島田誠・森栗茂一『神戸 震災をこえてきた街ガイド』カラー版 岩波ジュニア新書489(2004年11月)
須飼秀和 画・毎日新聞夕刊編集部 編『私だけのふるさと―作家たちの原風景』岩波書店(2013年3月)
坂 茂『紙の建築 行動する―建築家は社会のために何ができるか』 岩波現代文庫(2016年6月)
坂さんも神戸の震災のあと、加川広重の「巨大絵画」プロジェクトや東北支援などでご一緒しました。
草地賢一さんのこと
私も居合わせて打合せをしていた時に草地さんがガタガタと震え出し、誰かが驚いて車で送った。
兵庫県立姫路工業大学教授としての在任は2年足らずであった。2000年1月2日、敗血症のため逝去。58歳。
草地賢一『アジアの草の根国際交流』明石書店(1993年4月)
『草地さんの仕事』刊行委員会 編著『阪神大震災と国際ボランティア論―草地賢一の歩んだ道』エピック(2001年1月)
島田誠「草地賢一 神戸からボランティア元年を拓く」[『ひとびとの精神史』第8巻 バブル崩壊 1990年代 所収 ]岩波書店(2016年5月)
草地が用意したプラットフォーム(Platform)は未来へと向かう一つの大きな駅(Station)だったのかもしれない。私たちは震災に引き寄せられるようにターミナル(Terminal)に集まった。そこはまた、あたらしい希望を積み込んで未来へ向かう始発駅(Starting Station)だった。それぞれがミッションを抱き、草地の好んで口にした「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生む。そして希望は失望に終わることはない」(ローマの信徒への手紙 五章三―五節)を心に刻みながら、目的地へと出発して行ったのだ。
そして今年、雑誌「世界」を生み出した希代の名編集者『吉野源三郎の生涯 平和の意志 編集の力』
(岩倉博 著)が花伝社から刊行された。吉野源三郎は『君たちはどう生きるか』の著者でもある。
現在『君たちはどう生きるか』は岩波文庫 青158-1で読むことが出来る。不朽の名作である。
私は中学時代(神戸大学附属明石中学校)に、中井一夫先生という厳しい先生から読むように言われて出会った。今も「どう生きるか」を問いつづけている。
加藤周一さんのこと
加藤さんも多くの著作を岩波書店から出しておられます。
『加藤周一自選集』全10巻
『続 羊の歌ーわが回想』(1968年 2009年4月15日で第38刷)
『日本文化における時間と空間』(2007年)
『幻想薔薇都市』(小説集、1994年)
『読書術』岩波現代文庫(2000年11月)
『私にとっての20世紀』(2009年2月)
『日本を問い続けて 加藤周一、ロナルド・ドーアの世界』(2004年7月)
2013年に出た海老坂武の『加藤周一 二十世紀を問う』(岩波新書1421)の紹介文より
言葉を愛した人・加藤周一は、生涯に膨大な書物を読み、書き、そして語り続けた。それはまた、動乱の二十世紀を深く問い、表現する生でもあった。
私たちが加藤さんの講演会を主催したのは2003年9月21日 神戸朝日ホールでした。それに至るまでに多くの集まりを神戸・京都でもって魅了されていました。
「私たちの希望はどこにあるか」-志のある市民たちが無数に広がっている。それぞれは力がないように見えるけれど、何かあった時に繋がって社会を支えてゆく。それが希望だ。
hayashi
2022年10月「岩波書店をめぐって(1)」
雑誌『世界』1995年1月号 特別対談「初心から逃れられずにきた 大江健三郎・安江良介」そのことから、この記念号は始まる。大切に所持してきた。
驚くのは俵万智が第一歌集『サラダ記念日』を出して大ベストセラーになり、ここでインド映画「詩人の贈り物」の監督イスマイル・マーチャントと「語りつがれる詩人の言葉」として対談している。当時33歳。
また、安江さんは1988年春に娘さんが生まれて三日目に亡くした。
大江さんは、その6月に生まれた光さんが障碍を持って生まれた。
この記念号の冒頭がお二人の対談なのです。
大江さんは「あいまいな日本の私」を1995年1月60歳になる日を眼のまえにしてと記して「岩波新書 375」として出している。
『「世界」主要論文選 1946-1995 戦後50年の現実と日本の選択』は1996年10月6日刊。
989ページに及ぶ大冊である。
歩みを辿れば
1 戦後改革 1946-1950
