上京の際、鞄に忍ばせていたのが、「没後15年 一期は夢よ 鴨居玲展」の図録である。丹念に記憶を辿りながら鴨居さんの作品を見る。巻頭には、昨年の海文堂ギャラリーでの鴨居展で記念講演をしていただいた伊藤誠さんの「鴨居玲とファン・ゴッホ」という興味深い優れた評論がある。自画像に固執した二人の近似性から、二人の死が自殺か、事故死かを推論しているが、この事実を解明することより、その謎の内に二人の創作の原点、あるいは人を引き付けてやまない秘密が潜んでいるからの興味にほかならない。

私もゴッホについては、かなりの文献を読んできた。鴨居さんについては瀧悌三さんの本格的な評伝「一期は夢よ 鴨居玲」があるが、鴨居さんの死をはじめ、この謎めいた画家の研究はこれからである。わたしも最初の自殺未遂の時のものと思われる自筆の遺書のような書き付けをある方から託されており、また公開されていない手紙類も数多く持っている。いずれは私なりの鴨居像を書ければうれしい。
ゴッホはその弟のテオとともに私の最も興味をもつ画家だが、伊藤さんに鴨居さんとの関連を指摘され、またテーマが広がりました。私にとっては鴨居さんは没後15年というだけではない。鴨居さんがなくなったのは1985年9月7日。57歳であった。実は玲が尊敬していた父、悠も57歳で亡くなっている。私にとっては2000年9月17日が、海文堂書店の仕事を終え、残された人生「もうあとが無い」と新しい仕事へと旅立った日である。私も57歳であった。 島田誠

鴨居玲の切り裂いたカンバス

鴨居玲の突然の電話で呼び出されるのはしょっちゅうだった。この日も榎忠は、電話を受けて神戸・元町も玲のアトリエを訪ねた。イーゼルには半分ほど完成した50号の教会の絵があった。榎忠と話し込んでいた鴨居さんが突然、立ち上がりナイフをとって、その教会の絵を縦に、横にスパッと切り裂いた。今は押しも押されぬ現代美術家として活躍している榎さんだが、そのころの彼のパフォーマンス路線への批判であったかもしれないし、この絵が気にいらなくて衝動的にやったことかもしれない。そして創作への厳しい姿勢を榎さんに示したのかもしれない。確かに制作半ばといえ、この作品には未だ確たるものが見えない。

山本忠勝氏(神戸新聞)は鴨居の教会について興味ある指摘をしている

非常に面白いのは、教会のスソ一面にまっ黄色の菜の花畑が広がっている、そういう作品が初めのころにあることだ。つまり教会と大地の接点は満開の花の中に隠されていて、絵は見事に安定して見える。みる人の心を落ち着かせる。だが画家は恐らく、自分がわずかに妥協したことを、どうしても忘れることが出来ないのだ。(略)生き方そのものがそこで問われてしまうのだ。お前は今どう大地に立っている?
そして鴨居玲の教会は苦悶を重ねながらやがて空中へ浮揚する。そこで最も彼らしい姿になる。最も不安定な場所に昇ってようやくのこと安定する。

確かに鴨居さんは1969年から教会シリーズをはじめていて、この年の6点(カタログ・レゾネによる)は全て大地にしっかりと足をつけている。鴨居さんがカンバスを切り裂いた1970年は4点の教会があるが、同じである。そして問題の50号は鴨居さんとしては大作の部類に入る。その作品を切り裂いた意味は深い。榎さんは託されたこの作品を受け止めるように全く別の道を歩みながら「地球の皮を剥ぐ」「ギロチン・シェア―」「砲弾」「鉄砲」などの問題作を次々と発表し続けている。
そのカンバスは榎さんから私に託された。厳しく良い仕事をしろという鴨居さんからのメッセージのバトンリレーである。
2000年3月17日 島田誠

鴨居玲略年譜(島田誠のの独断による)

