「帽子をかぶった卯港さん」逝く

オープニングパーティーの賑わいの中で携帯が鳴った。
 公衆電話からで誰からかは分からない。ギャラリーの外で受けた。
「会っていただいたほうが良い方があれば連絡してとお医者さんが言われるので」奥さんの京子さんからだった。9月20日夕刻6時。
入院先は前日に聞いてネットで調べていた。
この日は待望の石井一男画集「絵の家」は出来上がってきたばかりで、それを鞄に入れて駅へ走った。車内で沈んだ気持ちで「絵の家」を眺めていると「ひとり立つ」(No31)から眼を離せなくなってしまった。暗く長いトンネルの向こうに小さな明かり、そこへ向かって歩いている小さな姿が卯港さんに重なり「まだ逝くなよ」と叫んだ。

JR加古川駅からタクシーに乗った。街からどんどん外れ暗い道を走ること20分で着いた。
 迷いながら探し当てた病室で半身を起こして寝込んでいた卯港さんを何度も看護婦さんが大声で呼んだ。目を覚まし驚いたように大きく見開いた眼で「しゃちょう」と呟いた。腫れて力のない手を握ってぽつりぽつりと話をしたけど半分以上ききとれなかった。
 ベッドに開いたノートと鉛筆が置いてあり、こんな時まで日記を書いているのかと驚いたけど、その最後は入院前のもので9月16日 「このまま寝入ってしまうと、そのまま死んでしまうのではないか」と書かれていた。
 帰りに保証人の署名をしに立ち寄った詰め所で看護婦は「明日かもしれないし、まだまだかもしれない」と言った。

 30日、朝早く、再び訪ねた。看護婦さんの呼びかけや処置にも反応はなく、鼻に酸素吸入の管を繋いだ姿が重篤であることを物語っていた。ベッドの横に座って手を握って話しかける。透明な肌がよけい生命力の減退を表していて呼吸も浅い。それでも話し続けていると「中井三成堂」「茶屋町画廊」「私の愛する一点展」「デッサン帳」などの言葉に微かに頷くことが分かった。そして瞼を閉じたまま「ありがとうございました」と擦れた小声で言った。今でもその時のことを思い出すと胸が詰まる。
 病院を出て姫路の卯港さんの展覧会へと急いだ。受付に京子さんが座っていた。
最後まで絵筆を入れていたという「鞆の浦風景」の前で動けなくなってしまった。これこそ卯港さんと私の約束の風景だ。暗い緑に黄色い暈を被った卯港さんのギョロ目のような太陽が絢爛たる滅びの音楽を奏でながら沈んでゆく。何一つ足すものも引くものもなく、そぎ落とした佇まいとしてのまぎれもない姿が立ち現れていることに震えて「とてもいい、とてもいい」と伝えた。

10月2日 前夜、「今夜か明日の朝」と聞いていた。
ギャラリー島田で元永定正展と石井一男展の飾り付けをしながら、ずっと携帯 に注意をしていた。
 16;20 携帯が鳴った。
 「卯港さんが4時に亡くなりました」と京子さんが声を落とした。
10月3日 尾上の松の大和会館に赴き、会場の「帽子をかぶった卯港さん」の写真と語り合い、「帽子をかぶった卯港さん」の納棺に立ち会った。
 二ヶ月前の母に続いての納棺である。
 京子さんに尋ねると、私が媒酌をした結婚から8年だという。
 「楽しい8年でした」の言葉に救われた。でも寂しさはこれからだ。
10月4日 告別式に向かう車中で携帯が鳴った。躊躇してとり損なったメッセージに「弔辞をお願いしたいのですが」とあった。
 二つの重要な展覧会の初日でギャラリーもてんてこ舞いだとメールが入った。
 原稿なしで、ぶっつけで卯港さんに伝えるように話した。
 棺の中の「帽子をかぶった卯港さん」は口が少し開いて笑っているように見えた。