2 講和から60年安保 1951ー1960
3 高度成長・ベトナム戦争・沖縄 1961ー1975
4 核戦争の危機からポスト冷戦へ 1976ー1995
上記の1995年は、1月17日、未曾有の地震が阪神地区を襲った。
『神戸発 阪神大震災以後』は酒井道雄さんの編集で、粉塵の舞う中、海文堂書店、そして近くの毎日新聞神戸支局を拠点として1995年6月20日 「岩波新書 397」として出版。
私はこの中で「神戸に文化を」として、当時、計画が取り沙汰されていた「六甲シンフォニーホール」を批判し、この間に何をすべきかを書いた。
上記の中で「市民とボランティア」を書いたのが、草地賢一さん。後に草地さんの生前最後の取り組みを私が書くことになるとは…
永 六輔 『夫と妻』 2000年1月 岩波新書 新赤版 654
永 六輔 『親と子』 2000年1月 岩波新書 新赤版 655
永さんと佐本進さんの小劇場「シアター・ポシェット」の縁でよくご一緒しました。
永さんは2016年7月7日に83歳で亡くなられました。
8月30日が「お別れ会」で、私も参列させていただきました。((2)へ続く)
2022年9月蝙蝠日記「 盂蘭盆会」
浄土からこの世(現世)に戻ってくる
会いたき人たち
墓銘碑に年々多くの名を刻んできた
西村功
伊勢田史郎
松村光秀
灰谷健次郎
杉山平一
草野心平
水上勉
津高和一
菅原洸人
加藤周一
多田智満子
神谷美恵子
服部正
永六輔
朝比奈隆
鴨居玲
高見淳
佐本進
元永定正
草地健一
鶴見和子
高野卯港
長田弘
山本忠勝
堀尾貞治
亀井純子
須田剋太
岸野裕人
梅田徹
島田悦子
これらの多くの方と交わってきた
死んでしまったものの、失われた痛みの、
ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
ため息の、
灰。
ウンベルト・サバ「灰」より
悼詞
私の今いるところは陸地であるとしても波打ち際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私は、この本をくりかえし読みたい。
人は
死ぬからえらい
どの人も
死ぬからえらい
わたしは
生きているので
これまでに
死んだひとたちを
たたえる
さらに遠く
頂点は
あるらしいけれど
その姿は
見えない
鶴見俊輔
松村光秀展
私が先日、松村光秀先生のお嬢さんの志奈子さんに送ったメールからー
志奈子さん。
懐かしいですね。
先生の声、そしてシマダさんと呼ぶ独特の抑揚。シマダ。マが跳ね上がるような・・・
こうして、渡邊亮平さんの研究も受けて、大きな展覧会が出来るのは、感無量です。
沖縄展で、踊りだしたり、立ち上がれなかったりの姿が、鮮明に蘇り、潤んだ瞼に蘇ります。
勿論、資料はどんどん出していただき、見ごたえのあるものにしましょう。
沖縄だけでなく、信濃デッサン館、そういえば新潟へも行きましたね。
私も様々に、体調が危険信号を点滅させています。
私が最後の沖縄で先生の姿を見て、心配したように、老いた私の姿を見ている若いスタッフたちも、奮い立って、全力でいい展覧会へ挑んでくれるでしょう。
2022年7月「私が子供だったころ 」
1942年生まれ。
終戦まぢか、神戸も大空襲を受けた。
新潟の親戚の家に疎開していた写真が残る。
父は三菱重工神戸の勤労畑で、戻ってからも転々とし、そのあと潮見台の社宅に。といっても立派な洋館に2世帯が上下に住み分けて。
そこから、須磨浦幼稚園と母が始めていた幼児生活団(週に一日)と両方に行ってたらしい。
幼稚園のお絵描きで、白い画用紙をだして「雪のなかのウサギ」と言ったという話が伝わる。
西須磨小学校へ進学。
離宮道を米軍の車両が上がっていった。
一年生のとき「こくご」の教科書が足りなく「さくらがさいた どこまでさいた」と父が墨と筆で書いた。
小学校では、1,2年のときの担任が軍隊上がりだったりした。
帰りにみんながバラバラと遊びに出て、今のギャラリー&喫茶 あいうゑむ のあたりの店に行っていた朧の記憶がある。
この年頃の子供はみんな同じだと思う。
夏は潮見台の家から急坂を駆け下りて泳ぎに明け暮れ、真っ黒で「インドのカラス」と言われた。
今の、鳩山由紀夫夫人の、みゆきさんはその頃の近所の遊び仲間で、宝塚少女歌劇へ。
その後、私が「アートエイド神戸in東京」で上京した時に再会。鳩山邸に招かれたりした。
最近も「こぶし基金」に志縁を頂いたりしたのも幼馴染ゆえだ。
