の結節点をどのように生きるのかを、世界への眼差しから受け止めたいと、今月号で21人の方から14か国についての寄稿をいただいています。9月頃には、累計で30名の世界各国の皆さんから寄せられた「声」とともに、今を生きる私達の在り方を考えるゲスト寄稿も収録したブックレットとして刊行いたします。

『声の記憶 「蝙蝠日記」2000-2020クロニクル』が生まれて 

人は生まれ 生き 病み 死す
その循環の中で 何事かを成す
今回の「声の記憶」はリランズゲートへ移ってからの記憶であり、その前史として元町時代がある。
海文堂書店増築 ポートピア 海文堂ギャラリー 阪神淡路大震災 兵庫アートウィーク IN  TOKYO 東日本大震災
加川広重巨大絵画プロジェクト 公益財団法人神戸文化支援基金へ…
これらの前史についてはそれぞれの詳細な記録誌を刊行している。

 そして 作家・作品通史
海文堂から今にいたる記録を残し続けています。

中井久夫    『戦争と平和  ある観察』        限定5冊 販売いたします。2300円+税

2020.12「混迷する世界での希望の灯り」

世界全体がパンデミックに晒され多くの命が失われている中、超大国アメリカのリーダーがこの2020年の11月7日に選ばれた。全米を挙げてリーダーを選ぶこの国の在り方を見るにつれ、合衆国の深い意味を学ぶ思いである。

副大統領のハリスさんの来歴と発言のなんと魅力的なことか。

「皆さんは票を投じて明確なメッセージを送った。希望、結束、品位、科学への信頼、そして真実を選んだ。最初の女性副大統領だが、最後にはならない」

ハリスさんはカリフォルニア州オークランドの出身である。この街はlocationとしても我が町 神戸と似ているうえに私にとっては忘れることの出来ない思い出と繫がっている。

神戸高校合唱部がシアトル、サンフランシスコの南海岸を縦断しハワイにいたる一か月間に及ぶ演奏旅行を行った。遥か昔のこと。

私はOB(当時大学1年)アシスタント指揮者として同行していた。次がサンフランシスコでのホームステーがオークランドでよく覚えている。

新大統領バイデン氏は78才とのこと。私もちょうど78才になった。

縁を感じさせる今回の米政権。お前ももう少し頑張れと励まされる思いだ。

私たちの希望はどこにあるか

さかのぼること17年、2003年の9月21日、加藤周一さんをお招きし「加藤周一講演と対話のつどい」を神戸朝日ホールで開催したのを思い出す。当時、加藤さんは84才だった。

加藤さんは言葉の力を信じ、言葉の力に賭け、美しい言葉を好み、美しい言葉で表した。

声高の大言壮語を嫌い、狂信的な物言いを拒んだ。

語るときはいつも声低く語った。

そして、人間の可能性を信じ、人間のつくりだしたことを敬し、人間がつくりだしたものを愛した。

権力に近づかず、弱者を理解しようとした。

それは一貫して変わらなかった。

2020年を振り返って

2020年は1月の木下晋展に始まりました。

長い長い木下さんとの交流の一つのゴールがこの危機の渦中であるという巡り合わせが象徴することに慄然とします。

1月 木下晋・25年目の1.17・トゥーンベリさんへの応答

2月 黒川伸輝・金子善明・永田耕衣・藤崎孝敏

3月4月5月は延期・中断

     上村亮太・桑畑佳主巳

6月 オンラインストア・緊急支援

7月 未来圏から!