1928年 父悠、母茂代の次男として金沢に生れる。しかし、生年月日、場所に異説あり。いずれも韜晦僻のある本人による。
1946年 金沢美術工芸専門学校(金沢美大)に入学。師は宮本三郎。21才。
1948年 第2回二紀展にて初入選。
1949年 二紀会同人。
1952年 六甲洋画研究所で児玉幸雄、中西勝らと、後進の指導にあたる。
1958年 神戸に居を移す。
1959年 最初の渡欧。
1961年 パリから帰国。二紀会脱退。
1963年 ブラジルからパリへ。
1968年 再び、二紀会会員に。
1969年 第12回安井賞受賞。受賞作「静止した刻」
1971年 スペイン、ラマンチャの村人となる。
1974年 スペインからパリへ。
1979年 神戸新聞出版センターより「酔って候」を刊行。
1980年 神戸市文化賞受賞。六甲山56キロ縦走。
1982年 再び二紀会退会。このころから入退院を繰り返すようになる。
1984年 兵庫県文化賞。
1985年 5月「鴨居玲画集 夢候」出版。
9月7日 自宅にて急逝

当ギャラリーとの関わり

1982年ごろ講談社(出版社)の依頼で版画制作取次ぎ。実現に至らず。
1992年 鴨居玲展を開催(K氏コレクションの協力による)
1999年 鴨居玲展「夢候よ」を開催
2000年 日動出版の画集刊行協力。写真撮影など。
没後15年 「一期は夢よ」鴨居玲展(全国巡回展)に協力出品
小磯記念美術館の「田村孝之助介と神戸」展に鴨居作品出品
2001年 2月24日から3月8日まで没後15年「鴨居玲展」をギャラリー島田で開催。

鴨居語録

(親しい友人達からの聞き書きから構成)
知り合いの画家さんが鴨居さんの絵の前でポツリ、ポツリとしゃべる。

玲さんと、ずっとデッサンをしていて、ある日「S君なあ。君はデッサンはうまい、そやけど絵は手の汚れ、爪の垢まで描かんとあかんのよ」と言われたのが今でも強く残っている。

とにかく人間が好きなんです。

私は。それから、いままで若い女性を描かなかったのは皺がないんですよ、彼等には。人生の何かがでてこないいんですよ。のっぺらぼうで。
老人の皺には彼等の何十年か生きてきた、人間のいろんなものがあらわれてる。
(木下晋さんも同じ事を言ってますね)
個展の仕事が終わって、その解放感と、たったこれだけの事であったのかとの絶望感が入り交じって、奇妙な気持ちの毎日です。もっとも、この絶望感が、もう一度、ためしてみよう、ためしてみようという、私の生きる手がかりになっているのかもしれません。

犬の話しをいたしましょう。
血統書がまいりました。オランダの牧場生れの由、生年月日の間違いが判明。3月14日現在で生後4ヶ月です。体重はすでに21、5kg、一週間に1kg強のわりあいで太っております。まるで風船のふくらむのを、ながめている様なアンばいです。(3月16日現在22kg)
体ばかりが大きのですが、なにしろ、まだまだ赤ん坊。甘えに甘えております。食事は、一日に、肉1kg、牛乳1リットル、御飯ドンブリ一杯、ニンジン二本、生ヤサイの葉数枚、したがいまして、私は野サイ食を主にしたものに切りかえさせられました やむを得ません。
此の種の犬は、はじめて、なにしろ超大型犬ですので、性格も非常におっとりしとりまして、人や犬をみても、全く問題にせず、恐怖心も無し、故に、ドロ棒の番は駄目
「それじゃ、チイターよ、お前の仕事は何か?」と問うと、即座に答えて曰く、
「セニヨールよ、私は雪の中で行き倒れている人を救助するのが私の仕事、かしこい犬は、首にコニャックのタル、少々出来の悪いのは、ブドー酒入りのタルを持つことになっておるの」
それではというので死んだ真似をしてみますると、これはよい遊び相手とばかりに、かみまくられて、風呂に入っても、飛び上がる程、体中生キズだらけ
「チイターよ、お前は本当に、人を助ける犬やろか、どうも信じられんなあーー」
「セニョールよ、お前の演技が、あまりにもまずいのです。それに私は生れてまだ間がないものでーー」
お手はすぐにおぼえました。此の頃やっと「ワン」というのをおぼえたのですが、止め方がわからず、チイターの方ヨロコンデ連呼しておりますが近所の手前、非常に現在困っているところ。
閑話休題