私はその後、神戸大學附属明石中学から神戸高校へ、その後の合唱人生で、様々な得難い体験をした。
メンバーとしても指揮者としても多くの受賞を重ねた。
そして神戸高校合唱部が1ヶ月間にわたるアメリカ西海岸のホームステーでの旅に同行したのが前半生の卒業だったかもしれない。
特別企画展 CREWS私たちは「画廊通信」で2年にわたり世界中の皆様からご寄稿いただいた「パンデミックの時代に」というコラムの連載を終えました。
その緊張感を抱えながら今回は、パンデミックや戦争で分断されている地球全体の、私たちは乗組員CREWであるとの呼びかけの応えて、多くの方が、それぞれの思いを込めて参加されています(会期は6月21日まで)。
なにより、ここに集ってくださったみなさまの思いがうれしく、昨日も、今日も、明日も、私は、このCRUISEを楽しんでいます
2022年6月蝙蝠日記 「30年」
1990年5月28日 40才という若さで世をさった亀井純子さんから託された思いから、この基金は誕生しました。
1992年7月23日。公益信託「亀井純子文化基金」が認可。30年前でした。
そして一般財団法人設立。
その後、公益信託「亀井純子文化基金」を吸収。
2011年3月11日 東日本大震災で 「アーツエイド東北」の設立に関わる。
2011年4月1日 公益財団法人「神戸文化支援基金」として認可を受ける。
その後、基金内に冠名基金として、
「西川千鶴子基金] 2010年9月 (1000万)
「島田誠・悦子基金」 2011年6月 (1000万)
「川本昭男・やよい基金」2016年5月 (1000万)
「島田誠・志水克子基金」2018年5月 (6000万)
志縁
公益財団法人と名がありますが、兵庫県下の芸術文化支援を市民メセナで支援し続けてきました。
これを私たちは 「芸術を支える援ける」ではなく、「志の縁をつなぐ」すなわち「志縁」と呼んでいます。
緊急支援
コロナ禍に見舞われた2020年は、あらゆる芸術文化活動が休止に追い込まれた。
県下の6つの地域を役員全員で分担し、三段階で緊急支援助成(総額930万円)を行いました。
2021年もコロナ支援の意味も込め、1件あたりの限度額を20万から50万円とし、
総額680万円 26件に助成しました。
近年の通常助成の変遷は、 2018年 15件 315万
2019年 17件 395万
2020年 16件 300万
2021年 26件 680万
2022年 27件 500万
そして基金の誕生から今年2022年、30年の節目を迎えることができました。
2022年5月「CREWS」
地球全体がパンデミックで分断され、国内でも人と人とが分断され、マスク越しを強要される時代です。
例えばギャラリー島田のある神戸・北野界隈でも、パンデミック禍の前は海外、とりわけ韓国、台湾、中国のアジアの人々を呼び込み観光地として賑わっていました。
その姿をばたりと見なくなりました。
各国、それぞれに交流より分断の時代になりました。
コロナ禍で国境は超えにくくなっていますが、だからこそ「人として」、地球の乗組員としてそろそろ国境を越えて行こう、それを可能にすることこそアートの役割ではないでしょうか。
アートの世界は、分断を越えていくことを伝えねばなりません。
地域を越えて、国を越えて、繋がっていこう。
私たちは世界に繋がる作家と、時代を共有することが出来ます。
新型コロナウィルスの世界的拡大の直後からこの画廊通信で連載を開始したコラム「パンデミックの時代に」では、世界各国と「言葉」で繋がることができました。
フランス、ドイツ、英国、セルビア、カナダ、チェコ共和国、デンマーク、アメリカ合衆国在住の作家、演奏家たち、また、アフリカ、アジア、ヨーロッパ各国に詳しい国内の研究者、ジャーナリストの皆さんに、各地のパンデミック事情を伝えていただきました。
この「パンデミックの時代に」は近々ブックレットの形にまとめて発行します。
さて、私たちギャラリー島田が5月の末から6月にかけて開催する特別企画展に、私は「CREWS」と名付けました。
この時代の「今を生きる」人たちは誰しも「乗船者」として魂に刻印を受けることになります。
私たちは地球の運命共同体の乗員(CREW)として「今」を伝えようと呼びかけます。
私たちが乗っているのは、遥か未来を目指す銀河鉄道かも、沈没を運命づけられたタイタニックかも、予想もつかぬ場所へと私たちを連れていく異次元の乗り物かもしれない。
