- 「菓子器」12P
- 「鯛」10
須田芸術の魅力
こうして、須田先生の経歴を整理してみると、三つの段階に明瞭に別れている。最初の段階は「神将」や「ピンクのターバン」ほ代表される、オーソドックスな具象の世界で、晩年の具象とは違う、それでいて既に須田芸術の隠しようのない魅力を表出し、官展で特選を重ねた時代。
「菓子器」12P
次には1949年から、司馬遼太郎氏の言葉を借りれば「それらの名誉を古草鞋のように捨て、具象画さえ捨てた」時代である。この時代が20年ほど続く。わたしは須田さんの抽象が大好きで、油彩もいいが、紙にガッシュの夥しい作品をとりわけ好む。ここに先生の東洋的思想、道元禅への思索の道程を見る。これらの作品は故郷の埼玉県立美術館に寄贈されている。
三番目の時代が、具象回帰の時代。しかしそれは具象も抽象もない、天衣無縫、東大寺管長の故上司海雲さんが須田さんを称した「善財童子」の世界である。「絶対矛盾の自己同一・具象も抽象も帰する所は一つ(須田語録)」。
それは司馬さんの「街道をゆく」の仕事との出会いも大きいし、60歳半ばを越え、いわばたわわに実っていた果実が一斉に熟してきた趣である。私が先生を知り、またその作品に惚れ込んだのは、先生が75才のころからで、すでに眩しすぎる輝きを放射されていた。再び司馬先生の言葉をお借りすれば「童心童形のまま、美学の法界に入られた」ということになる。独特のおかっぱ頭に、つなぎのジーンズ。あの眼鏡。すこし甲高いお声。一瞬にして、対象の本質を見抜く目。それは「見る」という画家の修練に加えて、道元禅を極めた須田先生の眼力・精神力といったもので、それが奔放に見える筆使いにして抗しがたい魅力を感じさせる。最晩年の10年間の作品は、今は亡き増田洋氏(元、兵庫県近代美術館副館長)の言を借りれば「日本絵画の原点として、私たちが冨岡鉄斎を考えるように、須田さんの芸術を通じて日本絵画の伝統を考える原点となる画家」として記憶される。
須田先生の晩年は、その作品を求める人が群れをなすという状態で、全ての展覧会が完売に近かった。しかし先生は手元の作品を大阪府に2100点,埼玉県立美術館に220点、長野県・飯田市美術博物館の460点と、全ての作品を生前に寄贈した。私にすれば、戦後を過ごした地元兵庫県、あるいは西宮になぜ寄贈されなかったのか残念の極み。
ギャラリー島田と須田先生との関わり
須田先生とは生前、けっして親しくお付き合いをさせていただいたわけではない。
しかし「須田剋太後援会」の代表であった前川吉城さんを通じて、よくしていただいた。
先生は個展でしか作品を発表しないうえに、その発表の場はいつも百貨店の美術画廊であった。画商がおキライとも聞いていたので余計に緊張して、ご挨拶程度しか口をきけなかった気弱な自分がいまごろ悔やまれる。でも、先生からは、いつも展覧会のカタログにサインをいれて送ってくださったのだから、気にはかけていただいてたことになる。
海文堂ギャラりーで4回の「須田剋太展」を開催。
1993年には「神戸市立まちづくり会館」のギャラリーのオープニングの記念展として
「生命の讃歌 須田剋太展」をプロデュース。
「鯛」10
島田コレクションにおける須田作品
菓子器 油彩 10号 華麗にして豪快な名品
白い花 油彩 10号 風格ある優品
藤花 油彩 8号 東洋的美の趣
舞妓 ガッシュ 6号 野猪林 ガッシュ 6号
京劇 同 6号 男の子 同 など
ゴビ砂漠 同 6号
経歴
1906年 埼玉県吹上村で生れる。本名 勝三郎。
東京美術学校(現東京芸大)を4度受験し、ことごとく失敗。
1927年 ゴッホと写楽と出会い、画家となる決心。
独学で絵を学ぶ。
1936年 文展で初入選
1939年 文展で「読書する男」が特選
1942年 同 「神将」で特選
1947年 同 「ピンクのターバン」で特選 一流大家への道が開けているのに、それらの名誉を古草鞋のように捨て
1949年 抽象画の旗手、長谷川三郎氏と出会い、国画会に入り抽象画の道へ。
1954年~1961年にかけて海外の現代美術展に相次いで出品。
1962年 西宮市文化賞。
1971年 週刊朝日「街道をゆく」連載はじまる。挿絵担当。
兵庫県文化賞
1977年 大阪芸術賞
1983年 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1988年 フジサンケイグループ広告大賞を受賞
1990年 7月14日午後5時28分。神戸市北区の社会保険中央病院にて。
84才で死去。