私達の画廊は現代に生きる画家とともにある。活動の基本は有名、無名に関わらず、すぐれた仕事をする作家を発見し、共に育つことである。
松村先生とのお出会いも私達にとって衝撃的なことでした。その天才的な描写力と額縁にいたる細部までおろそかにせず高い完成度を持つ仕事。そして、どの作品もが独創的であり、かつ松村先生の生きる証として描かれている。言えば簡単だがそれを貫くことは大変なことだ。
氏のように技法上の表現力に卓越していてなおかつ描く内容が蛙を描こうが、猿を描こうが、すべて画家自身の投影であるような描き方は突き詰めていけば、自画像を描き続けているようで、ながく氏の仕事を見続けていると、いわば氏の思想史を共有するような思いになる。そして最近の円熟した仕事は当然のこととして内面の円熟と相応している。
大きな災厄を経験された1979年(42才)と2000年(62才)では、全ての状況の心境も違って当然である。それは同じ母子像である1980年の「なわ・とんで」と1996年の「母」を比べれば歴然である。人によれば、もっと昔のような毒気が欲しいと思われるむきもあるかもしれないが、わたしには極めて好ましいものだ。その飄々とした姿の中に、なんともいえない生きている哀しみも、そして密かな喜びも滲みでている。それは”あるがまま”を肯定した諦観ともとれるし、氏の自画像が、いつも尻尾をもっていたり、表情が滑稽に強調されていたりするのは「俺の哀しみなど他人に分かってたまるか」と突き放しているようにも見える。
氏の到達した境地はとてつもなく深い。私達はそこを覗き込むように松村先生の作品を見ている。

畏友・朋友 下村 良之介

ずっと以前から京都美術懇話会の会員同士として展覧会に出品するたびに、特異で独自の雰囲気を持つ彼の作品に興味と関心を懐いていたのだが、現在のように親密な関わりを持つようになったのは、一九七九年あの忌わしい事故の見舞いに行ったのがきっかけだった。
一瞬にして、住居諸共、最愛の夫人と三人の子供さんまで失う!という大惨事は、普通の人間なら到底立ち直れそうも無い筈の、残酷で悲惨な出来事だった。
そんな苛酷な状況の直後・・・だが、彼は強靭な作家魂で、美事に逞ましく立ち上がったのである。早くも翌年、「なわ・とんで」発表した。
大画面に流れる数條の真紅の縄に絡む夫人と子供さんを主題としたその作品には、事件に対する怨念とか追慕というような、弱々しい情緒性や逡巡の気配は微塵も無く、堂々と現実を直視した、毅然たる画家としての確信に満ちた信念が感じられた。
私はその健気な再起に驚く反面、制作に傾注した彼の気持ちの深奥に充溢する心情に、胸を打たれて感動したものであった。
その四年後、屏風絵「昇華」では、題名通り、もうすべての苦悩から脱却したかのように、穏和な表情の亡き妻子が、天上の澄み切った世界を舞う、優雅な姿を見せてくれた。
松村光秀君は男らしい男である。
決して彼の描く自画像のような醜男ではない。残念ながら若禿で、おつむは少々テカッてはいるが、長身痩躯なかなかのスタイルで、大きな眼をギョロつかせ、粋な口髭を備えた、チョットした気取り屋である。
それでいて、笑えば一転、顔中の道具が底抜けに明るい笑顔を表出する剽軽さも持ち合わせている。
何事もまめにこまごまと仕事をこなす彼はまた、無類の凝り性でもある。彼の作品にはしばしば文字が描き込まれるのだが、楷書、叢書、篆書等、種々の書体から、浄瑠璃文字に至るまで、教養不足の我々では読むことすらむつかしい文字が、それぞれの方式を的確に踏まえて表現さ  れているのだから驚きである。
゛凝る゛といえば、彼の額縁は特別級である。ほとんどが自作の手の込んだもので、頑丈な木製の額を磨きあげた上から、様々な金具や」、大きな観音開きで開閉自在のもの、果ては額縁の溝にはめ込まれた絵が、重複して左右に移動できるものなど、額縁に対するこだわりはすさまじい。
数年以前から、木彫を制作しだして、又々我々を驚かせた。
この彫刻が亦すばらしい。ぬめりのある肌は、木彫であることを疑わせる程で、体温すら感じさせ、彼の描く人物が、そのまま彫刻になっているのである。
彼にとっては絵画と彫刻の間には、なんの隔壁も存在しないようだ。
彼の表現する人物達は、大胆にデフォルメされ、一見グロテスクな独特の姿態で、不気味な妖気を発散させるのだが、その裏に諷刺の効いた軽妙なユーモアを秘めていて、観る者を楽しませてくれる。
酒好きの割にはいつも孤独を楽しんでいるような彼は、たまに遊びに来る時でも常に一人で、トンソク(豚脚)の入ったビニール袋をぶら下げて飄々と現われ、又飄々と去って行く・・・・。
松村光秀君は稀有な作家である。

