家事往来 カジオウライ

昨年9月以来、生活が変わってしまった。朝5時過ぎには起きて、2時間~3時間は物を書いたり、考えたりしていたのが、今では半分がせいぜいです。私事ばかりで失礼ですが、私の中ではすべてアートと重なっているのです。今、日常の瑣事に関わりながら、私に響くものは、アートに接して受けるものと同じなのです。家人は、決して臥せっているわけではなく家事も出来ます。しかし状況を考えながら私が「主夫」を務めることが多いのです。例えば、掃除、洗濯、ゴミ出し、風呂洗い、食事の後片付けなど。家人は自らを「五月蝿(うるさい)」“さつき”と称するほど家事にはうるさく、「料理」は、すぐに失格を宣言され、助手にもなれず「机上見習い」です。それ以外でも時に、さつきぶりを発揮して「教育的指導」を受けたりもします。

家事は段取り

家事は苦痛ではありません。家事往来(All Right)です。家事というものを私は、余りにも知らなかった。頭の中は、ほとんど仕事を中心とした「社会」が占めていました。猛烈な速さで流れる時間に楔(くさび)を打つのが「アート」でしたが、家人のリズムに合わせ、今を慈しみながら時間がゆっくりと流れるようになると、乾いていた五感が「自然の気」によって潤いを与えられることに、ようやく気づきました。  朝、暗いうちに起き出すと、漆黒の闇そのものに既に季節の気配、その時々の自然の息吹があり、庭に出ると、キリッと肌が締まるような冷気の中、見上げる空に清怜にかかる孤月。影絵のように黒く浮かび上がる高取山の樹々の揺れと騒めき、幽けき鳥の声。それらは、心震わすパッセージ(楽句)、一篇の詩句、一枚の絵画との出会いに勝るとも劣らなく心に染み入ります。人間は排泄し、いかに汚し(毎日埃は積もり塵芥は出る)、汚れる(シャツの首まわりや袖)存在であることかと洗濯物を干したり掃除をしながら禅寺の見習い坊主のように哲学しています。

生きようとして

デンマークで私と同じ誕生日を持つ赤ちゃんを産んだ松塚哲子さんからメールが入りました。赤ん坊の世話をしながら、今まで味わったことのない新しい感覚を感じている、これからの作品が変わる予感がするといった文でした。  赤ん坊と家人では、正反対であるように思われるでしょうが「生きようとするいのち」を抱くということに於いて同じだとも言え、私も松塚さんと同じことを感じています。

たいせつなのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。こんどはあなたが、愛の運び手となってください。(マザー・テレサ)

先日、KAVCで見た映画で教えられた言葉です。余りにたくさんのことをしてきました。これからは「以心為行=こころをもって行いをなす」を心がけます。

女人には敵わない

こうして家事を味わっていると、家事で哲学し、炊事で創造し、育児で教育し、外で勉強し、芸術体験をし、五感を磨くことに余念がない女人には男人は敵いっこないことが分かります。この歪んだ世界を正すのは女人に正当な場を占めていただく以外にないのです。かくして社会の中でしか存在価値を主張出来ない男人は、せっせと組織をつくり肩書きをつくり「有事」を作りだす本能に励むのです。振り返れば、私がまさにそうでした。「貴方しかいない」と言われ「そうか」と思っていました。しかしそんなことはないのです。必要が人を選び、人を育てるのです。私が「長」をやっていた組織はすべて後継が立派にやっています。「花」ではなく「種」を蒔くことを丁寧にやっていきたいと思います。

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