奇蹟のごとき今

古稀という言葉は唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)の「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)に由来するそうだ。しかし、私は酒代のつけを置いたことがなく、いまや七十はごろごろしている。祝うべきことでもない。私の家族たちは古稀であることも知らずにその日は淡々とすぎた。のぞむところだ。

しかし、死は生あるものに等しくあることは知っているが、「今」という時の価値は誰にも等価であるわけでは無いし、私の「今」は10年前の「今」と等価ではないようだ。限りが意識される分、「今」は雑念が濾過され凝縮され結晶となってある気がする。

想像力(イマジネーション)とは何だろう。創造力とは何だろう。

ある日、ある時、ある中学校にて。ぼくは語り始めた。(略)
「地珠上にさまざまな動物が生きているんだけど(略)、どうも人間だけが持っている能力があるように思えるんだ。ボクがどんな能力をイメージしているか分ってくれる人はいるかなぁ」(学生たちの戸惑いの気配が教室に漂った。その時、少し離れて胡坐を組んでいた、男の子が「あしたのことを考える力やろう」と、けっこう大きな声で呟くように言った。牧口一二(ゆめ風基金代表理事)が書いておられた。(特定NPO ゆめ風基金会報「ゆめごよみ風だより」から)この言葉をメールマガジンで紹介したら、「これまでのことを振り返る心」を持っていてこそ…ですね。と坪谷令子(画家)さんから応答があった。

「あした」と「これまで」の間に「今」がある。私の「これまで」は取り消すことも、書き直すことも出来ない。それぞれの「今」の次に「あした」があり、多くの選択肢があった。その岐路で別の道へ踏み出せば、また別の「今」を迎えていたかもしれない。自分で選び取った道を歩みながら、脳の手術、震災、家人の死を身近にした70年の歳月を顧みての「今」は奇蹟のようなもので、多くの人の恵みであり、見えざる大いなる意思の恩寵に他ならないとしみじみと思う。

才能を世に出すには、その才能を見出す才能の持ち主が必要である。そうした人々を我々は伯楽、または名伯楽と呼んでいる。 もしも彼に、名伯楽なかりせば・・・
古今東西、ほとんどの芸術家は一風変った社会不適合者としてこの世の片隅でかろうじて呼吸するしかなかったであろう。

「奇蹟の画家」(講談社文庫版 解説 白石一文 P264)

ここでは石井一男さんと私のことですが、私もまた後藤正治という伯楽に見出された訳ですし、多くの伯楽に恵まれてきました。もともとギヤラリーやアート・サポートの役割そのものが、才能を発見し、紹介し居場所を作ることです。それが私たちの日常なのです。

そして創造力とは夢見た明日を実現する力だろう。そして「夢=アルカディア」の中身こそを問い続けることこそが日々刻々のことでありたい。