3/11 東北へ

心を寄せるということは相手のことを良く知るということにも繋がる。震災後、三度、東北(宮城、岩手)に入り、震後1年の3月11日に再び訪れる。
東北のことを知るために赤坂憲雄の東北学を柱に宮沢賢治、菅江真澄と枝を広げつつある。
東北を知るうちに、我が内なる東北についての気づきを得た。他ならぬ母のことである。
もの心ついたころから母はずっと「幼児生活団」という教育の奉仕活動を続けていた。
神戸の震災で手離さざるを得なかった母の家で書棚の「東北セットルメントの記録~昭和9年―昭和14年」という本を拾い読みして、若き日の母の姿をはじめて知った。
 羽仁もと子の自由学園に学んでいた母(関根睦子)は、東北大飢饉が起こった時に、自ら志願して秋田県の農村に入ったという。母が「女子学院」を卒業した18歳の時のことである。上野駅から東北本線黒沢尻へ、そこから何度も乗り継いで、一昼夜を要する生保内(おぼない)という村(現在、仙北市)のセットルメントに昭和10年から12年にかけて住み込んだ。ボランティアが「奉仕団」といわれていた時代のことである。そうしたことを母から聞いた記憶はないが、今にして思えばおそらく生意気だった私が母の行為の意味を解さず、己にだけかかずりあっていたからにちがいない。

赤坂氏に導かれるように思い立ってインターネットで昭和9年の東北大飢饉について調べてみた。そこである論文(注1)に母の名を発見し、その行為の意味をようやく知るという不肖ぶりで恥ずかしい。母を送って3年もたってのことである。(注2)しかもである、母は東京生まれだと信じて疑わなかったのだが、今、母の年譜を見ると大正6年、新潟に生まれ5歳の時に東京に出ている。そういえば昭和19年の神戸大空襲で家屋を全焼、新潟各地を疎開転々としたことはこの生地に拠っていたのだ。

生保内のセットルメントでは3人の(東京からは母ひとり)若い女性の指導者が住み込んで献身的に村のために尽くした。その報告によれば生保内は山村でであるために耕作地少なく、炭焼き、薪取り、春は筍も収穫の一部であり、秋は栗も採れるけど。昨年は栗も不作、農家では戸数割りを半減以下に免ぜられるもの236戸(半数以上)、山村であるために多い日雇いも、農家とともに困窮甚だしく、救護を要するもの137家族ある有様です。
セットルメント開設(昭和10年)まもない5月17日、この村の中心部で、焼失家屋97戸、罹災者600人という大火が発生しセットルメントも焼失した。「関根睦子が本部宛に送った報告書は、右往左往する人びとの様子を活写している」と論文は記している。
セットルメントは今和次郎の設計により新築され、母は3年間を生保内で過ごし、東京に戻り、22歳で父と結婚している。
縺(もつ)れ、こんがらがって放っておいた釣り糸を少しづつ古(いにしえ)を辿るように解(ほぐ)して延ばしていくと母の遠い日の姿が仄かに見えてきて、私に繋がっていることにようやく気づく。そして手元にある釣り糸の後ろを振り返れば、新しい天蚕糸(てぐすいと)を息子が握っていることに気づく。長男の剛は、いつの間にか途上国の問題に取り組むためにJICAに入った。
 東北への志縁に関わることになった時には思いもしなかった東北との縁が吹雪く視界の中に一筋の道として垣間見える。歩かねばならない。

(注1)東北農村生活合理化運動の展開―農村セツルメントの軌跡―
    東京外国語大学論集第75号より 野本京子
(注2)2008年8月3日没 享年91才