「秋蝉」

秋の蝉たかきに鳴きて愁いあり  柴田白葉女

 ひときわ不快だった夏も過ぎ秋分、夜長の季節となりました。ヒグラシやつくつくぼうしの鳴き声も収まったかと思うたが、今度は秋蝉がうるさい。夜昼なしに鳴く。「いつまでもうるさいな」と言えば、家人には何も聞こえないという。耳鳴りらしい。そういえば父の耳はダンボのように大きかったし、鼻も立派だったが形態は機能を保証しないらしく、僕くらいの年で耳が遠かった気がする。母も数度の脳の手術で右耳の聴覚を失った。どうも脳と耳は我が家の鬼門らしい。
 私には世の中のことが適当に見えなかったり、聴こえなかったりする方が良いのだけど、日常的に不便はなく、それを理由にたいていの会議を欠席できて重宝さえしている。でも話しかけた相手が、私の曖昧な表情を見て「ほんとに分かっているの?」と怪訝な顔をすることがある。家人とも些細なことで齟齬を生じることがある。仕方なく、再度、耳鼻咽喉科の門を叩いた。軽度の難聴、高音域に衰えがあるとのこと。「ヒヤリングセンター」で補聴器のテストを受けた。お試しである。やれやれとカフェに入った。音楽がやたらとうるさい。軽度なので最低の補正ですと言われたのに。
 まもなく64才。立派な老齢である。眼鏡は通常用、読書用、パソコン用。補聴器、携帯電話。やたらと装着するものが増えてきた。スパゲッティー症候群である。きっと思考域においても硬直化、衰退化が始まっているに違いない。これを補正する機器も装着したい。

中井久夫先生の「戦争と平和」

 アート・サポート・センター神戸のサロンに度々、ゲストとしてお話頂いている中井久夫先生の新著を読ませて頂いた。樹を巡るエッセイや神戸のこと「神谷美恵子さんの<人と読書>をめぐって」など、どれも興味深い。が、なんと言っても100枚を超える「戦争と平和についての観察」が素晴らしい。「戦争の切れ端を知る者として未熟な考えを”観察”として提出せずにおれない気持ちで」書かれた力作である。真っ先に読んで頂きたい人が「美しい国、日本」の著者だけど、私達が今なすべきことの視座を与えてくれる文です。
 戦争の酸鼻な局面を本当に知るのは死者だけで「死人に口なし」という単純な事実ほど戦争を可能にしているものはない、とし、過去の戦争は「戦争を知るものが引退するか世を去ったときに次の戦争が始まる例が少なくない」と、現状への警鐘を鳴らします。
 この重要は指摘を要約することは難しいのですが、まず「戦争は進行していく”過程”であり、平和はゆらぎをもつが”状態”である」として、戦争への過程がいかに単純化され美化され強化されていくか、そして死者に対する「生存者罪悪感」がさらに戦争推進力を加速させていくことを歴史的に観察する。
 一方「平和」は無際限に続く有為変転の「状態」で、絶えずエネルギーを費やして負のエントロピーを注入して秩序を立て直し続けるという格段に難しい営みである。平和は「維持」であるから、唱え続けなければならず、持続的にエネルギーを注ぎ続けなくてはならない。しかも効果は目に見えないから、結果によって勇気づけられることはめったになく、あっても弱い。
 戦争は男性の、「部屋を散らかす子ども性」が水を得た魚のようになり、戦争を発動する権限だけは手にするが、戦争とはどういうものか、どのように終結させるか、その特質は何であるかは考える能力も経験もなく、その欠落を自覚さえしなくなる。そして、ある日、人は戦争に直面する。
 ここから先は本を読んで頂きたいのですが「戦争準備と平和の準備」「戦争開始と戦争の現実」「戦争指導者層の願望思考」「開戦時の論理破綻と戦争の堕落への転回点」「人間はいかにして戦争人たりうるか」などと続く。是非、是非読んで頂きたいと思います。

 ● 中井久夫著「樹をみつめて」/みすず書房 ¥2800+税