加藤周一先生に、私の理想は木村蒹葭堂のような生き方です、というと即座に「財力が問題だな」と言われた。まったくその通り、芥川龍之介に「蒹葭堂のコレクションにはクレオパトラの髪の毛もあるはずだ」と言わしめた膨大な博物資料、書誌コレクションは大名も舌をまく充実したものである。わたしなど逆立ちしても及ばないのは勿論である。勿論、問題は財力だけではない、そういわれたのは加藤先生の優しさである。 でも長い間、蒹葭堂は若くして楽隠居して造酒家にお本家からの年30両の援助で妻妾、娘、奴婢の5人家族を養いながらやりくり算段したと信じられてきた。これも芥川龍之介の試算に従えば、当時の30両は今で言えば、せいぜい年収300万円くらいらしい。それならば私にも蒐集できると考えるのは浅はかで、中村真一郎が見事にブルジュア木村蒹葭堂の謎を解いて見せている。
 鴎外(前回の通信では欧外と書いていて申し訳ない。訂正します)は渋江抽斉で新しい史伝小説の形式を発見した。それは渋江の中に?外は自分自身を見て、充分な資料を発掘して年代を追って詳細に再構築する(推理小説的謎解き)、事実を尊重して粉飾を加えない「知的私小説」としての独創的形式だと加藤先生はおっしゃる。勉強会での私の質問は 「抽斉が亡くなるまでの前半は確かにそうだけど、後半になって人物が生き生きとしてくるのは史伝的というよりは想像力によるロマン的手法ではないか?」。
 加藤先生の答えは「確かに、後半は史伝に徹底していない、それは現実生活において女性に恵まれなかった?外が抽斉の4人目の妻、五百(いお)を理想の女性として書いたからだろう」「鴎外が発見したこの史伝の手法は、後にあまり発展しなかった」
 私の質問は「先生の盟友の中村真一郎先生が”木村蒹葭堂のサロン”を書いたのは、この手法を徹底したのではないですか」
 加藤先生の答えは「中村が書いたのは蒹葭堂という中心よりは、当時のきら星のごとき文化人との交流を書く事によって江戸という時代の面白さを浮かび上がらせた」
 たしかに中村真一郎は手法としては?外が発見した史伝の手法を踏襲しているが浦上の文ちゃんのお父さんが絶賛したという簡潔にしてポエムの連続であるという文章の美しさとは遠く、冗長である。美術的に言えばコラージュ(いろんな素材を断片的に貼り合わせて色や線で構成する抽象画)でありパッチワークである。
 そこで中村真一郎が推理小説的に発見した蒹葭堂の実像である。従来の年30両の僅かな本家からの楽隠居としてのお手当てでは絶対にかくのごとき膨大なコレクションを成し、博物館を運営することは不可能である、実は彼は大阪商人としての抜け目なく自分のコレクションを生かしたビッグビジネスを展開していたのだということを中村は発見した。しかしその財力をまたコレクションに再投資していたわけで私生活が華美であったわけではないようだ。
 蒹葭堂(けんかどう)について、もう一つの面白い発見を紹介しよう。彼が貧しい家計をやり繰りして博物の蒐集をしたという伝説を中村真一郎が異論を唱えているが、中村氏の本に3枚の木村蒹葭堂の邸宅図が掲載されている。谷文晃の下図と本図、もう一枚は蒹葭堂自身によるものである。まことに堂々たる大邸宅である。門前に河が流れ、庭園、菜園、果園、何棟にも別れた書庫、魚沼、迎賓室など。遠くに山並みが望まれ理想郷である。さすがに凄いブルジュアであると信じていた。ところが、今回入手した水田紀久氏の「水の中央にあり 木村蒹葭堂研究」(岩波書店)によると、いままで蒹葭堂の邸宅と信じられてきた谷文晃の図は、じつは実物を写生した真景図ではなく、蒹葭堂が、こうありたい、こうあってほしい、と言う自適の理想を文晃が描き記した架空の邸宅図であると指摘している。面白いなあ。

 家人に「木村蒹葭堂のような生き方が私の理想である」というと「島田喧嘩堂と違うの?」と返された。そういえば私もあちこちで衝突してきた。喧嘩堂を名乗る資格はあるのかもしれないが、木村蒹葭堂も若い時には革新的であり、長じてからも開明的なコレクションが危険視されて、現代的にいえば酒造法違反という冤罪(えんざい)で蟄居(ちっきょ)を命ぜられたり、没後すぐに危険視されていた蔵書などが500両という安値で幕府に買い上げられたりしている。こうした蒹葭堂の生き方について中村は「かれはブルジャージーという、公卿や武家に対する第3身分の塁に拠って、封建的身分秩序に風穴を明けようとしたのである。その意味で、学芸と好事に遁れて身を守りとおした彼は、心の底では少年時の革命的態度を生涯貫いたとも言える」(p674)と評している。  ところで水田氏の「水の中央に在り」とは、澱みを潔く流し去り、濁りをも自浄し、流れ、交流して止まぬ水の本質に例えて、文化も逆流、停滞、枯渇が許されない、その流れの中央に木村蒹葭堂は在ったという意味である。私のサロンもほんの小川にすぎないが、そうした役割を少しでも果たせればうれしい。

