神戸新聞の記事が伝えなかったこと

海文堂創業者である岡田一雄は、亡くなった妻・悦子の父です。私が三菱重工の経理担当サラリーマンであった時に先代が重篤な病で手術をし、亡くなる直前に何度も念押しするように書店を継ぐように頼まれ、「サラリーマンでいて」と心配する家人を振り切って書店の世界に踏み込みました。1973年のことです。その後の苦労を思うと、その選択はどうだったのでしょう。
神戸新聞が「海よ、さらば」元町・海文堂書店の99年―を9月13日から15日まで3回連載で紹介しました。大きな欠落があり、まことに残念です。
私が継いだ時は今の店の西半分に2階建ての老朽化した木造店舗(70坪)、東半分が空き店舗(少し前まで海文堂が経営する「三好野」という食堂)でした。
せっかく大企業を辞めて継いだ事業です、なんとかしっかりとした書店に成長させたいと願って、お正月三が日は空き店舗の前に児童雑誌や児童書を並べ家人や子どもと、初詣に通る皆さんに販売したりしたことも思い出されます。1976年には空き店舗を書店に改造し、100坪とし、児童書、雑誌、学習参考書などを充実させました。私が児童書を担当しました。子どもに読んで欲しい本を家人の友人である宮崎豊子(児童文学研究者)さんに選んでもらい、隔週土曜日に「読書相談」「こどもの教育相談」のコーナーを作り、後者は私の母が担当していました。これが田中智美さんが率いる現在の児童書の海文堂へと繋がっていきました。
西側店舗の2階の床が揺れる感じで、全面改築に踏み切ったのが1980年~81年。ちょうどポートピア博覧会の時で、仮店舗で営業しながら売り上げはポートピア博覧会場でのガイドブックの販売が補ってくれました。あのままの店舗で営業を続けていれば震災で倒壊していたでしょう。250坪の全体を9のゾーンに分け、それぞれを専門店の集合と考え、担当をブックコンサルタントとしてゾーンごとにデスクを置き、棚つくりをまかせました。当時は斜陽元町と言われ、まだメリケンパークもハーバーランドもなく、信号を超えて4丁目にはいると客足も疎らで、今とまったく違いました。
三宮から、わざわざ店まで足を運んでもらうために特徴ある棚と店としての付加価値を表現するギャラリーとマリーングッズ、子どもの教育玩具(スウェーデン製)などを始めました。流行を追わず、愛書家にも愛される棚を、そして書籍だけではなく「文化」を発信する拠点であることを目指しました。 私は27年間、社長を務め、古い店舗を段階的に今の規模とし総合書店としての基盤を創り、地域に密着した書店としての挑戦を続けてきました。
ギャラリーや、街づくりや、多角的な取り組みを批判的に見ていた方もおられましたが、この地でこの規模で経営するためには文化拠点としてのイメージは経営戦略としても重要です。海文堂書店はグループの一員といいながら大きな家賃を支払ってきた独立経営です。いい棚だけでは必要とされる売り上げは達成できません。
この連載において私には残念ながら取材の申し込みすらありませんでした。閉店のニュースへのコメントを求められ、私にとって簡単にコメントですむことではないことを説明しました。私はコメントは断りましたが、取材を受けないと言ったことはありません。

人はいきなり老年を迎えるわけではない
海文堂書店の航跡のなかで、多くの読者に愛された海文堂書店の成長時代、壮年時代の基盤を語れるのは創世記の大番頭、清水晏禎(やすよし)さんが故人ですから、私か、店長を担った小林良宣(よしのぶ)さんしかいません。一番大切なことが書かれていないのは、当然、取材していないからです。
先程、担当の責任者と記者とも話し合いました。正確な記事を書くために突撃取材やオフレコ取材でもするのが当然の責務で、取材の打診すらしていないし、仮りに取材をしなくても書ける客観的事実としての島田の役割や存在すら書かないのは理解できないですね。
記事には「海会」や海文堂通信「ほんまに」のことが書かれていますが、その源流は小林店長をリーダーとするスタッフが丁寧な手作り通信「読書アラカルテ」をはじめ「読書手帖」「神戸ブックマップ」「ヴァイキングの乗船者たち」「神戸古書店地図」「郷土史一覧」などを手がけてきたのが源流ですし、古書店との交流は当時はご法度。今のように店内に古書店を入れるという発想はありませんでしたが、「神戸古書店地図」の作成、兵庫県書店組合に呼びかけて共同で出版する「ひょうご歌ごよみ」(宮崎修二朗著)「兵庫の素顔」(朝日新聞神戸支局編)のプロデュースなど地域と関わることを積極的に行なってきました。これらがあってこその今なので、この時代を取材せずに書くことは誤った歴史を書いたということです。歴史を閉じる前なので、具体的な記事の検証はまたの機会に。

9月30日の閉店に向けて
閉店は時代の流れを受けて抗し得ないことでした。南天荘書店、コーベブックス、流泉書房、漢口堂書店、日東館、丸善、宝文館など、みんな消えていきました。海文堂は地域に生きる書店として出来うる限りのことを全力でやってきたと思います。私が去ったあと、これまで頑張ってきた皆さんには心から敬意を払います。これから離職する皆さんの力になりたいと思います。それと正確な海文堂書店の歴史を残さねばならないと思っています。そのために閉店するまでに、資料を散逸せぬよう集めてもらっています。客観的に歴史を残すことによって、地域において頑張っている書店さん、出版社、多くの本を愛するみなさんへのエールとなり、皆さんの記憶にとどめていただくことが大切だと思っています。このプロジェクトは私が内容に関与するものではなく公正なライターにお願いしています。
これを書いているのは9月18日、閉店2週間前です。15日には当時アルバイトだった懐かしいみなさんと、29日は小林良宣さんや退職した皆さん8人で食事をします。最終日の30日の閉店時には息子夫婦の島田陽・容子と別れを見届けたいと思っています。