8月 友定聖雄・鴨居玲

9月 大森翠・小谷泰子・松原政祐

10月 田鎖幹夫・沢村澄子・きたむらさとし・南輝子・藤飯千尋

11月 再び上村亮太・アートの架け橋・石井一男・須飼秀和

そして12月の締めくくりは井上よう子・林哲夫・戸田勝久です。

それにしても存続を危ぶまれる経営危機とコロナ危機を反転させつつある力は何処にあるのでしょうか。

個性的なスタッフ達がチームをなし、作家とともに、時代の転換期にあたり、何より、伝えるべきものに専心する潔さが伝わってくるのです。

2020年11月「水際を歩く」

人が人であること、あたりまえのことが当たり前ではない。

生きているだけでもありがたい。

1935年 東北大飢饉(母、セツルメントに携わること4年間)

私は1942年、戦中生まれ

阪神淡路大震災 1995年1月17日

東日本大震災 2011年3月11日

日本に生まれ、平穏に暮らしを重ねるだけでも生死の水際を歩いてきたことを知る。

そしてそれらの出来事に、なにがしかの関わりをもってきた。

いままたコロナ禍のうちにパンデミックの世界を生きる。

日本では今に至ってなお「経済と文化の回復」を主体に語られているが、それは「地域と経済」を巡る話であり、今こそ必要なのはそれを超えた人の在りようを考えることではないか。

私達は幸い、世界に繋がる皆様とのネットワークがあり、パンデミックに面しながらどのように感じ、どのように生きようとしているのかのエッセイを寄稿していただいています。現在は15名の方にいただいていますが、最終的には30名ほどの皆様からいただきブックレットとして刊行したいと願っています。

音楽との再会

南輝子展 ROY-CWRATONEⅡ 板橋文夫オープニング・コンサート 冒頭挨拶より-

 

「島田さん、10年ぶりやなぁ」と、板橋さんと強く抱き合いました。

コロナ禍、このパンデミックの時代に、いまここで板橋さんをお迎えして、南輝子さんの展覧会をできるということは、私にとって、実は特別な意味がありました。

震災から25年。

たくさんの展覧会に関わらせていただくなかで、南さんの導きで、岩岡へはもちろんのこと、沖縄に行ったりした。

リハーサルで板橋さんの音を聴きながら、以前松方ホールで、板橋さんが演奏された曲を、ずっと思い出していた。

海は広いな大きいな・・・という童謡。

板橋さんが弾くと、本当に、静かに、静かに、海の情景が浮かんできて、それが、だんだん、だんだん、荒れた海になって、その荒れた海が、また、静かにおさまってくる。

その感動的な曲が、ずっと、心の中によみがえってきた。

ずっと、思いが繰り返していた。耳の状態が悪く、音楽が実は聴けない。

けれども、ある日、気がついた。音楽というのは、外から聴こえてくるものを受け取る。だから、コンサートに行ったり、CDを聴いたりする。

でも、自分の心の中にある音楽というのは、そこから聴こえてくるわけではなくて、自分の心の中に感動として、残っている、ということなのですね。

私は、大好きな音楽を聴けなくなったことに対して、がっかりしていたわけですが、

音楽でも絵画でも、ある意味、『今見ている、あるいは、音で聴いている、ということよりも、感動として自分の心の中にしっかりと刻みこまれたものは、時を越えても、その感動を呼び出すことができる』ということを発見した。

それ以来、『この感動というもの、自分の心の中にあるものは、いつまでも、繰り返し呼び出すことができるということを知ることによって、身体的な状況でがっかりしたり、落ち込むことはないのだ』『今、目の前にある、出会いとか、色んなものについて、リアルに感動として自分の中に留めておく、ということが出来るんだ』ということを、発見したのです。

今日も、また新しい感動を自分の心の中に留めて、新しい出会いが生まれるのではないかな、と思っています。

2020年10月「出来る事、出来ない事」

パンデミックの今、私は78才を迎えようとしている。77才をゴールと公言してきた。

やり残したことは何もない、あとはすっと逝くことである。でもこれは思うほど簡単ではなさそうだ。

ギャラリー島田は、それなりの役割を果たしながら巡航するだろう。その40年におよぶ航海日誌が周遊の記録として開示されるのを待っている。それは決して豪華客船ではない。日常の往来の中で、白髪一雄、元永定正、津高和一、嶋本昭三など現代アートの巨匠たちのリラックスした姿が見えてくる。中島由夫、武内ヒロクニなどが暴れた海文堂ギャラリー時代を終えて、神戸・北野に3つのギャラリーがパンデミックで沈没かと思えば「現場の力」で新しい生き残る道を見出しているように感じる。生き抜く知恵は何処にあるのか。なにかが沸沸と起こるところ。それは何故起こるのか。今、振り返って思うこと。それは権威学識から自由であることかもしれない。世界中で模索されているパンデミック時代の生き方、極めて興味深い、時代を変えるキーワードが私の周りにはあるように思う。私も残り少ない日々に堀尾貞治さんの「あたりまえのこと」のように、何食わぬ顏で彼岸にいたい。

