島田誠・森栗茂一『神戸 震災をこえてきた街ガイド』カラー版 岩波ジュニア新書489(2004年11月)
須飼秀和 画・毎日新聞夕刊編集部 編『私だけのふるさと―作家たちの原風景』岩波書店(2013年3月)
坂 茂『紙の建築 行動する―建築家は社会のために何ができるか』 岩波現代文庫(2016年6月)
坂さんも神戸の震災のあと、加川広重の「巨大絵画」プロジェクトや東北支援などでご一緒しました。
草地賢一さんのこと
私も居合わせて打合せをしていた時に草地さんがガタガタと震え出し、誰かが驚いて車で送った。
兵庫県立姫路工業大学教授としての在任は2年足らずであった。2000年1月2日、敗血症のため逝去。58歳。
草地賢一『アジアの草の根国際交流』明石書店(1993年4月)
『草地さんの仕事』刊行委員会 編著『阪神大震災と国際ボランティア論―草地賢一の歩んだ道』エピック(2001年1月)
島田誠「草地賢一 神戸からボランティア元年を拓く」[『ひとびとの精神史』第8巻 バブル崩壊 1990年代 所収 ]岩波書店(2016年5月)
草地が用意したプラットフォーム(Platform)は未来へと向かう一つの大きな駅(Station)だったのかもしれない。私たちは震災に引き寄せられるようにターミナル(Terminal)に集まった。そこはまた、あたらしい希望を積み込んで未来へ向かう始発駅(Starting Station)だった。それぞれがミッションを抱き、草地の好んで口にした「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生む。そして希望は失望に終わることはない」(ローマの信徒への手紙 五章三―五節)を心に刻みながら、目的地へと出発して行ったのだ。
そして今年、雑誌「世界」を生み出した希代の名編集者『吉野源三郎の生涯 平和の意志 編集の力』
(岩倉博 著)が花伝社から刊行された。吉野源三郎は『君たちはどう生きるか』の著者でもある。
現在『君たちはどう生きるか』は岩波文庫 青158-1で読むことが出来る。不朽の名作である。
私は中学時代(神戸大学附属明石中学校)に、中井一夫先生という厳しい先生から読むように言われて出会った。今も「どう生きるか」を問いつづけている。
加藤周一さんのこと
加藤さんも多くの著作を岩波書店から出しておられます。
『加藤周一自選集』全10巻
『続 羊の歌ーわが回想』(1968年 2009年4月15日で第38刷)
『日本文化における時間と空間』(2007年)
『幻想薔薇都市』(小説集、1994年)
『読書術』岩波現代文庫(2000年11月)
『私にとっての20世紀』(2009年2月)
『日本を問い続けて 加藤周一、ロナルド・ドーアの世界』(2004年7月)
2013年に出た海老坂武の『加藤周一 二十世紀を問う』(岩波新書1421)の紹介文より
言葉を愛した人・加藤周一は、生涯に膨大な書物を読み、書き、そして語り続けた。それはまた、動乱の二十世紀を深く問い、表現する生でもあった。
私たちが加藤さんの講演会を主催したのは2003年9月21日 神戸朝日ホールでした。それに至るまでに多くの集まりを神戸・京都でもって魅了されていました。
「私たちの希望はどこにあるか」-志のある市民たちが無数に広がっている。それぞれは力がないように見えるけれど、何かあった時に繋がって社会を支えてゆく。それが希望だ。
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2022年10月「岩波書店をめぐって(1)」
雑誌『世界』1995年1月号 特別対談「初心から逃れられずにきた 大江健三郎・安江良介」そのことから、この記念号は始まる。大切に所持してきた。
驚くのは俵万智が第一歌集『サラダ記念日』を出して大ベストセラーになり、ここでインド映画「詩人の贈り物」の監督イスマイル・マーチャントと「語りつがれる詩人の言葉」として対談している。当時33歳。
また、安江さんは1988年春に娘さんが生まれて三日目に亡くした。
大江さんは、その6月に生まれた光さんが障碍を持って生まれた。
