皆さんが読んでくださる頃には75歳を迎える。そしてギャラリーは来年、40周年を迎える。
何度も言ってきたことである。その年月に加えることはない。
今は、その年月を支えてくださった皆さんのことをひたすら、ありがたいと振り返っている。

私はいつもアマチュアだった

サラリーマンの衣を脱ぎ捨てて海文堂書店を継いだ。右も左もわからぬままに。
ギャラリーを始めた。右も左もわからぬままに。
北野でギャラリー島田をはじめ、今に至っている。

1981年に書店を新築。そこをデザインし、基本的な理念を提示した。2013年に100周年を目前に閉店するまで、書店の声価を高めてきたのは小林良宣、福岡宏泰の店長が率いるスタッフたちだった。閉店は残念ですが、私の理念を遥かに超えて、あれほど惜しまれ、愛される書店に育てあげたのは彼らチームの本への愛なのだ。

ギャラリーを担った人たち

1978年に海文堂の社長室兼応接室を自ら改装してギャラリーをはじめた。書店新築にともない本格的なギャラリースペースを持った。右も左もわからぬ私に前を向かせたのが亀之園洋子(現・大橋洋子)。そのあとを大橋信雄や佐野珠緒などが発展を支えた。現在、大橋信雄はギャラリー「歩歩琳堂」を、佐野珠緒は銀閣寺の花方として国際的に知られ、いま花士珠寶として活躍している。
世界的なアーティスト中島由夫を日本で継続的に紹介するために大橋洋子は「中島由夫画集」を、佐野珠緒は「Yoshio Nakajima Document 1940-1994」の編集に関わり、大橋信雄は松村光秀の画集「身・姿」(光琳舎)

ギャラリーを担っている人たち

海文堂を離れてこじんまりとやろうと場を探す私を叱咤したのが悦子(妻)だった。2000年に北野でギャラリー島田を開設。林淳子(当時は法橋)は新しい場を中心(ほとんど一人)で支えながら石井一男画集「絵の家」「絵の家のほとりから」「女神」(風来舎)の出版に関わった。島田容子は様々な業務を改革しながら斬新な企画に取り組み、アート・サポート・センター神戸の取り組んだ「加川広重巨大絵画プロジェクト2015」の中心として、私の思いもよらぬコンテンツを詰め切り中井明子の事務局とモニュメンタルな規模で成功させた。
この中井、島田が公益財団法人「神戸文化支援基金」の事務局を支える。

そして今

ギャラリー島田がUn(地下)、Deux、Trois(1F )の三つの場をもつことになった。
なんの展望もないまま、隣接する場が空いたことに押されてのことで、これは時代に逆行している。
そして今を支えるのがまだ2年前後を過ぎた猪子大地、松浦友与。彼らが加わることによって毎日のように業務が改革され整備されつつある。林淳子、島田容子も子育てをしながら関われる範囲でチームを形成し、インターンさんたちと共に、コモンズを形成しながら有り余る課題解決に追われている。

やりがいに火をつける

なぜいつまでもアマチュアでしかない私の周りで事は起るのだろう。
だいたい、私がこうしたいと始めること、私の思いの2倍くらいのことがいつも起こる。
うすうすと感じはじめたのが中学のころからだった。望まぬままに何故かいつもリーダーだった。
楽器も弾けない、音楽理論も知らないのに、合唱団では指揮者だった。歌い手に余程、専門家がいるのに。これも不思議でならなかった。
組織になじめず、水平的で、自由でありたいと孤立へ向かうのに何故、リーダーを要請されるのか。Topにならないリーダーの役割をみんなが望んでいるのだろうか。
ともあれ、自分は自分でしかない。
スタッフや関わる多くの人たち、そして作家たち、アーティストたちの心のやりがいや生きがいに火がつくのであれば、それが私のやりがいであり、生きがいなのだ。