「銀河鉄道の父」(門井慶喜)を夢中で読んだ。今年の直木賞受賞作です。このなかで繰り返しでてくる言葉「ありがとがんす」が印象的でした。

私たちは今、鈍行列車「こうもり号」で40年目の旅をしています。

宮沢賢治の、みんなの幸いさがしにいく「銀河鉄道の夜」
島田誠の、日曜大工の駅舎から出発した「鈍行列車こうもり号」

積み重ねた時間は過ぎ去るけれど、決して消え去るのではありません。時間も経験も、どこか深部にゆたかにたくわえられていくのでしょう。現在が過去を喚びさまし、過去が現在を照らしだす。過去の裡に現在が見え、現在のなかに過去があらわれる。そんな綾なしこそが、多くの皆さまとともに織られたものです。Memorial Bookはその証であり、collectionのシリーズ「旅の窓」展でその姿を眺めていただきます。

始発TERMINALを出ました。
旅の日々がゆっくりと静かにすすんでいきます。これからの日々をご一緒する皆さん、とりわけ藤本由紀夫さん、榎忠さんは、ずっと願ってきて、今回、実現できたことがうれしいです。藤本さんは個展としては神戸で初めて。榎さんも今回のような形での個展は初めて。三つのスペースを使って、一ヶ月です。中辻悦子さん・元永紅子さん・川嶋守彦さんの元永定正さんに繋がる三人の皆さんも三つのスペースで2週間。疾風怒濤の書家、沢村澄子さんで動き出し、ベルリンの加藤竜さんをはじめ、多くの初登場の方々、40年を支えて下さった作家の皆さん、どれ一つとして息の抜くことの出来ない展覧会が続きます。

まさに「ありがとがんす」と伝えねばなりません。その先にしだいに見えてくるものがあります。
それは、まだ見たこともない深い光に包まれた長い長い旅での鉄路の先の「幻のような駅」です。

宮沢賢治がジョバンニに託した深い孤独のうちにみた幻視なのか現実なのか。
私の「駅」も泡沫の幻影で、気がつけばギャラリーの私の部屋でうたた寝から目覚めるのでしょうか。

そうなれば「鈍行列車こうもり号の夜」を書きましょう。
私たちが今ここにあることは、無数の細かな偶然がふりつもり綾なすことにほかならず、そのことをおもわず「見えざる手に導びかれて」と書いたのでした。「見えざる」とは特定の神、佛をさしているのではありません。声なき声。幽けし音。見えざる手は自分の心の内に棲みついた、なにかのっぴきならないものかもしれません。そののっぴきならないものが、今の世間の在り様に背を向けさせているのですが。
組織があり、地位を上昇させる欲望によってすすめられるのは、特権としての文化である。
人間が生きていくための必要によってすすめられる文化とは人権としての文化です。
この文化を学問として語ったのは鶴見俊輔さん。

「幻のような駅」は鈍行でも停車するTERMINALのようです。このTERMINALは終着駅なのでしょうか、新しい未来への列車の乗り換え駅なのでしょうか。生きていくための文化のために「見えざる手、聴こえない音」の到来を待っています。

賢治の「銀河鉄道」が未完だったように、私たちの旅も未完に違いありません。

このところの蝙蝠日記が、どこか道徳的であったり説教じみていると感じられるかもしれません。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の賢治の詩。その最後は「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」
そう。私もなりたいと思っているのです。
おらおらでひとりいぐも

もともと孤独癖があり、単独行を好む私ですが、ここまで来て更にその思いが強くなっているようです。
今年の芥川賞は若竹千佐子(わかたけ・ちさこ)さん(63)。そのタイトルが「おらおらでひとりいぐも」で、宮沢賢治の詩からです。

おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが。

この本はこの言葉からはじまります。そんな思いもするこのごろです。
二つの賞が岩手の賢治に関わっていることは、大切なことを伝えていると感じます。
そして私たちの40周年は、その盛岡から沢村澄子さんを迎えて幕を開いたのでした。不思議な縁を感じなら歩き続けています。
旅にしあれば

家にあれば筍に盛る飯を草枕
旅にしあれば椎の葉に盛る
有間皇子 万葉集から
この歌も旅の行先を暗示しているのですが、私たちは鈍行列車の待合室で、ふと知り合いに出会ったように書いていただくコラムとして「旅にしあれば」をはじめました。
後藤正治さんに続いて、今回は窪島誠一郎さん。「信濃デッサン館」「無言館」ニュース(季刊)の内容は充実していて素晴らしいです。
窪島さんの今年の年賀状は自筆で「朽ちて立つ」。ニュースの編集後記には、「すっかり老いたが、恥をかいてもやりとげたいものを追う 私の人生はかわらない。」とあります。
Memorial Bookの1995年9月4日に窪島さんが書いて下さっている言葉は、「絵の中の放浪」。のちに「無言館」の設立につながる「戦没画学生の絵画」を野見山暁治さんと収集されておられ、その最初の展覧会を海文堂ギャラリーで開かせていただいた。阪神大震災が「50年目の戦場神戸」と呼ばれていたことに縁ります。その縁結びは木下晋(鉛筆画家)さんでした。