この記念号の冒頭がお二人の対談なのです。
大江さんは「あいまいな日本の私」を1995年1月60歳になる日を眼のまえにしてと記して「岩波新書 375」として出している。
『「世界」主要論文選 1946-1995 戦後50年の現実と日本の選択』は1996年10月6日刊。
989ページに及ぶ大冊である。
歩みを辿れば
1 戦後改革 1946-1950
2 講和から60年安保 1951ー1960
3 高度成長・ベトナム戦争・沖縄 1961ー1975
4 核戦争の危機からポスト冷戦へ 1976ー1995
上記の1995年は、1月17日、未曾有の地震が阪神地区を襲った。
『神戸発 阪神大震災以後』は酒井道雄さんの編集で、粉塵の舞う中、海文堂書店、そして近くの毎日新聞神戸支局を拠点として1995年6月20日 「岩波新書 397」として出版。
私はこの中で「神戸に文化を」として、当時、計画が取り沙汰されていた「六甲シンフォニーホール」を批判し、この間に何をすべきかを書いた。
上記の中で「市民とボランティア」を書いたのが、草地賢一さん。後に草地さんの生前最後の取り組みを私が書くことになるとは…
永 六輔 『夫と妻』 2000年1月 岩波新書 新赤版 654
永 六輔 『親と子』 2000年1月 岩波新書 新赤版 655
永さんと佐本進さんの小劇場「シアター・ポシェット」の縁でよくご一緒しました。
永さんは2016年7月7日に83歳で亡くなられました。
8月30日が「お別れ会」で、私も参列させていただきました。((2)へ続く)
2022年9月蝙蝠日記「 盂蘭盆会」
浄土からこの世(現世)に戻ってくる
会いたき人たち
墓銘碑に年々多くの名を刻んできた
西村功
伊勢田史郎
松村光秀
灰谷健次郎
杉山平一
草野心平
水上勉
津高和一
菅原洸人
加藤周一
多田智満子
神谷美恵子
服部正
永六輔
朝比奈隆
鴨居玲
高見淳
佐本進
元永定正
草地健一
鶴見和子
高野卯港
長田弘
山本忠勝
堀尾貞治
亀井純子
須田剋太
岸野裕人
梅田徹
島田悦子
これらの多くの方と交わってきた
死んでしまったものの、失われた痛みの、
ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
ため息の、
灰。
ウンベルト・サバ「灰」より
悼詞
私の今いるところは陸地であるとしても波打ち際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私は、この本をくりかえし読みたい。
人は
死ぬからえらい
どの人も
死ぬからえらい
わたしは
生きているので
これまでに
死んだひとたちを
たたえる
さらに遠く
頂点は
あるらしいけれど
その姿は
見えない
鶴見俊輔
松村光秀展
私が先日、松村光秀先生のお嬢さんの志奈子さんに送ったメールからー
志奈子さん。
懐かしいですね。
先生の声、そしてシマダさんと呼ぶ独特の抑揚。シマダ。マが跳ね上がるような・・・
こうして、渡邊亮平さんの研究も受けて、大きな展覧会が出来るのは、感無量です。
沖縄展で、踊りだしたり、立ち上がれなかったりの姿が、鮮明に蘇り、潤んだ瞼に蘇ります。
勿論、資料はどんどん出していただき、見ごたえのあるものにしましょう。
沖縄だけでなく、信濃デッサン館、そういえば新潟へも行きましたね。
私も様々に、体調が危険信号を点滅させています。
私が最後の沖縄で先生の姿を見て、心配したように、老いた私の姿を見ている若いスタッフたちも、奮い立って、全力でいい展覧会へ挑んでくれるでしょう。
2022年7月「私が子供だったころ 」
1942年生まれ。
終戦まぢか、神戸も大空襲を受けた。
新潟の親戚の家に疎開していた写真が残る。
父は三菱重工神戸の勤労畑で、戻ってからも転々とし、そのあと潮見台の社宅に。といっても立派な洋館に2世帯が上下に住み分けて。
そこから、須磨浦幼稚園と母が始めていた幼児生活団(週に一日)と両方に行ってたらしい。
幼稚園のお絵描きで、白い画用紙をだして「雪のなかのウサギ」と言ったという話が伝わる。
西須磨小学校へ進学。
