この国ももう終わりだな

 3月にグランドオープンしたばかりの六本木「東京ミッドタウン」で友人と待ち合わせた。
大学のクラブ活動時代のぼくの右腕は社会に出て成功、財界の中枢周辺にいた。ここは防衛庁跡地、六本木ヒルズから徒歩10分。隈健吾設計のサントリー美術館があり、近くに黒川紀章設計の新国立美術館が出来た。ウィークデーにも拘わらずごったかえすミッドタウンで携帯で探しあってようやく御互いを発見したとき彼がつぶやいた。「この国ももう終わりだな」。高級店がならび高いレストランも全て満席である。ビルの高さが247mという。
4月27日には新丸ビル198mが完成するという。新富裕層目当ての商売が盛んである。
 世界中の都市で超高層建築が競って建てられブランドが席捲してゆく。欲望資本主義は止まるところを知らない。首相が唱える「美しい国」は政治家を筆頭とする「美しくない姿」を露呈し続け「バベルの塔」を立ち上げることに疑問をもたない。別に天罰をいうまでもなく自壊する以外に道はない。自分の時代には無いと根拠もなく信じようとしているだけである。飽食を尽くせば即座にメタボリックが警告しブレーキがかかるのに、消費への警報器は壊れたままで推進エンジンばかりなのだ。腹囲85cmを測定警告するなら年収によってイエロー、レッドカードを出そう。明日への希望もなく行き暮れる人は見えず、消費を支える闇をも知らないふりをする。「格差」をいえば世界には驚くべき「格差」が存在し、個人の努力と無関係に固定されている。一日1ドル以下で暮らす人が10億人も世界に存在する。バブル経験に学ばず、いま銀行に掲げられている標語は「貯蓄から投資へ」。額に汗して働かずに「儲ける」ことを奨励する社会にまともな人間は存在しなくなり自壊していくのは理の当然であり、事実、そのように癌は進行しているのである。技術の粋を尽くして耐震し警備しようがぼくにはNYや六本木の摩天楼は蜃気楼だ。
 私自身の「欲望」を隠すわけではない。自覚しながら自分の生き方を探せば、時代に違和感を感ぜずにおれません。「希望にむかって希望もなく」です。

最近のギャラリー事情

 「ギャラリー島田がどうして存続しているのか不思議でならない。展覧会で、売約も滅多に見ない。よほどの資産家ではないか?」などと勘ぐられる。売りにくい作家を売る、画商冥利とも言えます。でもいつも刃の上を歩いているような綱渡りであるのも確かです。まあ、スタッフ全員がこの仕事大好きだからやれているのですね。
 でも最近は大きなアートプロジェクトに関わる機会が増えました。モニュメントの建設や事業所全体のアートプロデュース、今、進行中なのが彫刻庭園です。十数体のオブジェを配する庭園です。初めての経験でワクワクします。高沢君というスタッフが増えたのですが忙しさは変わらず、プレッシャーはかえって強くなっています。

「文化集合住宅」の設計図

 前号で書いた(公)亀井純子文化基金を発展させて「文化集合住宅」を造るという案は公益信託を巡る現実の壁に苦慮しています。しかし来年には財団法人の設立に関する法改正が実現するそうで、せっかちの私は設計図第一案を描いてみました。アート・サポートセンター神戸の中に「神戸文化支援準備基金」を設けて毎年100万円を積み立て10年で1千万円とし、亀井基金と並ぶ柱とします。これから運営委員会で相談しますが、二つの基金を合わせて現在100万円/年の助成を150万円/年として助成活動を充実できることを願っています。(公)亀井純子文化基金の2007年度の助成事業が決定しました。あわせて亀井健理事長の逝去をうけて後任を私が務めることとなりました。肩書きゼロを貫いてきたのですが、基金誕生に経緯から受けさせていただきました。神戸文化を豊かなものにするよう一層の努力をいたします。

棟方志功とモデル 第2回

 棟方さんがモデルにと恋焦がれた女性のことは1965年秋ころの手紙から登場する。ちなみに使用されている原稿用紙に「胸肩画寓箋」と印刷されているのも面白い。モデルの写真も見せていただいたがまさに棟方さんの「弁財天妃の柵」が抜け出してきたような豊満なご夫人(Mさんと記す)である。民藝関係の集まりで出会ってすでにサンパウロ・ビエンナーレやヴェネチア・ビエンナーレなどで最高賞、大賞を受賞していた氏にMさんがお手紙を出し、徐々に人を介して棟方さんがMさんの写真を所望するようになっていきます。
 ちなみに棟方作品の題にある「柵」とは八十八寺に遍路の人が札をおさめて行くように、棟方も作品を、どこまでも続く札柵として納めていくという意味です。
 4月8日の日本経済新聞に美の美「画家と文豪」に谷崎潤一郎と棟方の「鍵」を巡る話が特集されていています。性的な享楽に溺れる官能性たっぷりな小説に触発されて傑作を生みだしたのですが、当時、谷崎は熱海、志功は東京・荻窪にいて1回ごとに会って仔細に内容を聞き構想を練ったほど力が入っていました。時に53歳、谷崎は70歳でした。女人が棟方の創造の源泉であったことは次の文からも良く分かります。

女体をくまなく
 私の作品は、よく、宗教的だとか、仏教的だとかいわれていますが、こういうまっぱだかの女体を板画にするときは。女のあるところは何でもかんでも、一糸まとわぬところまで。彫ってしまうんです。そして、あんまりそういうところが出すぎた場合は、それをあとで、裏からまぶして消すのです。しかし一回は必ず、全部出してもらうのです。想いや、心に嘘を吐きたくないのです。それで、あるモノを出すのです。(板極道 昭和39年)と書いた志功が新しいモデルに出会ったのです。
弁財天との出会い
 棟方の「女人観世音板画巻」12図(1949年)のモデルは岡本かの子の詩
    ぼさつ ぼさつ 観世
    千変万化
    融通無碍もて世を救う
    女人われこそ観世音
に感泣しての制作であった。この作品が棟方を世界に出してゆく。スイスのルガノ国際版画展で駒井哲郎とともに優秀賞を授与される。
 岡本かの子は1939年に50才で亡くなっているので、この板画は、この詩に触発された棟方の想像力による菩薩である。ちなみに棟方独特の、柔らかい味わいをだす裏彩色による技法がうみだされたのは1938年(35才)の「観音経板画巻」35柵からである。
18年で「鍵」、さらにそれから7年で弁財天(学問・芸術の女神)と出会った。
 信頼できる二人の知人を介して美しい弁天様(Mさん)の写真を手に入れ小躍りした志功は、さらにうすものを纏った写真を所望するのです。(つづく)