「センプレ・ドルチェ」

朝、5時。徐々に体と意識が立ち上がってくるのを待つ。そして珈琲をドリップで丁寧に淹(い)れ、ジュース、サラダ、トーストなどの朝食を準備する。雨が降っていなけれ新聞を抱えて屋上に上がる。空を眺め、山の緑、街、海と視線を遠くへやる。

朝焼けの雲がいかにも何かの始まりを告げているような若々しさに見えたり、薄鼠色の雲に透けてみえる陽が満月と見まがうばかりであったり。深とし、凛とした空気のなかでゆったりと姿を変えてゆく雲々に見惚れる。静寂を破る鳥の声、風の音やそよぎ。その風に微かに含まれた花の香り。通奏低音のように山からは蝉の声、街からはゴーという騒音。小一時間はそうして過ごす。ぼくだけの朝の会議。ぼく自身への問いかけ。

音楽も絵画もパソコンも、会話もない時間。今年もゴーヤが黄色い花をつけ、日毎に鮮やかな緑を纏って見る間に枝を伸ばしていく。毎日ゴーヤを収穫する。今年からトマトも茄子も育ってきた。時には鳥の空腹を満たす。

長く家事とは無縁だった。その他の家事を面倒だと感じないのは、初めてのことへの好奇心、あるいは自立ということと繋がっている気がする。20年前の頭部手術の時も、好奇心が不安・恐怖を抑え、医師に不思議がられた。こうしたぼくの変化は止めようもないが、反俗の画家は嫌な顔をし、ある友は軟弱を憂いた。でも自分で出来ることは自分でやりたい、そのために犠牲にするものがあっても。こうした内面の変化はもちろん、現実の日常との触れ方にも影響しているに違いない。何かが透明になり、抜け落ちていくものがあり、でも落ちるにまかせている。

数多くはもういらない。見、聴き、読み、食べ、人に会う。少しでいい。心に届くものだけで。その少ないものとセンプレ・ドルチェ(いつもやさしく)で向かい合いたい。

みんな自分の時間を抱えている(と思っている)。若い人はたっぷり、あり余るほど。年寄りは僅かに。

私にとっての未来は、朝、見晴るかす彼方に見えるターミナル(終着駅)なのです。それを受け入れることに何の躊躇もありません。だからこそ、今を丁寧にありたいと思いは強くなり、しかし脳細胞の処理能力は、見る間に低下し、頭は“しーんとしながらごちゃごちゃ”に混線していくのです。