離宮道を米軍の車両が上がっていった。
一年生のとき「こくご」の教科書が足りなく「さくらがさいた どこまでさいた」と父が墨と筆で書いた。
小学校では、1,2年のときの担任が軍隊上がりだったりした。
帰りにみんながバラバラと遊びに出て、今のギャラリー&喫茶 あいうゑむ のあたりの店に行っていた朧の記憶がある。
この年頃の子供はみんな同じだと思う。
夏は潮見台の家から急坂を駆け下りて泳ぎに明け暮れ、真っ黒で「インドのカラス」と言われた。
今の、鳩山由紀夫夫人の、みゆきさんはその頃の近所の遊び仲間で、宝塚少女歌劇へ。
その後、私が「アートエイド神戸in東京」で上京した時に再会。鳩山邸に招かれたりした。
最近も「こぶし基金」に志縁を頂いたりしたのも幼馴染ゆえだ。
私はその後、神戸大學附属明石中学から神戸高校へ、その後の合唱人生で、様々な得難い体験をした。
メンバーとしても指揮者としても多くの受賞を重ねた。
そして神戸高校合唱部が1ヶ月間にわたるアメリカ西海岸のホームステーでの旅に同行したのが前半生の卒業だったかもしれない。
特別企画展 CREWS私たちは「画廊通信」で2年にわたり世界中の皆様からご寄稿いただいた「パンデミックの時代に」というコラムの連載を終えました。
その緊張感を抱えながら今回は、パンデミックや戦争で分断されている地球全体の、私たちは乗組員CREWであるとの呼びかけの応えて、多くの方が、それぞれの思いを込めて参加されています(会期は6月21日まで)。
なにより、ここに集ってくださったみなさまの思いがうれしく、昨日も、今日も、明日も、私は、このCRUISEを楽しんでいます
2022年6月蝙蝠日記 「30年」
1990年5月28日 40才という若さで世をさった亀井純子さんから託された思いから、この基金は誕生しました。
1992年7月23日。公益信託「亀井純子文化基金」が認可。30年前でした。
そして一般財団法人設立。
その後、公益信託「亀井純子文化基金」を吸収。
2011年3月11日 東日本大震災で 「アーツエイド東北」の設立に関わる。
2011年4月1日 公益財団法人「神戸文化支援基金」として認可を受ける。
その後、基金内に冠名基金として、
「西川千鶴子基金] 2010年9月 (1000万)
「島田誠・悦子基金」 2011年6月 (1000万)
「川本昭男・やよい基金」2016年5月 (1000万)
「島田誠・志水克子基金」2018年5月 (6000万)
志縁
公益財団法人と名がありますが、兵庫県下の芸術文化支援を市民メセナで支援し続けてきました。
これを私たちは 「芸術を支える援ける」ではなく、「志の縁をつなぐ」すなわち「志縁」と呼んでいます。
緊急支援
コロナ禍に見舞われた2020年は、あらゆる芸術文化活動が休止に追い込まれた。
県下の6つの地域を役員全員で分担し、三段階で緊急支援助成(総額930万円)を行いました。
2021年もコロナ支援の意味も込め、1件あたりの限度額を20万から50万円とし、
総額680万円 26件に助成しました。
近年の通常助成の変遷は、 2018年 15件 315万
2019年 17件 395万
2020年 16件 300万
2021年 26件 680万
2022年 27件 500万
そして基金の誕生から今年2022年、30年の節目を迎えることができました。
2022年1月蝙蝠日記 津高和一
母子像 1951 曲りくねった続柄は母子列伝。系譜の糸を持った手が鮮やかに染まり、母子は今日という日に私語する。
埋葬 1952 遍歴の跡も残さない不在証明。前後左右。それに頭上に脚下。この風景の中で僕はいつか紙ヒコーキを飛ばした。きょう風信は、樹木たちの口伝のざわめきを聞く、ぼくの耳のことだった。
作品 1953 痕跡だけの町で、漂泊粉を持った男がいた。青い空にそれを撒くつもりなのだろうか。
転移 1956 抜けた天に、立てかけた梯子があった。
作品 1956 空白に座っていた。呼吸をととのえようとしているのである。
シュク 1957 この鉄道は不毛の未開地にまで伸びていた。
連 1957 音というものは外側ばかりから聞えてくるものではなかった。内側からも響いてくるのである。