現代の絵師 松村光秀展 <身・姿>

絵師とは
松村光秀は現代の絵師です。「絵師」 は「宮中おかかえの絵描き」という意味で、たとえば伊藤若冲、長沢芦雪など奇想の日本画家を思い浮かべます。もちろん松村光秀は誰にも抱えられていないどころか自立孤絶の洋画家です。しかし、天才的な筆力、独創的な発想は、現代の絵師と呼ぶのがふさわしいのです。
松村光秀という画家
絵に色濃く漂う異郷・異形の雰囲気は、生活を求めて海峡を渡った「在日」の子としての辛苦の時間の積み重ねがあります。1937年、京都の下町生まれ。貧苦と家庭の不和の中、9才で母を亡くし、中学を出て看板屋で働きながら27才で初めての個展を開催、画家の道を歩みはじめ、29才で結婚。4人の子供に恵まれます。しかし、ようやく掴んだ幸福の絶頂から、家から火が出て一瞬にして、住居、絵画諸共、最愛の夫人と三人の子供さんまで失う!という奈落の底へ落とされます。しかし、強靭な精神力で現実を直視し、一人のこされた愛娘を育てながら、さらに磨き上げた筆力と想念で素晴らしい作品を生み出していきます。
その作品
氏の作品にしばしば「身」「姿」という言葉が登場します。初期の代表作のシリーズは「身勢打鈴(シンセイタリヨン)」で、身の不幸を嘆くの意です。筆舌に尽くしがたい過去の辛苦を表すとともに、「身を晒し」「身を投げ出して生きる」という覚悟の表明でもあります。
自分が置かれた境遇、母への、家族への尽きせぬ想い、自分への問いかけなど切迫したものが全ての作品の底流として流れています。
惨事から27年の月日が流れました。歳月が押し流したもの、押し流せなかったもの。沈殿したもの、洗浄したもの。それらが交差する作品から、天上の静謐と地上のひたすらな生がせめぎあった、密やかな歌声が聞こえ、香りが匂ってきます。自在の境地に達した飄々とした姿の中に生きている哀しみも、密かな喜びも滲みでています。
沖縄展について
沖縄は本土と大陸との間で独特の文化を育み、しかも筆舌に尽くしがたい過酷な運命に翻弄されながら、毅然として誇りをもって生き抜いてきた霊的な地であり、佐喜眞美術館は、そうしたこと全てを「静かにもの思う空間」です。個人の体験とはいえ氏の歩みと沖縄とは重なっても見えます。ここでの松村展は大きな意味を含んでいるのです。
ギャラリー島田 島田 誠

最近のギャラリー島田での個展記録
2004年9月28日(火)~10月14日(木) 松村 光秀 菊華展
2003年10月1日(水)~10月13日(月) 松村 光秀 展 <身の遊>
2006年4月15日(土)~4月26日(水) 松村光秀展 「躯・姿」
2007年10月13日(土)~10月24日(水) 松村光秀展 「華函」
2008年11月1日(土)~11月12日(水) 松村光秀 自選展

■ 略歴
1937 10月2日、京都市中京区に生まれる
■ 個展
11963 初個展・都雅画廊(京都祇園)
1965 朝日会館ホール(京都)
1966ギャラリー紅(京都)(’76/’81/’83/’84/’90)
1977 ギャラリーヤエス(東京)
1985 ギャラリー三条(京都)(’92/’93)
1986 ABCギャラリー(大阪)(’92)
1989海文堂ギャラリー(神戸)(’93/’96/’98/’99/’00)
京都府文化博物館(京都)
1996 ギャラリー中井(京都)
1999 松明堂ギャラリー(東京)

■ グループ展
グループ展(団体展・コンクール展)
1962~64 京展・26回~28回展出品、紫賞受賞
1962~85 二科展出品、金賞・会員努力賞
73年「身勢打鈴」彫刻の森美術館収蔵
1962~65 京都アンデパンダン展
1963~64 関西総合展(大阪・天王寺美術館)
1968~85 関西二科展・10周年記念大賞受賞
1972~73 京都府主催 京都洋画新人展
1974~75 京都府主催洋画綜合展
1976京都府主催第一回洋画版画展出品
1974~76 グループ∞の会展(大阪日動画廊)
朝陽展出品(大阪日動画廊)
1975~90 京都美術懇話会展(朝日催、大丸)出品
1976~78 シェル美術賞展、76年三等賞
1977第13回現代日本美術展
1979第一回明日への具象展
1985第一回川端龍子賞展
京の四季展・京都府収蔵
1995桂歌之助独演会同時開催・身の表現展 EASY ALL(滋賀)
現在 無所属