含羞

伊良子序(いらこはじめ)さんの「小津安二郎への旅」(河出書房新社)に触発されて、小津安二郎の「東京物語」を見ました。
私は映画の世界はとんと疎いのですが、この本には深いところまで届くものがあり、多くの付箋をつけながら夢中で読みました。当時の日本の時代に寄り添いながら、小津と映画への想いは陰影に富み、舞い散る桜花のような愛惜に包まれて時に文字が滲みました。
2012年8月、英国のブリティシュ・フィルム・インスティテュート(英国映画協会)の機関紙「サイト・アンド・サウンド」が10年ごとに発表する世界名作ランキングで、世界の映画監督たち358人の投票でこれまでの指定席だった「市民ケーン」を押さえて「東京物語」がトップに選ばれました。
「全部みせたらお終いだ。隠せ、隠せ」(小津)の言葉通りに隠されたもの、余白にあるもの、音も動きも無いシーン(情景)。
そこから読み取るものは、見る者に問われていて、それが「いつまでも古びない新しさ」、すなわち普遍に通じているのだと思いました。
そして小津をめぐる旅を重ねながら映画の世界を語り、おのずと伊良子さん自身を語り、時代を俯瞰します。選び抜かれた言葉は膨大な下書きの積み重ねから美しく彫琢され、祖父、伊良子清白の唯一の幻のごとき詩集「孔雀船」のように清らかです。
淡々と家族の会話が重ねられ、小津のローアングルで、その表情が追われ、何事もない室内や風景が写されるのに、なぜ私たちは深く惹きつけられるのでしょうか。
伊良子さんは小津の理想の日本像を探す旅に出ます。そして残念ながら小津が描いた「良き人」の類型は今の社会から極端に減っていて、その旅は現代社会への小津の「福音」を知る作業でもあると伝えます。
サイレント時代の小津は結構、社会の不条理を追った作品が多かったそうです。そしてその後、しっかりと表象を見つめながら、どんなに表象が変化しても、決して変らない真理を求める「不易流行」を根底に置くようになり、そのブレない姿勢が高い評価へと導いたのだと思います。

「宗方姉妹」の姉、節子(田中絹代)が言います

「私、そんなに古い?あんたの新しいって、どういうこと?
去年はやった長いスカートが今年は短くなったというくらいのことじゃないの。
私はいつまでも古くならないことが新しいことだと思うの」

小津映画の何気ない言葉に隠された含羞は、また伊良子序さんの含羞でもあります。
私がアートマネージメントを学ぶ若者に必ず言ってきたことが二つあります。「アートはマネージメントするものではない。
リスペクトするものだ」「トレンドを追うものは、必ずトレンドに追い越される」です。これは逆説的に言っているのですが、私の根底にあることです。

余白

「余白」といえば津高和一さんを思い起こします。

言わぬは、言うに勝る。ということ、それは寡黙と饒舌のことに似ていた。百万語喋ったからといっても真意は伝達されるものではない。また、黙っていても、内包内在させているものが溢れんばかりに自ずからの充実と緊迫をもたらした。たとえそれが一個の微細なたたずまいであってもであった。
このことは私の造形芸術に対処する原点のようなものだったのである。(略)

 津高さんの瀟洒な詩画集「余白 津高和一・作品とエッセイ」の冒頭の詩から引いた。勿論、津高造形は余白による表現です。(注)
この文はグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」を聴きながら書いています。グールドは漱石への徹底した傾倒があります。オタワのグールドコレクションには『吾輩は猫である』『三四郎』『こころ』『それから』『道草』『行人』が収められています。
けれどもやはり『草枕』が最も好きで最後まで『草枕』を手元に置き、書きこみをしていたそうです。
100年前の4月20日に『こころ』の連載が朝日新聞で始まったのですね。「漱石の描いた『時代の病』は、日本だけでなく、近代化や高度成長の後で誰もが通らなければならない。今後さらに世界的になるだろう」姜 尚中さんの言葉です。
生誕100年での小津安二郎への海外での評価、グールドと漱石。小栗康平の『泥の河』や『眠る男』なども思い出します。
「映画は終わりが実は始まりなんだよ」という小津の言葉が様々に思いを拡げてくれます。

(注)2015年は阪神大震災から20年になります。ということは津高和一没後20年でもあります。その頃に展覧会を予定しています。