雷神 1958 むかしこの国にはいろいろの神がいた。恐ろしくて手のとどかないものは全部神だった。
いまも口ごもる神が僕のそばにいた。
血縁 1959 ここの住民たちは奇妙な風土病にかかっていた。だれもが煎じ薬を沸かしていた。
とつ 1960 ぬっと立ているやつ。よく喋るやつもいた。ときにつんざくような声で喋るやつもいた。
無名への挑戦 1960 むろん、その逆だってあるのだ。
いのち 1960 果実の汁のようなものだった。
寂 1961 風説は、パラボラアンテナにかからない。耳から耳に伝染した。
吃線 1961 渡り鳥は千里眼のようだった。はるかに遠い風景を映すのである。
塊 1961 僕は自家製の暗号帖を持っている。髪の毛のように細長い記号や、掌のように平べったい符号。
それに焙り出さないと出ない文字もあった。
作品 1962 かれの航海術心得のなかには記載漏れがしばしばあった。
作品 1962 山を下りた呪術師は決まって陽あたりの悪いところに住んだ。
作品 1963 祭日はわが博物誌。蕾の向日性に揺れる。
作品 1964 気象台の降雨量測定にときおり誤りがあった。気まぐれな僕の旅行日程表にも赤鉛筆の注意書きがある。
兆 1965 辺境では戦火が広がり、宇宙衛星は威嚇銃のような大きな音をたてなかった。
漠 1965 コンピュータ占いはよく当るという男が、おんなに話していた。
MAN 1970 その男は舌を出した。喋ることを忘れているのである。
時間 1971 化石になった魚は、一億年目の僕の掌の平で凝固していた。洗剤の白い泡が奇妙なかたちにふくれる。
伝説 1971 木目は落差を測り、移住した人々は転居不明だった。
「津高和一は水と空気の捕捉者だ。……広漠たる空間になじんでいく絵画。造形意志、造形意識よりも、たとえば味覚や聴覚や予感によって、導かれ、方位を定められている絵画。見えるものよりは見えないものを、一層強く感じさせる絵画。」
大岡信の言葉
以上「山村コレクションによる 津高和一 作品の流れ 展」(1971年)図録より
堀尾貞治
存在には理由はない。
収入と収支はまったく無関係である。
存在には理由はない。
存在には次元の異なるものが入りまじっている。
存在には理由はない。
言葉は物の表面をなでまわすに過ぎない。
存在には理由はない。
人が生き、物がそこに在ることは奇怪である。
存在には理由はない。
絵画はいろいろな次元に存在する。
存在には理由はない。
傑作は理由を問うことを断念させ、鮮やかに存在する。
存在には理由はない。
重要なのは理由のないことである。
村上三郎 1963
『あたりまえのこと 堀尾貞治 90年代の記録』 山本淳夫学芸員の文章より
表札としての「無窮工房」。「色塗り場」「一分打法」「あたりまえのこと」も、ひたすら反復することで「あたりまえでなくなる」
「あたりまえのこと 今
ことさら作品をつくることをせずに「今」という時間で僕にかかわることをだしてみようと考えていたので ぎりぎりになるまで 作品らしいものが出てこない状態で阿吽響というスペースにかかわらしてもらった。 床のスペースが美しいので それをそのままでもよいのですが ちょっとだけごまかしを入れてかかわりをもった
壁面の作品は今まで作っていたもので 手元にあるものを考えることなく置いたという感じであります。
とても無責任な個展という感じです。」(略)
18.APR 1994 朝
堀尾貞治
この文は、活字になったことのない文章の部分です。記録集に写真で写り込んでいる自筆文章の前半です。
2021年9月「後藤正治さんのこと」
後藤正治さんの自選エッセイ集、“40年目のケルン”たる『拠るべなき時代に』。
ノンフィクションを書きはじめて40年になる後藤さんの近年の時評・人物論・作家論・書評・エッセイが収められています。
Ⅰ 時評もどきの Ⅱ 人々の足音 Ⅲ 作家達 Ⅳ 書を評す Ⅴ プロムナード
「すべては往時茫々であるが、それでもいま一歩、足を前に運びたく思う」という後藤さんの言葉。
最後は「それなりに生きたよ」とある。
