絢爛たる滅びの夕
刷毛でひいたように淡く白い“ほそまい雲”や“浪雲”が洛陽で様々に染め上げられ、刻々に変幻し、黄昏てゆく。茜さす空はやがて深緋(こきあけ)となり、そこに鮮やかな緑を勢いよく刷く。
高野卯港の夢と現実とのあわいを揺れ動く思いが凝縮され、独特の色彩が綾なす感傷美に留まらない切迫した気配は誰にも表現できない荘厳にして絢爛たる滅びの交響詩である。
「星の入り江」の高砂港は、卯港さんが今住む播磨町から近いが、画面では少年期を過ごした毛馬(大阪)の淀川や堤の情景が重なっている。そして画面手前右手の人物は卯港少年と母だろう。戦後、卯港さんが1才の時に父は40才で病没。母の手で育てられた。
古里への教習と薄倖であった母への思い「亡母追善」が深い低音としてある。
孤愁を湛えた暗い透明感のある画面が、惻惻たる余韻を漂わせて美しい。

流れたシミのあるギャラリー 洲之内徹に見出されて
師の来るのが遅いと、六階の会場でイライラしていた。夕暮れ時に額を入れ替えていると、コッツコッツと凛とした忍び足の音。来た! 友人達は急に押し黙り、空気が張り詰める。
小柄でひきしまりピンとした背筋。灰色の作業服の上下。コツコツ、ひとつひとつ歩く。
薄いフレームのメガネをつけては外す。時々、ウッとうなずくようだが声は無い。終わり近くの6Fの「飛田町夕暮れ」に来た時、「ウーン、うつくしい色だ・・・」たしか美しいと言った、美しいと、ぼくは彼の第一声を聞いたーーー(略)
ともあれ現代画廊の日々は去った。いま再び洲之内好みとは、師の見た真のものとは何だったのか、問う時が来ている。師はひとつのアドバイスを残した。「タカノ君、透明な黒の線を使いなさい」(略)しかしいまだに解決されていない宿題か・・・。
白い壁が灰色に汚れ、シミが流れてにじんでいた誇り高き画廊。遠い日々のこと。

洲之内さんが亡くなる1年前の1986年11月25日から、憧れの現代画廊で個展をした時の卯港さんの思い出である。
「洲之内徹の風景」(春秋社)から抜書きした。

2回目の展覧会を申し込み「結構ですよ!」と約束しながら果たせぬまま洲之内さんは翌年10月27日に永眠した。
洲之内さんが「美しい」と誉めた「飛田町夕暮れ」は今、島田コレクションにある。
現代画廊での個展が無くなって虚脱状態にある卯港さんを山本芳樹さんが連れて来られ、
海文堂ギャラリーで引き受けてくれないかという話をされた。作品を拝見して、そこはかとなく漂う哀愁に惹かれ、二つ返事で個展が決まりました。

愛と郷愁のレクイエム
彼の絵の前に立つと、そこはかとなく漂う哀愁が感じられる。大都会の中にそこだけが忘れられた一画、しかしそこには貧しくともまだ人間のぬくもりが感じられる甘い郷愁が描かれている。
木村荘八の挿絵や、斎藤眞一の吉原や、ゴゼの世界にも通じる人間の哀愁であり、愛の沈思であり、滅びゆくものへの限りないいたわりと郷愁のレクイエム(鎮魂歌)なのだろう。そこには言葉にならない言葉が物語られている。
彼の画風は、彼のその生い立ちにも起因するところがあろうと思う。それは彼自身の得難い身上である。映画「泥の河」の世界を深く愛するという彼の成果に期待したい。
1988年2月の海文堂ギャラリーでの個展によせた山本芳樹(美術研究家)の文である。

“春風や堤長うして家遠し”
小学校5年の時に移り住んだ大阪、毛馬は与謝蕪村の古里である。
享保元年に摂津国東成郡毛馬村に生まれた。冒頭の句は「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」で、毛馬付近の淀川の堤は高く長く美しい。卯港さんは蕪村が遊んだこの堤で遊び、毛馬橋付近の船宿も日常風景としてあった。それは廓舟であったかも知れない。宮本輝の「泥の河」の世界である。この小説の舞台は、昭和30年の大阪。
まだ戦後を引きずっていた時代で主人公の信雄、喜一は9歳。そのころ卯港さんは7歳。ほぼ同じ世界、同じ境遇を生きた。
新淀川を遡れば中津。佐伯祐三(1898~)の古里。さらに遡れば桂川に至り京都山科。長谷川利行(1891~)の古里である。
蕪村は20才のころ毛馬を出て終生、戻らなかった故郷喪失者である。でも「春風馬堤曲」は62才の時の郷愁と亡母への詠唱、ほぼ現在の卯港さんの齢である。「星の入り江」は卯港さんにとっての古里詠唱に他ならない。
1988年2月の海文堂ギャラリーでの個展によせた山本芳樹(美術研究家)の文である。

