1,セプテンバー・コンサート IN KITANO

  「9・11 セプテンバー・コンサート」がギャラリー島田で開催された。平和への思いを音楽でつたえようと、NYではじまったムーブメントで、日本では神戸に本社を置くフェリシモが呼応し、その呼びかけにギャラリー島田が応じた。9月1日に話があり、その日の内に10人の出演者全員が決まった。オープニングは朴元(パク・ウォン)さんの韓国伝統打楽器チャンゴの演奏。中国、台湾、インドの民族音楽、アポリジニの民族楽器とヴォーカルの即興演奏など多彩なプログラムの最後はピアニストの伊藤ルミさんが、チェリストのカザルス(当時94才)が国連での最後の演奏会で紹介したカタルーニャの民謡「鳥の歌」を心を込めて弾いた。
 新聞では「9・11の犠牲者を追悼して」と紹介されたが、私の中ではその意味は小さい。「9・11」は憎悪の連鎖のひとこまに過ぎず、平和とは人類の見果てぬ夢に終わらせてはいけない永遠の課題である。
 「9,11」の犠牲者は3234名、その後のアフガンの空爆で3767名が、イラク戦争で3240名以上の人が亡くなった(いずれも推定)。さらに遡っていけば1991年の湾岸戦争では15万8千人。ベトナム戦争では200万人。第二次世界大戦ではじつに3千万人にものぼり、広島、長崎への原爆投下による死者は10万3千人である。
 平和とは戦争に対する反語だけではない。この飽食の日本にいると信じられないことだがアフリカ、アフガン、北朝鮮などで餓死の危機に直面している人は何千万人に上ると思われる。 日本でも毎年の自殺者が3万人を超える。平和を脅かしているのは砲弾、銃弾だけではない。「平和への思い」は「遠い戦争に反対する」「日本が戦争に巻き込まれることに反対する」というレベルに止まる限り「平和エゴイズム」に過ぎないだろう。
 戦争がお互いの大義を賭けての巨額の戦費と多数の犠牲者によって遂行される戦闘だとすれば、平和もまた、それを守るために自己を犠牲にして闘うという側面なしには獲得できるものではない。
 そんな大層なことは考えとうない、毎日が楽しかったらええねん。 そういう声が聞こえてきそうですが、私たちの日常一つ一つの行動にも「平和」へと繋がっていく意志の選択があるのでしょう。「何を食べるのか」「車を使うのか歩くのか」「電気を点けるか消すか」それぞれの選択が地球温暖化、砂漠化、資源枯渇、南北格差などにどこかで繋がっており、それが結果として戦争に加担しているという痛みの自覚なしに、「平和を祈る」では済まないことなのです。
全員、全くのボランティアなのに、来年も是非と、強い声が続いた。全くのところ準備大変なのだけど、やるぞ!!
*急に決まった企画のため、画廊通信で紹介できませんでした。御了承下さい。

2,知ったかぶりの勧め

 なんとか加藤先生を神戸に呼べへんやろうか?そんな思いが募って、とうとう実現することとなった。加藤先生とは、現代を代表する知の巨人と私が信奉する評論家・加藤周一先生のことである。といっても、若い人は勿論のこと多くの人は氏を知らない。 震災後、先生を囲む小さな勉強会に参加させていただいて、いかなる質問にも見事に論理的に、しかも誰にでも分かる言葉でしゃべられるのに敬服した。この至福の話をもっと多くの人と分かち合いたいと願ってのことだ。何度も実行委員会を重ね、氏の著書をテキストに勉強会をしている。交代で講師を務めるのだが、私は講師となるのを謙虚にも辞退している。
実は、これは内緒だが、私が呼びかけたとはいえ、私はそんなにたくさんの著書を読んでいないのだ。 知ったかぶりの化けの皮が剥がれるのを怖れて謙虚を装っている。 勿論、わが書斎には加藤周一著作集全24巻も揃っている。白状すればこれは息子の蔵書なのである。
若いスタッフが勉強したいというので、分かりやすい本を読み返してみて、加藤語録で都合のいい事を発見した。「読んだふりは、大切なこと」とあり「読まない本を、読んだふりをする、よくわかりもしない本をわかったふうに語る、これが知的”スノビズム”(俗物根性)という」と断定したうえで「スノビズムほど大切なものはない、読まない本を読んだふりをしているうちには、本当に読む機会もふえてくるのです」と氏の「読書術」を結んでいる。
自分が知らないことを自覚していれば、知ったふりでもいくらでも学ぶことは出来るし、次の学びの意欲につながってくるということだ。 加藤先生は、この9月19日で84才を迎えられる。 20世紀の歴史をつぶさに見てこられた証言者として、21世紀を生きる私たちへの指針を語っていただこうと思っている。