「過去はただ過ぎに過ぎる」。これは後藤さんが名著『天人』で描いたコラムニスト・深代惇郎の言葉。
後藤さんが40年を締めくくる自選エッセイ集に「拠るべなき時代に」とタイトルを表しておられることは、2年前に大病され死神が近くまで来たと書かれていることからも、全体を貫く強い意志が伝わります。
今、私が様々な脳の不調を抱えながらなんとかあるのは後藤さんに大きく支えていただいてきたことを思うのです。手元にあった『奇蹟の画家』を久しぶりに読み返しても、石井一男さんも私も、ここに書かれていることに恥じなく生きることを心の底で抱えて生きているのですね。
私の側から後藤正治さんとの出会いを思い出すと、その日突然かかってきた電話がはじまりでした。
神戸に関わることになり、後藤さんの周囲の人から、島田さんという人がいいと名が上がったらしいのです。
一度お会いしたいというお電話でした。後藤さんがどのような方と知らぬままお会いすることになりました。
訪ねてこられたのはソフトな紳士で、これが著書でと、文庫本を渡されました。たしか『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』だったと記憶します。
ポートアイランドに新設される大学「神戸夙川学院大学」の教授をされるという話でした。
神戸の人脈も何もしらないとのこと。
ネットで後藤さんを検索することもせず、なにかお役にたてればと思いました。そして乞われるままにまだ新設大学で生徒もまばらの大学で、いまは何を話したのか朧げですが、ギャラリーですからどんな作家を紹介しているかの話をして、すでに評判をとっていた石井一男さんのことも話したのです。まったく無名での出会いのこと、その作品が多くの人々の心を打ったことなど。
その物語が後藤さんの心をとらえた。そんな人がいるのかと。
後藤さんの『奇蹟の画家』は2009年12月に講談社創業百周年記念の書下ろし作品でした。
テレビの「情熱大陸」でも取り上げられ、知らぬ人なき人気作家、すなわち完売作家として続いてきたのは後藤さんのおかげです。今、読み返してみて石井一男さんのことはもちろん私の生まれからその後の生い立ちにいたるまで詳細に正確に書かれていて、私の人生に何一つ足すことも引くこともないです。現在「週間朝日」で集中連載されている「追想 漢たらん」に5ページにわたって書かれている「石井一男と島田誠」も(2021年7月30日号)。
とはいえ、私が後藤さんに心を寄せるのは、後藤さんの世界に魅せられたからで、多くの作品が刊行されるつど夢中になって読んできました。『清冽』『天人 深代淳郎と新聞の時代』『不屈者』『拗ね者たらん』などなど。
後藤さんの著書でひときわ深く傾倒したのは『天人 深代惇郎と新聞の時代』です。
「天に声あり、人をして語らしむ」人はそれを「天人」と呼ぶ。天声人語の書き手ですね。
我が家は朝日新聞とは深い縁があり叔父(島田巽)が論説副主幹、私の二人の従兄弟も朝日で働いていた。
そして「倚りかからず」に生きた詩人・茨木のり子の評伝『清冽』。後藤さんが茨木のり子について書くきっかけは「私が一番きれいだったとき」でさらにそれは写真家の石内都が撮影した広島で被爆して女性たちの遺品の写真に触発されたそうです。西宮大谷記念美術館でつい先日、その写真展を見ました。
清冽の流れに根をひたす
わたしは岸辺の一本の芹
わたしは貧しく小さな詩編も
いつか誰かの哀しみを少しは濯うこともあるだろうか 茨木のり子「古歌」より
『茨木のり子の家』(平凡社 2010年)は何度も見返してきました。なんといっても書棚の写真が興味ぶかく親しい神戸の詩人『安水稔和全詩集』がドンとあり、安水さんに伝えたら喜んでおられました。そしてお別れの挨拶の下書きがあり、なるほどと思いました。
今すべきでない五輪が無理やり開催されました。
『拠るべなき時代に』の一章「書を評す」に「五輪の書を読む」があります。東京五輪から失われたもの・・・肥大化、商業化、プロ化・・・大切なものを失ってきた。
その無残な形骸を目の当たりにする私たち。
