ギャラリー島田の40周年、公益財団法人「神戸文化支援基金」(こぶし基金)は25周年を迎えた。
ギャラリーはそれにふさわしい展覧会が続き、全力で挑んでいる。
創業59年だった1973年にサラリーマンだった私が海文堂書店を託され、創業86年の2000年まで率いた。

財団は25周年記念誌「志の縁をつないで そして未来へ」を刊行した。
記念誌の「はじめに」に寄せた私の文は「託されて」と題されている。
40才の若さで亡くなられた亀井純子さんから託された思いが、連綿と繋がり同心円的に広がったこととを書いた。

ふり返れば私には野心もなく、明確な未来図はなく、託されたことをこつこつとやり続け拡張していく建て増しの精神で、くたびれたら終わるのだろう。
三段跳び

書店についても二度(’74,’75)の増床を試みたあとに新築(’81)に至った。新築工事中は仮店舗で営業。
この間、「ポートピア’81」のガイドブック販売で毎日、会場に通っていて榎忠の≪スペースロブスターーP-81≫と出会い、その威圧的な迫力に圧倒されたが37才の若者のが作ったことは知らなかった。当時、私は39才だった。

ギャラリーは’78にはじめ、’80に新築したスペースをさらに’88に拡張した。確かめながら少しづつ登ってきた。

人生そのものも大企業に務め、そして海文堂、そしてギャラリー島田。そのUn deux trois そのものが三段跳びを表している。公益信託「亀井純子文化基金」も一般財団法人「神戸文化支援基金」から公益財団法人へとステップを踏んできた。
内実を与える人たち

それを支えてきた人たちがその歩みや試みに内実を与えてきた。人に恵まれて今がある。

海文堂書店については「海の本屋のはなしー海文堂書店の記憶と記録」(平野義昌)に書かれている通りだ。
歴代店長とスタッフが成したことが、かくも惜しまれたことを物語る。

海文堂ギャラリーは後の銀閣寺花方の珠寶、歩歩琳堂の大橋信雄などが支えてきた。

ギャラリー島田でも、財団にでも、関わるプロジェクトでも、優秀なスタッフが支える。
展覧会のラインナップ内容、取り組み方、広報など、私の想定を遥に超えている。
チームにはスタッフ以外も加わりコモンズ(Commons)を成す。怒涛のように押し寄せる成すべきことも量も質もついてい行けないほどだ。その源が私であっても。
ありがとがんす。
入り乱れて

今回、思いがけない遺贈をいただいた志水克子さんは、海文堂書店で私のもとで27年間はたらき、94才で亡くなられた。万が一つにも起こらない信じがたい奇跡が起こった。
この小さな基金に無名の市民の皆様からよせられた寄付が1億5千万円となった。これを誇っているのではない。
「そして未来へ」と新しい課題を負い、戸惑っている。
それぞれに、かけがえのない日々が重なる。

私はといえば鍛えることもなく、心がけることもなく、視覚、聴覚、記憶力、判断力、そして体力に至るまで低下するに任せている。低下していなくとも自身の能力はしれている。

周りに能力に優れた皆さんが集まるのは案外、そこにあるのかもしれない。
見かねて、私の思いをデザインし、詳細設計に落とし、実施計画から施工にいたる。私は絶えず、追いかけられるように承認を与え、その責任を担う。