「書く」という行為

 

神戸ゆかりの美術館「無言館 遺された絵画からのメッセージ」へ足を運んだ。

窪島さんはかつてこう書いていた。「この歳になって、何となくわかってきたのは、「書く」という行為はどこにいるか知れぬ未知の相手にむかって手紙を書くということ。わたしにとってそれがだれかは今もわからないのだが、かつて瞼にえがき探しもとめた生父もその一人だったのだろう。」(窪島誠一郎『日暮れの記「信濃デッサン館」「無言館」拾遺』から)

私にとっての書く行為もどこかその気配を抱く。

会場で会った満身創痍の窪島さんが私に放った言葉は、どこか弱気の私を見抜き「島田君、何が何でも生き抜こう」だった。

その言葉は聖セバティアンの矢のごとく私を貫いた。

 

グリーンの頃、返しきれない思い出の日々

 

印象深い記憶があります。

「君はグリーンやな」

三木谷良一さんが言った言葉です。なぜか様々に長くおつきあいいただいた方なのです。

三木谷さんと、ある方と三人で席を共にすることになった。向かいに座っていたのが、柔道で名を馳せた猪熊と互角に戦った巨漢、当時の日銀神戸支店長。私はその方の振る舞いを許せないと激していた。その時、ぶん投げられて大怪我でもしたらと割って入ったのが三木谷先生。そこで呆れて放った言葉が 「君はグリーンやな」でした。ところが私はその意味が分からないできょとんとしている。「青二才め」。おかげでぶん投げられもせず笑いのなかでおさまったのでした。

古武士の風格のある三木谷先生は、そのころわたしが見境なく当時の神戸を覆っていた風土を変えたいと怒りをもって行動していたのをよく知っていました。

長く生きてきたなかで、多くの記憶から消えない皆さんがおられる。圧倒的に、一方的にお世話になった皆さんです。返し切れない思い出の日々が鮮明に蘇ります。熱きが故に事は起こり、その熱さゆえに事は成すのでしょうが、そのすれ違いざまの傷跡が今となれば、申し訳なく、振り返っても幻のように姿がみえず、謝る術も知れません。

私は一体、何に惹かれて爆走してきたのか。長く、自ら設定してきたゴールが今、見えてきたようです。

来し方行く末、思いは巡る

 

間もなく「蝙蝠日記クロニクル2000-2020」を刊行する準備に入っています。

シアターポシェットの館長で自死された佐本進さんのこと、座礁船の刊行を託した服部正さんのこと。もう30年も前のことなのに、今も鮮明に立ち上がってきて、私を捉えて離さない。それは何故だろうか。それは「生きる」という誰も逃れられないことを強く私に語り続けるからではないか。

不思議なことに、佐本さんのシアターポシェットの全記録も服部正さんの座礁船も私のクロニクルも、伊原秀夫(風来舎)さんの手によることとなりました。このことが暗示することは誠に興味深い。この冊子が、すべての人々が「静かに等しく生きること」「人が人であること」の問い直しをする今に恥ずかしくないものでありたいと心底、願います。

2020年9月「私の座礁船」

今、私は服部正さんの遺言の如き詩集「座礁船」と再会し衝撃を受けています。

          地球は青く闇無限 我はただ

          臨終告知をまちいたり

          銀河系よ その方向を誤るなかれ

                       (服部正「座礁船」(風来舎)より)