1964年の東京オリンピックでの勝者モハメッド・アリとベラ・チャスラフスカはともに1942年生まれ、私と同年です。
後藤さんの2012年の自選エッセイ集のタイトルは『節義のために』でした。
チェコスロバキアの民主化運動に関わったベラ・チャスラフスカが不利益を承知で民主化運動に関わった。そのことを聞くと「節義のためにそれが正しいと信じた」と答えた、とある。
2021年3月「夜が明ける、夜は明ける」
2011年4月のこと
仙台入りし「アーツエイド東北」の設立に関わりました。6度目の東北入りの時に仙台メディアテークでの加川広重の「かさねがさねの思い」という展覧会にて震災後描かれた1作目「雪に包まれる被災地」という作品に出会う。すぐに加川さんに是非、神戸で紹介したいと伝えた。なんの実現への見通しもないままに。
5.4mx16.4m
「加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸」展は、東北の文化復興を支援する市民活動をきっかけとして誕生した。東日本大震災は神戸の市民を再び目覚めさせ、市民からの寄付を東北の文化復興に直接活用できる仕組みを作ろうとした。
神戸での展覧会はどこで、という開催場所のあてがあるわけでもなく、でもやらねば、とだけ思いつめていたその時、出会ったのがKIITO(デザイン・クリエィティブセンター神戸)でした。その時は加川さんの巨大画のためにあるとしか思えませんでした。展示出来たことは本当に奇蹟的なことだったと思います。
2013年「雪に包まれる被災地」、2014年「南三陸の黄金」、2015年「フクシマ」が続いて開催され、巨大絵画の前でシンポジウム、コン サート、映画上映など多彩な関連プログラムも同時に展開されました。
2015年「フクシマ」展は、神戸の震災から20年に重なって、福島の復興を中心に東北の「今と明日へ」をテーマとした、開催となりました。この三つの記録誌は、未曾有の記録としてあります。
作品「フクシマ」について
福島第一原発の近くで人の気配のない街を歩き、津波の被害そのままの状態で雑草に覆われる車や船を見、生まれ育った故郷を追われた方の怒りをお聞きして、私の中に生まれた想いをこの絵にぶつけました。
加川広重
フクシマは今も収束していませんが、6年前にはさらに厳しい政治的課題もある中で、市の施設で市の協賛で開催するのですから、よくぞ実現したものです。
こうした困難の数々を神がかり的に突破してきたのは、加川広重の被災地、そしてそこに今なお暮らす人たちへの強い思いが伝わるから。そしてそれは今、世界が直面していることとも直に繋がっているからです。
2021年、今回は巨大絵画ではありませんが、ギャラリー島田の地下空間全体を使って加川広重展「3.11 夜が明けるまで」を開催いたします。作品とともに、資料展示も含めてみなさまと今を、明日を考える場にできればと思います。
2021年2月「中井久夫先生に教えられた大事なこと」
2015年1月、中井久夫『戦争と平和 ある観察』が人文書院から刊行された。
戦後70年、神戸の震災から20年。戦争を二度と起こさないために自身の戦争体験を語る、とある。
この中に災害を語る・災害対応の文化の章立てがあり、先生と私の対談がありました。
『戦争と平和 ある観察』
I
戦争と個人史
私の戦争体験
【対談】 中井家に流れる遺伝子 ×加藤陽子
II
災害を語る
災害対応の文化
【対談】大震災・きのう・きょう 助け合いの記憶は「含み遺産」×島田誠
『戦争と平和 ある観察』は名著です。
そしてまた、皆さんにお伝えしたいのは 加藤陽子(歴史学者)のこと 。
今度の政府が、日本学術会議への6名の就任を拒否。菅首相がただ一人読んだことがあると名を挙げた方です。
加藤陽子さんは『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)という高校生に向けて書かれた著作で第9回小林秀雄賞を受賞。
新春詠(朝日新聞)
明かされぬ理由は誰もが考へる よおーく考へろよと睨まるるごと
あのことを許したのがすべてのはじまりとわれら悔ゆべし遠からぬ日に
永田和宏「学術会議」