あなたもまた一人のCREWとして「今」を表現してくださいという思いを込めて―
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある…
われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する…
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ…
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より
2022年4月「11年」
東日本大震災から11年になりました。
私の生き方に大きな影響を与えた二つの震災。神戸と東北。
1995年の阪神淡路大震災。そこから立ち上がろうとした「アート・エイド・神戸」。
そして2011年3月に発生した東日本大震災では「アーツエイド東北」の設立に関わりました。
振り返れば4月の初めからその後の1年半ほどひたすら被災地を巡礼のように歩きました。
そして6度目の東北入りをした私が「せんだいメディアテーク」で運命的に加川さんと出会ったのでした。
神戸の震災から立ち上がったものとして「この巨大絵画を神戸で」と思い詰めて伝えました。
そして会場探しに奔走しました。巨大ゆえに入る会場がなかなか見つからず、いよいよ諦めかけていたとき、KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)と出会いました。
奇蹟的に寸分たがわぬ寸法で加川広重の巨大絵画「雪に包まれる被災地」「南三陸の黄金」「フクシマ」がおさまり、「巨大絵画が繋ぐ東北と神戸プロジェクト」を開催できたのです。
私がひたすら被災地としての東北を歩いたことを踏まえて赤坂憲雄さん、髙村薫さん、加川広重さんと私との対談をしたのが、プロジェクト2年目の2014年。
その詳細を『こころざしの縁ー東北の復興、福島の復興と日本の明日』としてアート・サポート・センター神戸から刊行しました(2014年10月15日刊)。
3年目の2015年には福島の原子力発電所建屋を描いた「フクシマ」を迎え、最大規模でプロジェクトを開催しました。
その後、フランスのMortagne-au-Percheでは、テロの影響で規模縮小となりましたが、「11/3/11 FUKUSHIMA」として開催。記録誌(フランス版)も刊行され、大きな話題になりました。
黙然をりて
樹木とは 山崎佳代子
三本の手をお持ち
背中の三本目の手で
誰かと繋がっておいで
旧い東の歌を
母の国の言葉で
誰かがくちずさむ
思いをめぐらせば
あらゆるものは
結ばれている
目に見えぬ者が
男の土地に旅女を
つなぎとめたように
沙羅双樹の幹に
若枝が芽を吹いて
木の葉の手をひろげ
四月の光を浴び
人は樹木なのか
森とは人の輪なのか
背中に芽生えた
新しい手をひらく
まだ見ぬ人の手を求め
手とは
天からふりそそぐ
光のことにちがいない
詩集 黙然をりて 2022年3月10日 刊行 書肆 山田
東日本大震災から11年の日に山崎佳代子さんの詩集『黙然をりて』が届きました。
装幀は扉野良人さんです。
2019年10月には「ドナウの小さな流れ、小さな水から視る世界」と題し、山崎佳代子さん、季村敏夫さん、扉野良人さんにギャラリーでお話をしていただきました。
刊行を準備しているブックレット『パンデミックの時代に』に山崎さんのベオグラード(セルビア共和国)からの寄稿も掲載されます。
2022年3月「中島由夫との出会い、今」
1984年、海文堂ギャラリーを訪ねてこられた中島由夫・文子夫妻と出会った。以後、毎年のように個展を開催することになった。
88年には現代芸術運動コブラの流れを汲むヨルゲン・ナッシュとリス・ツヴィックを招待。
89年に中島さんは海文堂書店の東壁面に15m×4mの巨大壁画を描いた。
94年、厖大な資料を整理して、中島由夫の基礎文献となる「Yoshio Nakajima Document 1940 – 1994」(編集:佐野玉緒)を海文堂ギャラリーから出版した。
95年の阪神淡路大震災の後、私は「アート・エイド・神戸」の活動に取り組むことになる。
”すべての地に新しい陽は昇る!”は、私たちを励まし続ける言葉だった。
その後刊行したアート・エイド・神戸の記録集の表紙には、北欧の太陽を描いた中島さんの
鮮やかな作品を使わせてもらった。
