前号の言葉を継ぐと、ギャラリー島田という場もまた未来へと向かう、一つの駅(Station)かもしれません。この駅(Station)は終着駅
(Terminal)ではなく、あたらしい希望を積み込んで未来へ向かう始発駅(Starting Station)であって欲しいと願っています。

1978年の創業ですから37年目を迎えることになります。海文堂ギャラリー時代が22年、ギャラリー島田で15年。1800回近い展覧会を重ね、数知れぬ作家が、この駅に降り立ち、また旅立っていきました。そこには出会いもあり、別れもあり、物語が生まれます。私もまたその物語を生き、翻弄され、日を重ねてきました。時代は新幹線、空港へと移り変わりましたが、この駅はまさに鉄道在来線で貨物列車も走っています。

1992年に生まれた公益信託「亀井純子基金」は、今は公益財団法人「神戸文化支援基金」としてこの3月17日に23回目の文化活動助成を決定しました。
毎月の画廊通信は、海文堂時代から数えると約420回。
2001年からはじまったサロン活動も今月で289回。
美術館などの公的な場への作品寄贈プロジェクトは今回、美術館へ寄贈が決まった高野卯港さんのデッサンを含めると寄贈・仲介の実績は302点となり、石川県立美術館と関西学院への鴨居玲の貴重な資料を含みます。
旅人としての原点

ギャラリストらしくない、画商でもない、美術通ともいえない。自分とは何ものなのかを探し続けています。

「その瞬間、瞬間を自分らしくありたいと思うこと。人生ってプロセスでしょう。
プロセスが固定してしまえば私にとって死なんですね」「私は私でありたい」
オノ・ヨーコ(後藤正治「言葉を旅する」P71 から)

私の芸術との関りのはじまりは音楽、そして書店人として本で、そして美術が続きます。その途上に社会との深い関りを経験しました。
まずは元町・神戸という街への関り、そして20年前の阪神淡路大震災からの復興への取り組みがあり、それが東日本大震災へと繋がって今があります。
それらすべてが交錯する場がギャラリー島田というStationなのです。
あれから20年

いやおうなしに当時を振り返っています。1995年2月に「アートエイド神戸」を立ち上げました。「蝙蝠・赤信号をわたる」
(神戸新聞総合出版センター)はその頃のことを書いています。

草地賢一さんを訪ねる旅

「アートエイド神戸」という活動を始めてまもない1995年7月17日。貝原俊民知事(当時)肝いりの「被災者復興支援会議」のメンバーに呼ばれました。被災者の視点に立って、『官』に注文もつけるし、『被災者』にもエゴが過ぎると直言する組織で10年間続き、まことにユニークなもので高い評価を受けたと、貝原俊民さんの自叙伝にあります。活動する会議、筋書きのない会議とも言われ、県の呼び掛けに呼応し、各分野の専門家12名がハードなスケジュールで熱い議論を重ね、12回の提言を行ない、政策にも反映されました。
支援会議(全体)78回、移動いどばた会議143回、フォーラムなど61回と膨大な時間をメンバーと過ごしました。そのメンバーにPHD協会代表の草地賢一さんがおられました。NGO・NPOのリーダーとして奮闘され、2000年1月2日に殉死するように58歳でマラリアで亡くなられた草地賢一さんについて書く準備をしています。
「ひとびとの精神史」(岩波書店)の全9巻の中で「阪神大震災とボランティア」の稿を一人の人物またはグループに焦点をあてて書くよう依頼され、草地さんを選びました。

・ たのまれてもやらない たのまれなくともやる
・ 援助や協力を「チャリティー(慈善)」で考えるのではなく、むしろ「不正義」の克服として捉えるべきである From Charity To Justice
・ 援助、協力から交流、連帯へ

まだ1字も書き出せていません。インタビューしたり、調査したりの段階です。草地さんの果した役割や、それを示すエピソードなどを知
りたいと思っています。島田までご連絡下さい。