  余談だが、東大国文学研究資料館が故・中村真一郎(大正7年3月5日生、平成9年12月25日没、享年七十九歳)の蔵書のうち、氏が半世紀近くかけて自ら集めた和装本831点(2181冊)を購入した。十数点の漢籍を除けば、全ては江戸期から昭和にかけて日本で印行された漢詩文集である。そのほとんどは、日本人による著作であり、中には和刻本70点ほども含まれている。購入金額は知らない。中村は「新潮」連載中に没したが幸い草稿は完成していた、平成10年3月号まで連載され、僕が手にしている大部の単行本が刊行されたのは平成12年3月30日である。  ところで渋江抽斉の生涯は53年、森鴎外は61年、木村蒹葭堂は67年、中村真一郎は79年である。私にとっても人生のゴールはおぼろげに見えてきている。画廊の仕事は肉体的にも結構激務である。それに私は荷物を限度一杯に抱え込む性癖がある。幸い健康に恵まれたとしても、このペースで走れるのはせいぜい10年か。しかし震災からすでに7年半が経とうとしていることを考えれば10年は瞬時に等しい。今、着実にゴールに向かって、後悔なき足跡を刻んでいくことである。そのためにこそ海文堂を離れ、元町を離れ、ギャラリー島田とアートサポートセンター神戸に専念している。

森鴎外と藤島武二
 小林柱(株)の小林博司社長から東京の藤島武二展が素晴らしいから行ったらと勧められて 上京した。ブリジストン美術館の開館50周年記念展で、これだけの藤島展はあと30年はお目にかかれないだろう。明治、大正、昭和を生き抜き、半世紀にわたって日本洋画壇をリードしてきた堂々たる歩みをつぶさに見られて満足でした。20代の作品からしてすでに才能を確信させ、それがたゆみなき努力と人間的スケールを加えていくに従い、画風画格とも充実していくさまは壮観ですらある。一言で言えば、土方定一が黒田清輝の画業を評した「幸福環境、幸福な才能、幸福な時代」に生きた人と言える。これは小磯良平にもそのまま当てはまる。したがって見る人を幸せにし、本人も栄光につつまれた。しかし、ひねくれものの私などは、29歳の時に黒田清輝の招きで、新設された東京美術学校洋画科の助教授となり、38歳にして文部省から派遣されて満4年間フランス、イタリアへ留学、その後のアジアへの旅のすべて国がらみの仕事であり、最晩年の「日の出」「耕到天」到るシリーズはナショナリズムが色濃い、と見る。
 ここで触れておきたいのはそのことではない。僕が上京したときは森鴎外を読み耽っている時で、藤島の初期、26歳時の明治美術会第5回展の「桜狩」を見た鴎外外が「なかなかいいじゃないか」と快活な声を上げたらしい。24歳の油彩第一作「無惨」は、白滝幾之助の名前を借りて出品したらしいが、この時から鴎外は藤島を買っていたらしい。鴎外がドイツ留学から帰ってきた直後の29歳のころである。本質的には「官」の人であった鴎外が、やはり「官」の人となる藤島を早くから見抜いていたように見えるのが面白い。
 そのあと安田火災東郷青児美術館での「ユトリロ展」に回った。藤島と正反対の不幸を背負った芸術家の姿が痛ましい。それは不幸な出生、アルコール中毒のことではない。
 乏しい才能を振り絞るようにして定規を当てながら遠近法をとって、生真面目に売れる絵を描こうと努力し、そこに隠しようもなく滲みでる孤独の影、それがユトリロの本質ではないか。 したがってユトリロの作品は駄作も多い。しかしその孤独と郷愁が人を引きつけるのも事実である。ちなみに藤島のパリ滞在中にユトリロは画家として認められ、代表的な「白の時代」の入口にいた。会ってるかもしれないしユトリロの作品を少なくとも目にしてたはずである。「われ勝てり」と思ったのではないか。
紫陽花と李(すもも)
 6月は我が家は額紫陽花と李の季節である。小さな庭に額紫陽花の美しい花が心を和ませてくれる。花音痴の私も桜とバラと紫陽花くらいの区別はつく。そしてこれも猫の額にそぐわない李の大木がある。家人によると、どちらも26年前ころに、ここ鷹取山の北裏に越してきた時に苗を植えたものらしい。10年もすると見事に育った李は毎年、食べきれないほどの見事な実をつけ、近所に配ったり、ジャムにしたりして我が家の食卓を飾った。でも次第に、春先から大量に毛虫が発生するようになり、ほっておくと葉が食い尽くされて、身の毛が逆立つような恐ろしいすがたになる。収穫のために木に登るのではなく、毛虫退治に追われるようになってきた。震災後は、すっかり実をつけるのを止めてしまい、僅かに付けた実もヒヨドリの餌食になるか強い風で落下して私たちの口に入ることは稀であった。
 老化だろう、もう実を付けることはないだろう、日当たりが悪くなるのでと、すこし枝落しをしたのが去年である。とっくに実をつけるのを期待もしなかった今年、ふと見上げた枝枝に小さい緑の実が思いがけずにたわわについているのに気がついた。でも大風が吹けばそれまでと期待もしていなかったが、しだいに赤く熟しはじめ、毎朝、鳥たちがうるさく啼きながら啄ばみにくるようになった。鳥たちも未熟で酸っぱいあいだは食べない。よく知っている。こちらは補虫網に布をかけて枝に引っかからないようにして木に登ったり、梯子に乗ったりして採取する。雀やヒヨドリとも競争である。
 我が家では、冷蔵庫でも、ステレオでも家電製品はなべて長寿であるが、故障がちになり、明日捨てようと話し合うと、必ず故障が直る。李にしても、老化が激しいと枝をおとしたので一念発起したに違いない。それで今、やっと気がついた。私がギャラリー島田で、再スタートをきったのもこの家の神と山の神が「もう捨てようか?」と話し合ったに違いない。