「Yoshio Nakajima Document 1940 -1994」の中の山野英嗣さんの言葉——
抽象絵画の先駆者であるカンディンスキーやモンドリアンにしても、彼らの絵画空間においては、自然のイメージが放棄されて新たな人工世界が創造されているのではなく、そこでは、自然的なものと精神的なものとの融和が成し遂げられているのだと、私は思う。そして現代、絵画の領域はあらゆる意味で、その可能性が吟味し尽くされたような観を呈している。これは、高度に情報化された社会にあって、創造者自身でさえもが、余りにも人工的産物に触れ過ぎているからではないだろうか。
だが、白夜のスウェーデンに野営し、そのダイナミックな自然をアトリエに、強烈な意志によって、色彩と形態との絵画の根源を形成する葛藤を追求し、絵画の可能性に挑戦し続けるひとりの日本人画家がいる。極寒の地に身を委ねながらも、あくまでも研ぎ澄まされた造形感覚の持ち主、それが現代抽象画家に地平を切り開く中島由夫氏である。
山野英嗣(兵庫県立近代美術館学芸員 ※当時)
そして中島由夫自身の言葉——
北国の冬は永く、暗くつらい毎日である。
森や林の中に咲く野花、この花さえも、地下まで凍る、冬の寒さに耐えて春を迎えるのである。
太陽を待ち、あこがれる大自然と人間。その姿は健気で私の心をとらえる。
北欧の天地が冬の支配から脱して、春、太陽をまつそのよろこびは、
いつも太陽のある国の人々とは全くちがう。
6月に入り白夜になる。
人々の表情は明るく、大人達も子供の様に外にとび出していく。
雪の残りがキラキラ光る。
太陽が大自然と人間に愛を与えてくれるのだ。
白夜。それは生命の炎が燃焼する時であろう。
私も、自分の求めている太陽と大自然の太陽とに出会う。
中島由夫
こうした中島由夫さんの出会いと今を、どうしても残しておきたいと考え、企画したのが今回の中島由夫展の大切な意味です。
中島さんは1940年生まれ、私は1942年生まれ。中島さんはいまでも、雪がちらついていても上半身裸で外で描いてるそうで、やわな私とは全く違います。
長い長い付き合いですが、今生、最後の二人の仕事だと私は思っています。
2022年2月「阪神淡路大震災から27年」
津高和一さんのこと
ギャラリーの用件でイギリス在住のフェルナンド・モンテスさんを訪ねた帰途。
ソウル経由で神戸の震災を知り、大阪空港で対岸の神戸が燃え盛るのを見た。
翌日、西宮から徒歩で神戸に向かった。その西宮で津高先生ご夫妻がお亡くなりになられたことは知る由もなかった。
前月の20日ころに奥さまからのお電話で津高邸にお伺いして作品を求めた。ご夫妻に促されてのことでした。
その作品が今回のDMに使われている作品「響」です。私が購入することを決めて、それからサイン・日付を入れられたと思います。
私にとってのこの作品は絶筆であり、遺言であるように受け止めています。
その後の作品の行方やお墓のことなど様々なことは吉田廣喜さんが導かれました。
そして、今回、様々な陶の作品、その小品、断片なども珍しいものです。
大作は親しくさせていただいてきた三木谷良一さんの奥様からお借りさせて頂きましたが、サンパウロビエンナーレの出品作や様々な来歴のあるもので、蘇るものがあり、目が離せなくなります。
堀尾貞治さんのこと
ギャラリー地階、正面のパティオ上部の壁面にある作品が2005年の横浜トリエンナーレで、会期中に会場奥の壁に毎日赤白のストライプをスタッフが塗り続けてきたその作品の一部で、終了後、堀尾さんが持って来てくださり、今の場所に展示し続けているものです。
もう17年に及ぶのですね。
「あたりまえのこと」が尋常ならざるものとして「ある」ことを、豊富な資料とともにご覧ください。
こうして膨大な資料を拝見していて、気がつきましたが、どの写真も笑顔がいいですね。怖い、あるいは怒っている姿は一枚もありません。
東北大震災へ
神戸の大震災から、「アート・エイド・神戸」が誕生し、被災地から生まれた芸術を大規模に東京で、そして福岡で発表しました。
そして2011年の東日本大震災。財団法人「神戸文化支援基金」に倣って「アーツエイド東北」を立ち上げた。
2012年1月、加川広重が巨大絵画「雪に包まれる被災地」を仙台メディアテークで発表。神戸での3回に及ぶ巨大絵画プロジェクトにつながった。
その後、縮小した規模になりましたがフランスのモルターニュ・オ・ペルシュで山田晃稔さん・迪子さんご夫妻が中心となり「11 / 3 / 11 FUKUSHIMA」を開催、加川広重の巨大絵画のレプリカも展示され大きな話題となりました。