誰もが揺らぎ、先を予測できないパンデミックの時代を、服部さんのことばが照らす。

目を凝らせば、多くの人が神戸の未来へと繋いできた航跡が見え、耳を澄ませば、未来へと向かうエンジンの力強い音が聞こえないか。

服部さんとのご縁は、「神戸芸術文化会議」。名議長と言われ長く「神戸芸術文化会議」を率い、神戸市の文化基盤の改革を志し、推進された。前号の佐本進さん、服部正さんはじめ、多くの方々と出逢い、つながるなかで、志を託されてきた。

その出逢ってきた人々と、託されてきた忘備を、インデックスのごときメモランダムとして、遺したいと思っています。

軌跡のようなきれいごとでは語れない、痕跡のような記録になりそうであるが、とにかく、その準備を始めました。

生きるための免許更新

 

「無言館 遺された絵画からのメッセージ」が9月12日から神戸ゆかりの美術館で始まります。

無言館は、窪島誠一郎さんと野見山暁治さんが、戦没画学生の遺された絵を蒐集され、1997年に長野県上田市に開館しました。

戦後75年の節目を迎えますが、コロナの渦中にある現在、過去だけでなく「今」も命、あるいは「生きる」ということの切実さをわたしたちは等しく抱いているといえます。

実は戦没画学生の遺された絵の展示は神戸からはじまりました。海文堂ギャラリーでした。

阪神大震災は 50年目の戦場神戸と言われましたが、その後の三宮の復興支援館などでも、このプロジェクトに継続的に支援を続けてこられた、いや、今も続けておられるのは凮月堂さんです。

先日、このことで窪島さんと電話で話をしていました。お互い、長く生きてきたけど、様々に不調を抱えている。

でも、窪島さんとはまだご一緒する大きな仕事がある。来年9月11日が画家松村光秀さんの没後10年になる。

沖縄・佐喜眞美術館、窪島さんの残照館(旧信濃デッサン館)とギャラリー島田の三館で、それぞれ違う作品と独自のコンセプトで一ヶ月間という稀有な展覧会を計画しています。

窪島さん曰く、「生きるための免許更新を忘れないで!」あと一年。何としても生き延びねば。

今回の神戸ゆかりの美術館での展覧会「無言館 遺された絵画からのメッセージ」はしっかり応援したいと思っています。

鴨居玲に想う

 

私も鴨居玲に心を鷲づかみにされてきた者たちのうちの一人だ。そしてその執心が多くの貴重なものを私に引き寄せてきた。それらはしかるべきところへ寄贈して今はない。

たとえば最初の自殺未遂の時のものと思われる自筆の遺書のような書き付け。

それは医師であり小説家であった原口ちからさんから託されたが、他人に見せるわけにもいかず、折り畳んでファイルに保管していた。原口さんも亡くなり、さて私が死ねば永久に日の目をみることはなくなる。ふと気がつくと、原口ちからさんが「書き付け」と共に私に残していかれた叢書が、津高和一さんの装画で、書名が「厄介な置き土産」(兵庫のペン叢書1、1982)とある。 なんという符合であるか。長く苦しんできたが、石川県立美術館に相談して寄贈させていただいた。今回の石川県立美術館での没後35年展でも資料展示されているのではないかと思う。そして、榎忠さんの前で切り裂いたカンバスは鴨居さんが在学した関西学院大学へ。

今、私の手もとにあるのは… 鴨居さんが愛した伝説のバー「デッサン」(武田則明設計)に置かれ、鴨居さんも座した石彫のオブジェ(山口牧生)。そこに集う心許す友と交わした手紙。魅力あふれるポートレート。鴨居さんが使い込んできたサイン日付入りのパレット。 そして、鴨居さんが恰好いいドン・キホーテであれば、終生、サンチョパンサであり自死の発見者であった岩島雅彦さんが、最後の個展でギャラリー島田に遺した代表作「芸人の一家」(200号)。これは岩島さんから鴨居さんへのオマージュです。

この作品も鴨居玲作品とともに神戸で永眠させてあげたい。

今年は鴨居玲没後35年。私どものコレクションもこの期に公的な場に纏めて寄贈するつもりです。