一夜明けると、昨日の暖かさが嘘のように深々と雪が降っていた。私は24回目の村山槐多を偲ぶ槐多忌に初めて参加するために信州に行って来た。2月23日午後3時から公開鼎談「美術館の役割について」を聞いて、あたりが少し暗くなってくる5時半から信濃デッサン館前の広場で盛大な焚き火を囲んで槐多の法要をすませ、その後は地元の皆さん方が振舞う大鍋の豚汁とお酒で楽しく交流した。鼎談の会場は近くのホールで満席、歌手のおおたか静流さんのアカペラ・コンサートと鼎談の2時間半はあっというまに過ぎた。心がほっこりと暖かくなった。
 鼎談の司会はNHKアナウンサーで人気番組「プロジェクトX」の国井雅比古、シンポジストに星野知子(女優)、辻井喬(堤清二)、窪島誠一郎(信濃デッサン館館主)の豪華メンバー。

槐多の絶唱「いのり」

  神よ
  いましばらく私を生かしておいて下さい
  私は一日の生の為に女に生涯ふれるなと言われればその言葉にもしたがいませう
  生きて居ると云うその事だけでも
  いかなるクレオパトラのにもまさります
  生きて居れば空が見られ木がみられ
  画が描ける
  あすもあの写生がつづけられる
  この詩を残して1919年2月20日午前2時35分、村山槐多は満22歳5カ月の短い生涯を閉じた。
  死因は結核性肺炎。槐多忌はすでに槐多の人生をこえて続けられている。
槐多の人生を振り返りながら、自分自身を見つめ直す日でありたいと窪島さんは伝えた。 そして今回の旅は、私にとってまさにそのような旅であった。
鼎談は、現在、公立、私立を問わず、今おかれている美術館の厳しい現状の報告から始まった。
信濃デッサン館での3万5千人/年の入館者が2万人に減少しているという。ちなみに「無 言館」は10万人。合わせれば結構な数に見えるけど、「無言館」は「戦没画学生の会」 が運営していて財政は別なのだそうだ。
「日本人の心の耐久力、心の筋肉が萎(な)えてきている気がする」でも「本当に来たい人だけが来ればいい。美術館とはそんなものだ」と話はなってきた。自棄ではない、自負の言葉である。私も「ギャラリーとはそんなものだ」と心の中で呟いた。
窪島さんの、例によって真摯であったり露悪的であったり(むかしは窪島さんの自虐的なもの云いに戸惑ったが、今は微笑ましい)の自在の語り口に同意したり、国井さんのプロジェクトXの秘話に涙ぐんだり、良い会でした。
 盛大な炎と、短い命を燃やした槐多のガランス(朱赤色)に思いを重ねて見とれながら、この集いに参加した木下晋さん、沖縄の佐喜間美術館の奥様、梅野絵画記念館の梅野隆館長などと話しが弾んだ。
 その日の宿は近くの別所温泉の上松屋。廊下にも部屋にも、来年、ギャラリー島田で個展をお願いしている水村喜一郎さんの絵が掛かっていて嬉しい。寝る前に風呂に行こうとしたら廊下に津高和一先生の墨一色の版画が3点掛かっていた。こういったセンスで旅館の格が分る。他の点でも隅々まで配慮が行き届いているということだ。別所温泉は、清少納言の『枕草子』に記されているように古名を「七久里の湯」といい、前山寺、安楽寺、常楽寺などの名刹、史跡に囲まれた歴史ある湯の里である。
 

槐多庵での光秀展

 例によって早起きの私は同室の信濃デッサン館の館員である庄村君が寝ている間に朝湯に浸かり、傘を借りて相染川に沿って新雪を踏みながら散歩した。渓流の音が、昨日、焚き火のそばで窪島さんが「ずっとこんな馬鹿なことをやってきた」と呟き「そういえば島田さんも馬鹿なことやってるね」と言っていた言葉と重なった。
 9時半、デッサン館は昨日とうって変わって雪に埋もれていた。昨秋、拡張工事を終えた「槐多庵」での松村光秀展の打ち合わせの為である。窪島さんにいわくデッサン館は「ゴキブリホイホイ」の箱を持ち込んで地元の工務店に設計させた」「だから人がホイホイ入る」と得意の露悪節で笑わせるが、デッサン館、無言館、槐多庵、すべて窪島さんのデザインで、空間感覚が素晴らしい。ぼくはまだ見ていないけど東京の建て直された「キッド・アイラックホール」もなかなか凝った造りだそうだ。借金、借金と口癖のように繰り返す窪島さんだが、彼のコレクション、美術館の在りかた、文章と全て旺盛な自己表現だが、建築デザインも最もお金をかけた彼の重要な自己表現手段であるに違いない。
 槐多庵はデッサン館より、さらに洗練され簡素な中に魂を鎮めるような気に満ちた美しい空間です。絵一筋に打ち込み、それゆえにまねいた貧窮や飢餓、病と闘いながら、自分だけの孤独の道を歩み、灼熱のような短い人生を駆け抜けた槐多を祈念する場での展覧会は、「絵に命を預けた画家」のみに許されるのだと確信した。木下晋がそうであり、水村喜一郎がそうである。今回、選ばれた松村光秀も勿論そうである。
 槐多庵のおける松村光秀展は6月28日から7月21日までです。  あの空間に松村先生の作品が並んだ姿を思い浮かべただけで興奮します。

コロンボのごとき人

 11時、タクシーを呼んで北佐久郡北御牧村八重原芸術むら公園にある梅野絵画記念館へ。佐喜真夫人をはじめ同行3名。「明神池まで来ていただいたら、大きな建物はうちだけですから、すぐ分ります」と館長はおっしゃるが雪一面で、建物の大小も分りづらい。ぐるぐる回って、迎えに出てくれた梅野館長を発見。休館日だけど奥様と一緒に開けて待っていて下さった。梅野さんとは昨日が初対面でしたが、焚き火に照らされた姿はなんとなく刑事コロンボを思わせ、ぼくを隅のほうへ引っ張っていって、早速尋問してこられたのでした。
明神池の向こうにあるはずの浅間連峰の雄大で美しい姿は雪に煙って今日は見えない。梅野さんは良く知られたコレクターであり、藝林美術研究所を主宰し、埋もれた画家、無名の物故作家などを発掘顕彰してこられた。そのコレクションを北佐久郡北御牧村に寄贈し、ここに梅野絵画記念館が建立された。ゆったりとした展示空間に梅野さんの強烈な想いを伝えようとする執念がありありと感じられ、その一角にかなりのスペースをとって我が松村光秀さんの作品が展示されている。親しくさせていただいている神戸の蒐集家、三浦徹先生が、この美術館主催の「私の一点展」に松村作品を出品されたご縁で梅野館長も松村ウィルスに感染された。ここで3月29日から6月1日まで「異色の現代作家たち  松村光秀 蔡国華 村上肥出夫」がロングランで開催されます。館長室に招じ入れられた私は、「絵に命を預けたコレクター」の思いの丈をたっぷりと聞いたのでした。「孤独な仕事です」とおっしゃる梅野さんにとっては、わずか2時間ばかりの滞在では、まだまだ話足りなかったでしょう。  さて私はといえば「芸術に命を預けた人に命を預ける」覚悟はそろそろ出来たかなと思うこのごろです。