パリからの便り
21日に出て、もう30日を数えます。こちらパリはモンマルトルの丘からの便り。書いているレストランのすぐ横は石段で、中段がモジリアーニのアトリエ。ついこの前は探し回って駄目だった、かってのゴッホのアトリエを、フト見つけ、3Fの彼の部屋を見上げて、少々、身が引き締まる思い。僕が住むのは、ムーランドラ・ギャレットのある坂下、3軒目。ゴッホはたくさんこれを描いていて、ゴッホが居るよう。ぼくのアトリエから坂上を左に折れると1分もなく、あったのです。近く、ピカソの洗たく船で、日本人8人がグループ展をしていました。ユトリロのコタン小路はまだわからない。この所、道を迷わないために、当分、この丘の外へは出られない。

1994年10月20日付の手紙で、まだまだ続きます。私も卯港さんのこのアトリエを訪ねて行きました。
この年3月に24年務めた郵便局を退職。9月にパリへ向かいました。生活が荒れ(博打・酒・女)、それにけじめをつけ、画家として生きていく覚悟を決める旅でもあったのでしょう。滞在は1995年1月の震災による一時帰国を挟み6月の帰国まで約8ヶ月。
卯港さんのパリアトリエの近くに藤崎孝敏さんのアトリエがあって私は何度も訪ねています。今年、藤崎孝敏展のために帰国した孝敏さんが、うちの作家の中で一番、気にいっていたのが卯港さんで「利行だ!」と何度も言っていました。

落陽
卯港の落陽は僕を照射する。中学時代、西に向いた2階の僕の部屋で青春のむせ返るような胸苦しさをなだめるようにモーツアルトのクラリネット5重奏曲を良く聴いた、とりわけ2楽章を。当時、西陽に額を焼きながらクラリネットでぼくはこの曲を練習していた。気がつくと暗くなった部屋に残照が差し込み、深い想念に沈んだ。
昨秋、家人の病を知らされ、療養のために滞在した由布岳の残雪が朱く染まるのを見ながら、また、病院へ通う車窓から刻々に変幻し、黄昏ゆく瀬戸内に沈み込む夕陽に魂を重ねながら、しきりに卯港さんの夕景を思った。これらの文章は、そうした思いのなかで徐々に固まってきた

高野卯港氏の才能

高野卯港氏は独特の画家である。
画題、画風、風体、生活、言動すべてにおいて卯港氏ならではとしか言いようのない独特のものを持っていることは確かである。それだけで才能と言って良い。
才能が無ければ良い絵は描けないが、才能があれば描けるわけでもない。
今、永年勤めた職場を辞めて、自らを崖っぷちのい追い込んで表現者としての生き方に賭けている。そこから生れてくるものに期待したい。
1994年の個展に 島田誠

《高野卯港経歴》
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昭和23年12月鹿児島県に生れ、まもなく神戸に移住。
父は生後1才の時、戦争から引き上げ、マラリアで没。灘に住む。その後、没落して転々。工場街の煙突、進駐軍のジープ、闇市を見て育つ。
小学校5年で大阪、毛馬(毛馬の閘門)に移り、大阪府立旭高校(在籍4年)で、当時教員だった画家和気史郎さん(故人)に絵のてほどきを受け、画家を志す。
大阪市立美術研究所で油絵を本格的に学ぶ。大阪中央郵便局に昭和44年入局。24年5ヶ月。仕事は外国郵便の仕分け。寝屋川に移り、そのあと播磨町(兵庫県加古郡)へ。母が1993年に83歳で亡くなるまでここで暮らす。 1986年、東京銀座の、稀代の目利きと言われた美術評論家の故・洲之内徹氏に認められて「現代画廊」で個展を開催。
「現代画廊」での2回目の個展の直前に洲之内氏が急逝、山本芳樹氏の紹介で海文堂ギャラリーでの個展が実現したのが‘88年。
以後、ほぼ毎年の開催となる。

 

最近のギャラリー島田での個展記録
2000年2月16日(土)~28日(木) 高野卯港個展
独特の色彩と構成で描く新境地を、ヨーロッパ取材旅行の成果として発表
2002年4月20日(土)~4月26日(土) 高野 卯港 展
2003年5月20日(火)~5月29日(木) 高野 卯港 展 …春を待つ…
2008年6月28日(土)~7月9日(水) 高野 卯港 展 「絢爛たる滅びの夕景」
2009年2月21日(土)~3月4日(水) 高野卯港追悼展
2010年3月6日(土)~3月17日(水) 高野卯港画文帖 出版記念展