「家を作る」

李(すもも)の木が珍しく実をつけている。そういえば春先の白い清楚な花も心なしか、いつもよりさかんだった気がします。庭では見上げ、朝、2階の雨戸を開ける時には見下ろすように日々、共にあった李ともまもなくお別れかと思うとなにやら愛しいものです。
この木は、鷹取にあった種苗屋から買ったもので、樹齢30年。今は盛りのころは、毎日、笊(ざる)一杯の酢桃の収穫があってご近所に配ったものです。しかし花が咲き、実をつけるまでに盛大に毛虫がつき、耳のいい家人によるとばりばりと葉を食べる音が聞こえるというほどでした。
しかし、ここ7,8年はすっかり勢いを失くし実をつけることもありませんでした。それが最後の時に数十個の実を結ぶとは。「李下に冠を正さず」という言葉がありますが疑われやすい行動はしないほうがよいとの意であり、花言葉の「清楚・独立」も気に入っていたのですが。
 庭の隅にある楓は父が贈ってくれたもので紅葉もきれいですが、春に梢に小さな赤い2つの花弁をもった花を咲かせるのも楽しみでした。先日、京都で伊藤若冲の「動植綵絵」の感動かかえて立ち寄った永観堂の楓がそうでした。
 高取山の中腹にあるここへ越してきたころはまだ地下鉄も開通していなくて、家にも車もなく、やたら不便なところで、自分たちの財力で購える一戸立ちの家というだけで移ってきたようなものです。余りに不便で免許のない、そしてとる気もない私に代わって家人が免許をとってなんとか暮らせるようになったのです。その車とももうすぐお別れです。
 老朽化で、二階の書斎を1階の応接間に移したいと思って住宅設計をしている次男の陽に依頼をしたのが3年以上前のことです。そしていずれはマンション住まいと考えていました。ところが北野“うろこの館”の隣に陽が設計したU邸が完成し、これがちょっとした話題になりました。そして偶然にU邸を30mほど下ったところに小さな変な土地を見つけてしまったのです。書斎を作り、いずれマンションを買うのなら、一気に家を作ろうとなりました。それから既に2年半がたちました。遅れに遅れた設計がようやく固まりつつあります。年は越さず李ともお別れしなければなりません。

棟方志功の手紙 その3

1967年、日展に審査任命を受け志功は、美神ヴェナスを中心としたパレスという美神審査の板画を創ります。パレスとは「巴礼寿の審判の柵」として第10回日展に出品。のちに「審判の柵」と改題された、137.3cm×105.3cmの大作です。それは裸身の美神三人を板画したのです。この作品のために、立っている正面、横座している立て膝している正面、かくしどころがかすかに見える様なポーズでMさんの写真を撮ってくれるように懇願するのです。Mさんの美事魅満の圧力と美はリューベンスの様に、ゴヤのモデルに負けないと讃えるのです。 1967年10月、棟方はアメリカのクリーブランド市のメイ・カンパニー主催による「棟方志功板画屏風形体ワンマンショー」のため渡米。続いてニューヨークのブルックリン美術館、ワシントンのスミソニアン美術館に巡回。翌年1月末に帰国しています。 この旅行中の手紙にすでに ’70年大阪万博へMの写真によるいろいろな肢体で構成し「神々より人類へ」と題名で「坤の柵」という八曲一双の大屏風の構想をスケッチを交えて開陳しています。この作品は予定通り万博日本民藝館に縦2.4m、横13.5mの大作として展示されますが、この作品は ’63年に倉敷市国際ホテルの大板壁画「乾坤頌 人類より神々へ」(栄航の柵、慈航の柵)と対になる作品と思われます。棟方板画には複数製作という観念がなく、する度に新しい作品の命を与えられ、日本万博への構想のなかで、この作品が「大世界の柵 人類から神々へ 坤」と改題され、手紙にある新作が「大世界の柵 神々より人類へ 乾」とされたと思われます。この板画はベートーベンの第九、それから熱情、皇帝等の韻律を裸体の中に響かせ、神々の芸術への讃歌を板画化したのです。15人ばかりの群像です。私の手もとの画集「棟方志功板業集」(朝日新聞社)の図版が不鮮明で詳細を対比できないのが残念です。
最高のモデルMさんのポーズ写真を手に入れるために奥様の千哉(ちや)さんの焼餅を恐れ、複雑な経路を通じて拝み倒すような手紙をスケッチを交え次々に書いていく様は志功の面目に溢れまことに貴重な証言です。このとき志功67才。それから5年後 ’75年9月13日、72歳の生涯を閉じられました。
 これらの秘匿されてきた手紙は、いずれ近いうちに親族か研究者の手によって明らかにされるはずです。私のようなものが半端に紹介することは慎むべきだと思い輪郭のみを記しました。(完)