私の家の近くに、ブローニューという森があります。昔、三銃士達が決闘をしたりしたところ、そこに毎週、土、日、犬好きな人達が、散歩を兼ねて、あつまる広場がありますので、私もチイター君をしたがえ、はなばなしく登場、日本では、めったにお目にかかれぬ、グレートデン(仔牛位の大きさ)ドーベルマン(大型、猛犬)セパード、ボクサー等が集まっておりました、見るからに、おそろしげな その大型犬の群れの中に吾がチイター君は、私の止めるのも、なんのその、ノコ、ノコ、ノコと飛び込み、グレートデンや、ボクサーを追いまわしはじめ「大人の話しに入ってくれるな!!」とばかりに彼等は、めいわく千万という顔で逃げまわっておりました。
ぬいぐるみが、動き出したようなもので、万場の拍手カッサイをうけておりました。
親バカもよいところです。然し、文学も芸術も、人生も語れぬ人間を相手にするよりはチイタの顔を眺めている方が、なんぼかよろしい。
(私もロンドンのハイドパークで何度もこんな光景を目にした。拙著“忙中旅あり”に
同じような文章を書いているので、つい鴨居さんの愛犬の話しの聞き書きが微にいり細に入ってしまった。多くの友人の話しから再構成しました。厳密な鴨居先生の発言ではありません)

犬の続報

ご迷惑ながら「チイター世」の報告。
4月5日現在で28kg、此の手紙到着頃は多分30kg位、三日に1kgの率で増えております。
犬と遊んで、傷だらけの私の手を見た、画廊のマネージャーが「それは良い事ではない。何故ならば、お前はボスだから」東洋と西洋の(大げさですが)犬に対する考え方が、異り興味深い発言でした。(これは人間に対しても同様で、白人が支配した、それらの土地の人間に対する態度とも共通するものがあります。会田雄次さんのアーロン収容所参照ありたし。)
犬にワンや、お手を、おぼえさせても、白ん坊には意味の無い行為、彼等に必要なのは「待て」「進め」といった、たぐいの絶対服従(注:傍線を入れて、字も大きく強調)というものが大切なようです。故に、広場に、どれ程沢山の犬が、走りまわっていても、ケンカをしないという事です。
犬から話は飛びますが「3十3は6なのだけども、ひょっとすれば、あの人は3十3は8と思っているかもしれない、だから、あの人の領境は、おかすまい…・。」と言った物の考え方、これだけは白ん坊の社会が羨ましいです。(中略)
さて、吾がチイタ君は、毎朝7時頃、「オッサン、まだかーー」といった調子で、鼻で私の頭をつつき、耳をペロペロなめて、おこしにいりますが、此の時、ほんの少しでも動いたり笑ったりしますと、そっれ、と飛びかかってまいりますので、狸ねいりをきめこみます。あいつも枕元で「ほんじゃーー」と、ともに狸寝入り。
11時、第一回の朝の散歩、珍しい犬なので、近所の広場せも、駄犬共をつれた人達の中央で、私達は、ふんぞり かえるのであります。
まずは運動と、デモンストレーションを兼ねてと、棒切れを、ポーンとほうりますと、わが「チイタ一世」は、すこしも動ずる色なく、私を見上げて、ニッコリ、ほほえむのみ、満場失笑の中を「今日は調子がわるいのかな ヨシヨシ」と早々に退場、かねがね犬好きの、これまた近所のカフェーの入り、ボーイや主人からの賛ジを聞きながらの、モーニングコーヒー、チップはコーヒー代と同じ位にはずんで店を出る、といったのが私の朝の日課であります。(1976年5月4日パリ)

「飛んでから見る人生」

私の性格として、いや全くの本能的なものとして、“飛ぶ前に見る”人をどうしても信ずる気になりません。(善悪を述べているのではありません)とかく飛ぶ前に見る人は、とても美しいすりかえの論理を使用する時がある故にです。
しかし、“飛んでから見る”という人生。これはホンマのところしんどい事でまあります、実感です。
たぶんフルいと、若い方に言われるでしょうけれども、私には、これしか、この方法でしか“生きようが無い”“生きる意味が無い”といった人生を、少なくとも物を創ろうとする人間はえらぶべきでしょう。(マドリーにて。プラドで会った画家に)

大砲を手に入れました

この前、金沢で古い大砲を手にいれましてねえ。江戸時代の、これ位の(手で大きさをしめす)。撃つことだってできるんですよ。榎忠(大砲のパフォーマンスで名を馳せる)の鼻を明かそうと思ってね。文献を捜しているんです。(海文堂書店にて)