ギャラリー島田の前身は海文堂ギャラリーです。1973年に海文堂書店を任され、1978年に社長室を私が日曜大工で改造、15㎡のギャラリーにしたのが始まりです。大きなビジョンもなく、慎ましやかなスタートでした。それから37年の月日が流れました。現在の場所でギャラリー島田として再スタートしたのが2000年9月17日、今、この文章を書いているのが15年後のまさにその日です。ギャラリーDeuxのオープンは2003年3月でした。

書店の経営に携わりながらギャラリーを、そして1992年に公益信託「亀井純子基金」を、1995年に「アートエイド神戸」実行委員会を設立。2000年にアート・サポート・センター神戸を設立、それぞれが展開して今をなしています。関ったことのすべてがビジネス感覚ではない動機から出発していて、いまなおそこから脱することが出来ないでいます。作家にとって画廊とは「作品を売ってくれるところ」と定義すれば、まことに不十分な役割しか果たしていないことになります。

作家にとってギャラリーでの展覧会は6日間かせいぜい12日間に過ぎません。そこでどれだけの人が来て、どれだけの作品が売れたか。それだけが展覧会の意味であるとすれば私たちと作家との付き合いも大したものではありません。作家とギャラリーがまるごと人と社会との狭間に架かる橋のようにつねに関っている、そしてともに表現者として前をむく。そんなお互いの佇まいを尊敬しあうことを大切にしたいと思います。

作家にとっては作品がすべてです。日々のあらゆる体験が作品の創造行為へと収斂されていきます。筆を鑿をペンを取ることが作家なのではありません。存在そのものが試されるのが作品というものでしょう。私たちもまた作品の売買の現場だけがギャラリーであるわけではありません。多様なあり方がこのギャラリーの佇まいをなし、そのことがこのギャラリーの存在を規定しています。

 

環境も空間も新たな想像力を刺激し、絶えず緊張感を孕んだ劇的なトポス・場であることを願ってこの場所を選びました。この場と力勝負を挑む意欲的な作家をじっくりと紹介していきます。
この時期にあえて無謀と思われる冒険の旅に出ることになりますが、自分の「夢」と「志」にもう一度挑んでみたいと思いました。単なる個展会場ではなく、さまざまな交流が生まれ、様々なジャンルが交差し、創造が創造を生む連鎖の種を育てるアバンギャルドな画廊でありサロンでありたいと願っています。
場は、そこに関わるすべての人と共に成長し増殖しなければなりません。ここに漲る「気・エネルギー」が、さまざまな外部エネルギーと飛び交い新しいカオス(混沌)を生み出す源であることを目指します。 30年目の透視図(2008年刊行の記念誌)から

 

分かっていること

 日々の足跡をふりかえれば、託されたものに応えようとした歩みに過ぎないように見えます。さまざまな小さな声に耳を澄ませる。その声に導かれるように自分が出来ることを考え抜く。それを掬いあげるように共に手を貸す人が横に現れる。託されたものがまだ消えぬうちに、そっと差し出されるもの。手に余るものであっても受けなければ前にすすむことが出来ないという感覚が身の内まである。通信やメールマガジンで書いていることの多くが託されたものへの答えなのだろう。こうした思考のラビリンス(迷宮)を彷徨う私を心配される言葉をときおりいただく。最近、友人と「天命」と「使命」が話題になった。なにごとなき日常あるいは受動的な日々ではなく、選び取って今を生きる形のことだ。天命といえば大袈裟にすぎ、多くは自分の意志で選び取った道を使命として受け取り歩む。さて、私はなぜか断ることが出来ない天命のごときもの(他人から見れば自分で選んでいるにすぎない)を使命として引き受け続けてしまう。それは「あなたの勝手でしょう」という世界を生きているようだ。

「あなたの言っていることは、みんな分かっていることなのです」と言われたことは幾度と知れない。その「分かっていることが、なぜなされないのか」を愚直に考え続づけずにおれない自分に、ほとほと呆れるこの頃である。