2022年1月蝙蝠日記 津高和一
母子像 1951 曲りくねった続柄は母子列伝。系譜の糸を持った手が鮮やかに染まり、母子は今日という日に私語する。
埋葬 1952 遍歴の跡も残さない不在証明。前後左右。それに頭上に脚下。この風景の中で僕はいつか紙ヒコーキを飛ばした。きょう風信は、樹木たちの口伝のざわめきを聞く、ぼくの耳のことだった。
作品 1953 痕跡だけの町で、漂泊粉を持った男がいた。青い空にそれを撒くつもりなのだろうか。
転移 1956 抜けた天に、立てかけた梯子があった。
作品 1956 空白に座っていた。呼吸をととのえようとしているのである。
シュク 1957 この鉄道は不毛の未開地にまで伸びていた。
連 1957 音というものは外側ばかりから聞えてくるものではなかった。内側からも響いてくるのである。
雷神 1958 むかしこの国にはいろいろの神がいた。恐ろしくて手のとどかないものは全部神だった。
いまも口ごもる神が僕のそばにいた。
血縁 1959 ここの住民たちは奇妙な風土病にかかっていた。だれもが煎じ薬を沸かしていた。
とつ 1960 ぬっと立ているやつ。よく喋るやつもいた。ときにつんざくような声で喋るやつもいた。
無名への挑戦 1960 むろん、その逆だってあるのだ。
いのち 1960 果実の汁のようなものだった。
寂 1961 風説は、パラボラアンテナにかからない。耳から耳に伝染した。
吃線 1961 渡り鳥は千里眼のようだった。はるかに遠い風景を映すのである。
塊 1961 僕は自家製の暗号帖を持っている。髪の毛のように細長い記号や、掌のように平べったい符号。
それに焙り出さないと出ない文字もあった。
作品 1962 かれの航海術心得のなかには記載漏れがしばしばあった。
作品 1962 山を下りた呪術師は決まって陽あたりの悪いところに住んだ。
作品 1963 祭日はわが博物誌。蕾の向日性に揺れる。
作品 1964 気象台の降雨量測定にときおり誤りがあった。気まぐれな僕の旅行日程表にも赤鉛筆の注意書きがある。
兆 1965 辺境では戦火が広がり、宇宙衛星は威嚇銃のような大きな音をたてなかった。
漠 1965 コンピュータ占いはよく当るという男が、おんなに話していた。
MAN 1970 その男は舌を出した。喋ることを忘れているのである。
時間 1971 化石になった魚は、一億年目の僕の掌の平で凝固していた。洗剤の白い泡が奇妙なかたちにふくれる。
伝説 1971 木目は落差を測り、移住した人々は転居不明だった。
「津高和一は水と空気の捕捉者だ。……広漠たる空間になじんでいく絵画。造形意志、造形意識よりも、たとえば味覚や聴覚や予感によって、導かれ、方位を定められている絵画。見えるものよりは見えないものを、一層強く感じさせる絵画。」
大岡信の言葉
以上「山村コレクションによる 津高和一 作品の流れ 展」(1971年)図録より
堀尾貞治
存在には理由はない。
収入と収支はまったく無関係である。
存在には理由はない。
存在には次元の異なるものが入りまじっている。
存在には理由はない。
言葉は物の表面をなでまわすに過ぎない。
存在には理由はない。
人が生き、物がそこに在ることは奇怪である。
存在には理由はない。
絵画はいろいろな次元に存在する。
存在には理由はない。
傑作は理由を問うことを断念させ、鮮やかに存在する。
存在には理由はない。
重要なのは理由のないことである。
村上三郎 1963
『あたりまえのこと 堀尾貞治 90年代の記録』 山本淳夫学芸員の文章より
表札としての「無窮工房」。「色塗り場」「一分打法」「あたりまえのこと」も、ひたすら反復することで「あたりまえでなくなる」
「あたりまえのこと 今
ことさら作品をつくることをせずに「今」という時間で僕にかかわることをだしてみようと考えていたので ぎりぎりになるまで 作品らしいものが出てこない状態で阿吽響というスペースにかかわらしてもらった。 床のスペースが美しいので それをそのままでもよいのですが ちょっとだけごまかしを入れてかかわりをもった
壁面の作品は今まで作っていたもので 手元にあるものを考えることなく置いたという感じであります。
とても無責任な個展という感じです。」(略)
18.APR 1994 朝
堀尾貞治
この文は、活字になったことのない文章の部分です。記録集に写真で写り込んでいる自筆文章の前半です。