特集「パンデミックの時代に」
人類の歴史の中で地域を超えた災厄に晒されたことは知識としては知っていても、私たち自身がただ中にあることを今現在、自覚的、主体的に生きているわけではない。日々の情報と場当たり的な対応ではなく、文明の結節点をどのように生きるのかを、世界への眼差しから受け止めたいと、今月号で21人の方から14か国についての寄稿をいただいています。9月頃には、累計で30名の世界各国の皆さんから寄せられた「声」とともに、今を生きる私達の在り方を考えるゲスト寄稿も収録したブックレットとして刊行いたします。
『声の記憶 「蝙蝠日記」2000-2020クロニクル』が生まれて
人は生まれ 生き 病み 死す
その循環の中で 何事かを成す
今回の「声の記憶」はリランズゲートへ移ってからの記憶であり、その前史として元町時代がある。
海文堂書店増築 ポートピア 海文堂ギャラリー 阪神淡路大震災 兵庫アートウィーク IN TOKYO 東日本大震災
加川広重巨大絵画プロジェクト 公益財団法人神戸文化支援基金へ…
これらの前史についてはそれぞれの詳細な記録誌を刊行している。
そして 作家・作品通史
海文堂から今にいたる記録を残し続けています。
中井久夫 『戦争と平和 ある観察』 限定5冊 販売いたします。2300円+税
2020.12「混迷する世界での希望の灯り」
世界全体がパンデミックに晒され多くの命が失われている中、超大国アメリカのリーダーがこの2020年の11月7日に選ばれた。全米を挙げてリーダーを選ぶこの国の在り方を見るにつれ、合衆国の深い意味を学ぶ思いである。
副大統領のハリスさんの来歴と発言のなんと魅力的なことか。
「皆さんは票を投じて明確なメッセージを送った。希望、結束、品位、科学への信頼、そして真実を選んだ。最初の女性副大統領だが、最後にはならない」
ハリスさんはカリフォルニア州オークランドの出身である。この街はlocationとしても我が町 神戸と似ているうえに私にとっては忘れることの出来ない思い出と繫がっている。
神戸高校合唱部がシアトル、サンフランシスコの南海岸を縦断しハワイにいたる一か月間に及ぶ演奏旅行を行った。遥か昔のこと。
私はOB(当時大学1年)アシスタント指揮者として同行していた。次がサンフランシスコでのホームステーがオークランドでよく覚えている。
新大統領バイデン氏は78才とのこと。私もちょうど78才になった。
縁を感じさせる今回の米政権。お前ももう少し頑張れと励まされる思いだ。
私たちの希望はどこにあるか
さかのぼること17年、2003年の9月21日、加藤周一さんをお招きし「加藤周一講演と対話のつどい」を神戸朝日ホールで開催したのを思い出す。当時、加藤さんは84才だった。
加藤さんは言葉の力を信じ、言葉の力に賭け、美しい言葉を好み、美しい言葉で表した。
声高の大言壮語を嫌い、狂信的な物言いを拒んだ。
語るときはいつも声低く語った。
そして、人間の可能性を信じ、人間のつくりだしたことを敬し、人間がつくりだしたものを愛した。
権力に近づかず、弱者を理解しようとした。
それは一貫して変わらなかった。
2020年を振り返って
2020年は1月の木下晋展に始まりました。
長い長い木下さんとの交流の一つのゴールがこの危機の渦中であるという巡り合わせが象徴することに慄然とします。
1月 木下晋・25年目の1.17・トゥーンベリさんへの応答
2月 黒川伸輝・金子善明・永田耕衣・藤崎孝敏
3月4月5月は延期・中断
上村亮太・桑畑佳主巳
6月 オンラインストア・緊急支援
7月 未来圏から!
8月 友定聖雄・鴨居玲
9月 大森翠・小谷泰子・松原政祐
10月 田鎖幹夫・沢村澄子・きたむらさとし・南輝子・藤飯千尋
11月 再び上村亮太・アートの架け橋・石井一男・須飼秀和
そして12月の締めくくりは井上よう子・林哲夫・戸田勝久です。
それにしても存続を危ぶまれる経営危機とコロナ危機を反転させつつある力は何処にあるのでしょうか。
個性的なスタッフ達がチームをなし、作家とともに、時代の転換期にあたり、何より、伝えるべきものに専心する潔さが伝わってくるのです。