昨年末は石井一男 展、須飼秀和展、山村幸則展、上村亮太展と続き、年初は、藤崎孝敏展で始まりました。どれもが充実して、この仕事を長く続けてこられたことを身に染みて至福に感じます。今年を見渡せば、 それぞれにまた楽しみでもありますし、心引き締まる思いでもあります。

個展は作家にとっては全力で挑むものであり、私たちはそれを受け止めねばなりません。それは、終わりなき果し合いのようなものです。私の「絵に生きる 絵 を生きる」を読んだ山本忠勝(元、神戸新聞編集委員)さんが

「人と人とが正面からぶつかってその拍子に相手の体を向こう側へ透け抜ける。今の物理学の見方(量子論)からすればそういう確率もゼロではないのだそうである。60兆個もの細胞でできているお互いの体が交錯し、透過し合う。だとすると透け抜けたあとのふたりというは、精神の上でも途方もない痕跡を印し合っているのではなかろうか。」  と書いています。私と作家は切り結ぶ様らしい。

出会いと夢想

今年も、多くの新しい出会いと、湧き出づる夢想に心が騒ぎます。どれも実現可能ではあり、とても大切なことではありますが、そんなエネルギーと時間をどう捻出するのか。

たとえば松村光秀さんの「偲ぶ展」が七箇所に及び、石井一男さんが湯布院・亀の井別荘や美術館で展示される計画があり、伊津野雄二さんの作品集を三つのギヤラリーが協力して刊行し、藤崎さんとも次のステップがあり、関る多くの作家も、活動の場が拡がっていきます。それぞれの作家や仕事に心を寄せていると、ばらばらに点在しているかに見えていたのが、にわかにある形をなしはじめ、新しい意味を持つことに気づく。そんな気配に慄(おのの)きながらも向おうとする自分がいます。

あらゆるものには終わりが来る。

高野卯港、元永定正、松村光秀さんが逝き、加藤周一、吉田秀和、武満徹さんを失い、昨年末には西村宣造さんの突然の訃報を聞いた。私は古稀となりギヤラリーは35年を迎えた。ターミナル(終着駅)は急峻な山と、荒れた海の際に連なる鉄路が彼方で山陰に隠れて見えない先にあるようだ。警笛を鳴らしながら走る列車の室内は静まりかえり、私は残された時を思っています。過ぎ去りし日を振り返るのではなく、残された日々を一つずつ消していく、その今を慈しむように抱いた思いが結晶となるのを 待っています。

今年もみなさんと共に・・・・

【蝙蝠随想】

「私と万年筆」

大学時代の夏休みに友人三人と鳥取、島根を旅した。普通列車を乗り継ぐ、今でいう「青春18きっぷ」だ。当時の学生にとって普通のことであった。それから20数年後、大学入学が決まった息子を誘って、思い立って同じルートを二人旅し、“鳥取万年筆博士”に立ち寄った。1987年、始めて水牛製万年筆が発売されたころである。私は仕事で立ち寄った鳥取で偶然見つけたこの店ですでにお気に入りの一筆を手に入れていたので、息子にも名入りの万年筆を入学祝いに贈った。ある文化の賞を受賞した友人にも贈ったことがあるが、いつのことか思い出せないので、この文を書くために聞いたら「1991年のことだよ。大切に使っているよ」と、すぐにメールで画像が届いた。今はメールやツイッター全盛の時代で、確かに便利である。私はもともと書くことが好きで、詩人気取り、文士気取りであった。メールでは文士気取りにはなれない。私は字が下手で、昔は年長の友人から「マコちゃんは、文はいいのに字がもうちょっとなんとかならんの」と言われたり、「楔型文字」とか「象形文字」とか、からかわれた。その悪筆を続けていると、今では個性的と誉められることが多くなった。それは太字万年筆のお蔭かもしれない。メールの便利さに溺れていた私を痛撃したのは永六輔さんである。阪神大震災のご縁で、ご一緒させていただく機会が増えた。最初にお会いした翌日には、永さんから、「お世話になりました。楽しくかったです」という葉書が届いた。お世話になったのは、こちらで忙しいのも永さんで、これが毎回のことなのだ。湯布院・亀の井別荘の中谷健太郎さんは葉書に書いてそれを封書に入れる。メールは消してしまうが、これらはPHOTOアルバムに永久保存である。私も粗雑さを恥じ、いつも葉書と切手を携行し、悪筆のまま、お礼の葉書や手紙を頻繁に書くようになった。勿論、愛用の数種の万年筆で。

「HAKASE通信 VOL.21」から